世界樹にいる紅竜

 樹海の中には、市場からだいぶ歩いたところに小屋がある。かなり歩く距離だが、種族によってかかる時間はまちまちだ。ラクリのような立脚類と、リエードのような四脚類でもあまり差もあまりない。

 だがそれよりもいくらか先に、もう一つ、開けた空間がある。人工的に作られたような広場は、人間の女性の膝の高さほどの草に覆われており、木々にも、世界樹にも陽が隠されない貴重な空間である。そんなささやかな空間で、紅竜がわざわざ持ってきた箱に腰かけ、本を開いている。今朝から彼女はここで暇をつぶしているのだが、もう間もなくその本は読み終えてしまうことだろう。

 さんさんと降り注ぐ太陽の下、本は終幕を迎え閉じられた。膝にそれを置いて、明るい青の空を見上げて、ラクリは止まる。軽く目を閉じて、じっと、ゆっくりと呼吸している。

 風も吹かないまま、静かな時間は過ぎていった。

 次にラクリが動き始めたのは、少しして。持っていた本を懐に納め、次の本を取り出したのだ。それにはしおりなどはついておらず、表紙側から読み始める。尻尾が軽く左右にふれて、草がカサカサとなぶられ揺れる。

 陽が広場から見えなくなった頃、来訪者が現れた。のっそのっそと土を足裏につけながら歩いてくるのは、警戒するかのように首を伸ばしているリエードだ。ラクリの背後に忍び寄るようにして近づき、そっと顎を彼女の頭の上に乗せた。まるで、彼が彼女を抱いているかのような形になる。

 紅が一瞬動きを止めて、視線を上に向ける。一方の青は、目を下に向ける。

「おはよ、ラクリ」

 あら、と間も置かず、抵抗することもせずに、本に目を落とす。リエードの首が少し傾き、ついていく。

「おはようって言うには、もうお昼よ。買い物は済んだの?」

 今日の当番の彼の方である。その自覚はあるのか、カバンが首に下げられている。

「まだだよ。どこにいるのかなーって、思ってさ」

 悪意も何もない、素直な言葉。

「そう。だったら、買い物行ってきなさいよ。……そうね、紅玉(べにたま)でも、買ってきてよ。アイスの代わりにさ」

 紅玉とは、人間の拳大の果実を密に漬け込んだお菓子である。市場においては値の張ることを知ってか知らずか、わかった、と青は答えて、続ける。

「ラクリ……いや、紅竜ってさ、どんな種族なの? どんな生態してるのかなーって、思ったんだけど」

 ぐりぐりと、彼の逆鱗が彼女の額の鱗に押し付けられる。へぇ、とラクリが感心したような声を上げる。しかし視線は本に落とされたままだ。

「あんたもそんなことに興味持つんだ」

 うん、と答える青。

「なんで、知りたいと思ったのか知らないけれど、どうでもいいか。別にいいわよ、それくらい」

 ラクリは本を閉じた。そのまま、彼を頭にいただきながら、目を閉じ言葉を選び始めた。青はたまにまばたきをしながら、ただ耳を傾ける。


 紅竜……赤色の鱗を持つ竜のこと。こんななりだけど、一応、樹海と同じような森に住んでる、変な種族よ。狩りを中心として生活をしてた。外敵なんてそうそういないから、数はそんなにいなかったけれど、ね。

 で、いつかは知らないけれど、人間と交流を持ち始めたわ。それから農業を始めたらしいけど、意味、あったのかしらね。以来、野菜を摂ったり調理したりするようになったわ。

 さて、紅竜ってね、ばらばらに暮らしていたんだけど、その一件以来、少数の群れで過ごすようになり始めてね。ま、だからといって狩りをやめるなんてことは、なかった。

 私も狩りに参加したり、もちろん、土いじりもしたことあるわよ。特別苦労もしなかったし、飢えるようなこともなかった。

 ここらへんまでは、人間とそうそう変わらないわね。あんた興味を惹くのは、これかしらね。

 他がどうかは知らないけれど、私たちの多くは、母親と血がつながってないのよ。おかしな話でしょう。ま、私たちの言う母親といえば、育て親ってだけなんだけど。

 紅竜は群れを形成してるって言ったけれど、それは子供のため、らしいわ。

 私たちは、男が狩りを中心に、女が子育てを中心に生活してるの。農業は両方で適当にしてたんだけどね。

 狩りはまあ、想像に難くないでしょ。獲物を群れ全体に切り分けて、食料にするの。順位みたいなのはあったけれど、なんだかんだで全員分の食糧をとってくるから。で、紅竜は子育てがちょっと特殊なのよね。

 まずは卵を、産む。それくらいは分かるわよね。で、普通のところ、それは放置されるか、産んだ当人か身内、あるいは番が保護するか。あんたはどっちかしら。


 彼はラクリの頭の上で、うなる。

「どうだったかなー。覚えてないや、そんなこと。母上は、卵を産んで、とかなんとか言ってたけどさ」

 ラクリは目をわずかに開いた。うなじにあたる喉を感じている。

「いい母親がいるのね。父親は?」

 いたよ。青は表情も声色も変えず、続ける。

「……今は関係ないだろ。続きを話せよ、ラクリ」

 そう、と赤は目を閉じる。


 紅竜の卵はね、放置されると同時に、保護されるの。産まれた卵は、孵化のために一か所に集められる。具体的に言えば、鳥の巣みたいな藁でできた場所にね。

 で、子を預かっていない女の紅竜が時間の当番制で卵を見守るの。そうそう死んだりはしないけれど、もともと産まれることもないものも、あったりする。もちろん、私だってやったわよ、数回、ね。一通り、狩りや農業の仕方とか教わってから、女はそれに携わる。

 で、仮に卵が孵ったら、そのときの当番をしていた女がその子の母親になるの。年齢も、性別も、関係なくね。同時に、当番から外されて、その子の世話にかかりきりになるわ。ま、かかりきりとはいっても、外敵から守ったり、給仕したり、くらいだけれどさ。

 あんたはどうだったのよ。……ま、いいけどね。どうあったとしても、どうにもならないわ。


 ラクリは語りをやめた。軽く首をかしげて、これくらいかしら、と打ち切る。

「へぇ。紅竜ってそんなふうに暮らしてたんだ。聞いてた話は、少し古いみたいだね」

 本当に単なる好奇心だったかのように、ありがとうと口にすると、彼は右腕を持ち上げて、彼女の頭に爪で触れる。撫でるかのように滑らせる。

 じろり、と視線をきつくして彼を睨みつけようと首を動かしたが、じゃあね、と彼は尻尾を揺らしながら立ち去った。なんなのよ、と呟いても、地平線へと隠れ始める陽が照らしているだけだった。

 リエードは樹海を通り抜ける途中、出ておいでよ、と一言発した。すると木陰から姿を現したのは一人の紅竜だ。ラクリと比較して少し小柄でほっそりとした、穏やかな黒い目を持つ。紅竜はリエードと合流すると、市場へとのしのし歩く彼の少し後方を歩き始めた。

「いやぁ、ラクリから君のことは聞けなかったけど、育て親だったんだねぇ。あのラクリが」

 にやにやとのんびりとした口調で、背の低い枝の下をくぐる。

「でも、なんで来たのさ。まるで君のことなんて歯牙にかけない様子だったけど」

 青の尻尾が木の根の上をすべる。何も身に着けていない紅竜は根の這っていない場所を選んでついていく。

「母さんの様子を、見てみたくて。その、ありがとうございました」

 ふぅん、と興味なさげな反応を示す彼に、彼女は続けた。

「世界樹へと来れば、会えると思って。すぐに見つかって……あなたのおかげです。長によい報告が、できそうです」

 小さく笑っていたが、青は気づく様子はない。やがて市場へとたどり着くと、紅竜とリエードは違う方向へと進路をとった。青は市場の中心へ、赤は草原へと道へ長い影を落とした。

「もうすぐ夜になるし、どこかに泊まった方がいいよ。夜盗がいるって噂だし」

 忠告ありがとう。紅竜が道の向こうへと消えていく。じゃあね。青竜がまだ開いている露店を探し始める。ほどなくして、二人はそれぞれの目的地を見つけた。


 一方その頃、ラクリは樹海の小屋へと帰ってきていた。誰もいない空間に踏み入り、まずは椅子にしていた遺産を放り投げる。それは放物線を描き、リエードの遺産コレクションの一つとぶつかって転がり落ちた。彼女は手ごろなものを適当に拝借していたのだ。雑な扱いでこそあるものの、同居人はそれほど気にしてはいない。いわく、壊れているかもともとわからないものをそこに置いてるから、とのことだった。

 それでいいの、と問いかけたことはあったが、壊れているのはもとから何もわからないもん、とのことだった。必要以上に小屋のスペースを圧迫しているわけでもないので、彼女は彼の好きにさせている状態だ。

 台所の方を見やっても、食材は何もなく、できることもない。

 手元にある本は読破したもの。別の本を取りに行くだけのために部屋に上がるのは億劫なもの。紅は無言で食事の席につく。

 夜特有の静かな時間が流れる。いつもの時間ならば、どちらかが用意したものを食べているのだが、同居人のきまぐれのせいで遅くなっている。ひどい空腹感はないものの、この時間がひどく退屈であった。

 彼女が欠伸をかみしめ始めたころ、ようやく同居人が返ってきた。遅かったわねと言えば、ちょっとねー、と悪びれた様子もなくテーブルについて、カバンを置く。中から出てきたのは、二人分の調理済み食品だ。

 一瞬渋い顔をしたラクリだったが、ひとまずそれに手を伸ばして口にする。挽いた穀物を練って焼いて作られたものだ。さらに油で揚げ、ハーブをちりばめたもの。生肉を好むリエードではあるが、これだけは別らしい。舌で一本だけをからめとると、口先でくわえ込む。少しずつかじっていく。

 一方のラクリは一本を、一回、二回とかじって飲み込んでしまう。ザク、ザクと軽快な音と共に、夕食はあっという間になくなってしまった。とはいえ、遅めの時間にはちょうどいい。

 すべてなくなる少し前に、カバンを覗き込んだラクリが口を開く。

「紅玉はどこよ」

 ぺろぺろと唇についた油を舐めていたのだろう。べろんと舌を出したままリエードは停止する。一言で表すならば、しまった、だろう。爪でテーブルをたたいたラクリは、無言で彼を睨む。

「ちょっと考え事しててさ、忘れてた」

 あはは、と苦笑いをつくる彼だが、彼女はそれについて問い詰めようとする。

「じゃあ、私の紅玉よりも大切なことでも、あったの? 教えてもらおうじゃないの、青竜」

 勢いよく立ち上がったラクリが、素早くテーブルを迂回してリエードに近づいた。慌てて彼も逃れようとしたものの、立脚類は遅かった。ラクリは彼の被っているサンバイザの垂らしている革紐を一瞬でつかんだのみ。うわぁ、と間抜けな声が青から漏れた。

 ぐいと引かれたサンバイザーは、反対方向へと行こうとする主の頭から離れる。同時に被る部分が弧を描いて振れて、やがて停止する。だがそのころには、リエードは鞄を放置したまま暖簾をくぐり、どしどしどしと外へと逃げ出していた。

 サンバイザを奪ったラクリは、見えなくなった彼を追いかけるでも、愚痴をこぼすわけでもなく、手にあるそれを見つめた後、くるりと回して頭に乗せた。頭の形が異なる故に、それは被れない。

「別にいいんだけど……紅玉なんていつでも売ってるし」

 誰に宛てるでもないない言葉の後、彼の忘れものをテーブルに置き、彼女は二階に上がる。明かりをつけることもせずに、懐の本を棚に戻し、寝藁へと体を落ち着ける。背中と床の間に寝藁が押しつぶされて、カサカサと鳴る。何度か寝返りをうつだけで、彼女は寝息を立て始める。


 迷いやすい樹海の中でも、帽子を奪われたリエードは無意識のうちに夜の市場へとたどり着いていた。軽く息を切らせながら歩いていた。建物からの明かりがちらほらと道を照らしてくれている。時折立ち止まりながら、辿り着いたのは茂みの多い公園だ。適当に身を納められる場所を見つけて、身を隠す。

 リエードは迫る同居人を前に、ひとまず逃げ出した。過去にも彼女の怒りを買ったことがあるのだが、そのときは思い切り殴られたのだ。脱げないようにサンバイザーの革紐を強く引かれて、ゴッと鈍い音を鳴らして。

 そのときは、どうして怒らせてしまったのだろうか、とふと彼の中で疑問が生まれる。軽く首を傾げたり、目の前の葉っぱを鼻先でつついて遊んだりしてみたが、彼の記憶からそれはすっぽりと抜け落ちていた。思い違いだったろうか、と思い返してみるも、じんわりとした痛みは体が覚えていた。

 まあいいや、と呟き茂みの中で体を丸める。寝心地はよくないが、彼はもともとあちこちを歩き回り生活する青竜である。安全だと分かっている場所ならば、彼はどこでだって眠れてしまう。

 寝返りを打てば、沈黙の夜に枝がパキッと音を立てる。だが彼は静かに寝息を立てながら、一晩を過ごした。

 やがて陽が昇る少し前に、リエードは身体に響き鈍い衝撃に起こされた。ぱちくりと目を開いて、不満げに喉を鳴らすと、目の前には夜回りをしていたのだろう騎士が彼を見つめていた。重い鎧を身に着け、手には長めの槍が握られている。

「こんなところでどうされました? 締め出しでも食らいましたか?」

 自らを一飲みにしてしまえるだろうほどの巨体の竜を目の前にしながら、騎士は臆する様子はない。

「そうなんだよねー。ちょっと追い出されちゃってさ、インス」

 何度か瞬きをして青年を認めた竜は茂みから這い出て、石畳へと足をつける。一方、インスと呼ばれた騎士は、ケンカでもしたんですか、と首をかしげる。

 黒い髪と目を持つ、人間だ。少年の面影がまだあるものの、立派な騎士の一人である。

「お土産の紅玉を買い忘れてねー。たたかれる前に逃げてきたんだ」

 なるほど、とインス。軽くうなだれるリエード。

「歩きましょうか。まだ見回りも途中なんで」

 槍を担ぎなおす騎士は、隣の知人を見つめる。うん、と答える竜と共に町中を徘徊し始めた。

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