第5話

 ぽたり、と額を打つ冷たさに、私は目覚めた。それは枯れた枝葉を葺いた天井からしたたり落ちる、澄んだ朝露だった。

 私は見慣れぬ小屋の中に、ひとりで寝かされていた。

 小屋は木材を寄せ集めたような粗末な作りだった。床は地面に御座のようなものを敷いただけで、隙間だらけの屋根からは細く日の光が差し込んでいる。誰かがここで生活しているらしく、積み上げられた鍋や食器、衣類のようなものが見られた。

 ぎしぎしと背中を軋ませながら上体を起こすと、すぐさま左足に電流が走った。見ると、私はズボン一枚の姿にされていた。左膝から下は薄汚れた布が巻かれ、木切れで固定されている。折れているのは感覚で分かった。

 私は、どうなってしまったのだろう――ずきずきと痛む頭を無理やり動かし、自分の身に起きていることを思い出そうとした。しかし、頭の奥に霧がかかったようになっていて、思考がうまくまとまらなかった。

 確か、私はナバクと森に入って、少数民族の村を目指していたはずだ。その最中、裸の男たちに矢で射かけられて、逃げて出して――と、そこまでは覚えているのだが、その先の記憶がぽっかりと抜け落ちている。ここがどこなのかも、誰が手当てしてくれたのかも、思い出せない。

 そうしてぼんやりしていると、入り口にかかった布をかき分け、女が入ってきた。

 そのつやつやとした瞳と全身の刺青を見た途端、パチッと音を立てて前夜の記憶がよみがえった。胸の上を這う、たおやかな指の感触も。

「あら、起きてたの」

 女は洗濯物が詰まった籠を置くと、私の傍らに膝をついた。垂れ下がった黒髪から、ふわっと花のような汗のにおいが広がった。

「あなた、丸一日寝ていたのよ。気分はどう? 熱はない?」

 と、女は腕を伸ばして私の頬や首筋に触れた。その手つきに、子どもの頃、母につきっきりで看病してもらった時のような、懐かしい感覚を思い出した。

 女はニギと名乗った。南国の人々は見た目では年が測りにくいが、その表情や言葉の屈託のなさは、まだ二十歳に届いていないように思われた。浅黒い肌も長い髪もはりがあって、N島で見た誰よりも健康的に輝いていた。島の中でも、裕福な家庭の育ちではないか、と私は推測した。

 ここは島に点在する村の一つである、とニギは言った。私たちが目指していた村であるかは定かでないが、こうして傷の手当てをしてくれているということは、少なくとも、彼らに外敵とみなされてはいないようだ。私は胸を撫で下ろした。

「村の男たちが、あなたたちを動物と見間違えたのよ。このあたりでは、よくあることなの」

「よかったわね、命拾いして」そう言って、ニギは目元を柔らかくほころばせた。向けられたら誰もがどきりとしてしまいそうな、艶やかな笑みだった。

「これは、君が手当てしてくれたのかい?」

 私は折れた足を指差した。最低限ではあったが処置は適切であり、怪我の手当てに馴れた者の仕事だと感じた。

「そうよ、わたしがやったの」

「そう。……若いのに、手慣れているんだね」

「まあね。それがわたしの、役割だから」

 何でもないことのように言って、ニギはゆるく足を崩した。そうしていると、ほっそりとしたふくらはぎがあらわになって、まるで青く輝くヘビが身を横たえているようだった。

 あれは神の娘だ。森の魔女だ――

 目に染みる刺青の青さに、ナバクの言葉を思い出した。

 あの日、人の海を裂いて歩いていた女もまた、全身に青い花を散らしていた。彼女の後姿がまとう、どこか妖艶な雰囲気には、ぞくぞくとさせられるものがあった。

 馬鹿馬鹿しい――私は、首を振って苦笑した。

「どうしたの?」

 二ギは、小さく首を傾げた。そうしていると、まるで森で出会った子リスのように思えて、ついつい頭に手を伸ばしたくなる衝動が湧き上がった。

「……ところで、ずっと、気になっていたのだけれど」

「なに?」

「君は、いったいどこで日本の言葉を覚えたんだい?」

 すると、ニギはきょとんと目を丸くして、

「なにそれ? わたし、普通にしゃべっているだけよ」

 と、やはり日本語で答えるのだった。

「だって、君は私と日本語で会話しているじゃないか」

「知らないわ」

 ぷるぷると少女は無邪気に首を振った。

「わたし、人とも鳥とも動物とも、誰とでも話せるの。生まれつき、そうなのよ」

 と、ニギは特に気にした様子もなく、そんなことを言う。当然、私は納得しないが、それ以上は追及しないでおいた。

 理由はどうあれ、意思疎通ができるのはありがたい。ガイドを失った今、頼れるのは彼女だけだった。

「そんなことより」

 ニギはすっくと立ち上がった。

「お腹すいたでしょう? なにか食べなきゃ、元気にならないわ」

「精がつくものを作ってあげるわね」そう言って、ニギは炊事場らしきところで食事の支度を始めた。

 彼女は壺のようなものから、黒ずんだ帯状の物体を取り出した。それはよく目を凝らすと、それは干からびた大蛇だった。ヘビは魚のように開きにされ、濁った目を虚空に向けていた。

 その日、私は生まれて初めて爬虫類を口にした。

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