7.大きな想い

 私の手を引き歩きながらも、やっぱり貴人はずっと何かを話していた。

 この夜間遠行のことや。

 『HEAVEN』の活動のこと。

 尽きることなく出てくる話題が大学のことに及ぶにいたって、私はようやく、これまでなんとなく本人に確認し損ねていたことを口にしてみた。


「貴人……本当に大学に進学するの……?」

「ああ。そのつもりだけど……」

「それで……あの……」

 でもいくら私でも、「やっぱり私と同じ大学に行くつもり?」なんて率直には聞けない。


 なんと言ったらいいものかと困りながら、必死に次の言葉を探す私の耳に、貴人の笑い混じりの声が聞こえてきた。

「ごめん……あの時のセリフを、もう一回ここで言ってあげられたらいいんだろうけど……さすがにあれは、俺にとっても決死の覚悟だったんだよね……」


 ボッと頭に血が上ってしまって、この場に卒倒するかと思った。

「いい! もう一回なんて……! 言わなくっても大丈夫! 大丈夫だから……!」

 大慌てでそう答えると、貴人は肩を揺すって大笑いを始める。

「ハハハッ……そんなに拒否しなくても……!」


「拒否じゃないわよ! でも……だって……!」

 負けじと言い返しながらも次の言葉に詰まる頃には、私は、貴人と二人きりになると思った時から抱えてしまった変な緊張が、不思議となくなっている自分に気がついていた。


 貴人がいつものように私に手をさし出してくれたから。

 笑ってくれたから。

 これまでのように自然に接することができるようになったのだと思う。


 笑い過ぎて涙を拭きながらも前を向いて歩き始めた貴人の、綺麗過ぎる横顔に目を向ける。

(ありがとう……)

 これまでどんな時も、いつもいつもどん底の気持ちから私を救って、立ち上がらせてくれた人が、そこにはいた。

 


 

「それで……琴美はどこの大学に行こうと思ってるの?」

 思い切って私が進学の話を始めたことで、貴人の中でも何かが吹っ切れたのだろうか。

 朗らかな声で尋ねられる。


 だけど私は、ふいに痛いところを突かれて、思わず呻き声を上げた。

「うっ……」

 そういえば、衝撃の大晦日からこっち、そのことをすっかり忘れていた。


 なるべく早く決めるようにと、冬休みの最中にわざわざうちまで大学名鑑を持ってきてくれた担任にしてみたら、どれだけ薄情な教え子だろう。

(先生……ごめんなさい……)


 もうすぐ受験生だというのに、それ以外のことで頭がいっぱいだった自分を深く反省しつつ、私はこの際だからもう、貴人に助けを求めることにした。

「それなんだけど……実を言うと、まだ決めてないんだよね……」


 ブッと一瞬吹き出した貴人は、すぐにそれを抑えて、私に笑顔を向けた。

「いいんじゃない? ゆっくりと決めれば……」

 さすがだ。

 ここで再び大笑いを始めると、私がプイッとへそを曲げてしまうことも、貴人には全てわかっているような気がする。

 それでいて私を追いこむようなことは決して言わず、やんわりと前向きに背中を押してくれる。


 貴人といると気持ちが楽になる。

 自然体のまま、私は私のままで、それでもいいと思える。

 肩の力が抜けた状態で、素直にがんばってみようという気持ちが湧いてくるなんて、なんて幸せな状況なんだろう。


 そこまで考えて、私はハッと、貴人の大きな手を握る自分の手を見つめた。

(幸せ? ……これって幸せ……なのかな?)

 突然降って沸いた解答に、私は驚いて貴人の背中を凝視した。


(貴人と一緒にいると……私って幸せなの?)

 それは自分でも思ってもみなかった答えだった。

 


 

 例えば貴人が『学園の王子』と呼ばれるくらいの、できすぎの人気者じゃなかったなら、私はどうしていたんだろう。

 笑顔を見ているだけで幸せな気持ちになる。

 落ちこんだ時には必ず手をさし伸べてくれる。

 そんな貴人を他の誰にも譲りたくはないと、もっと必死にがんばったんではないだろうか。

 ――諒を好きだと思って、ジタバタしている今の想いとそう違わないくらいには。


 でもそんなことを思うには、あまりに貴人はすご過ぎて。

 外見も中身も、その横に自分が並ぶなんて想像もできないくらいに完璧で。

 考えてみること自体、最初から考えられなかった。


 それに繭香がいた。

 全然似ていないようなのに、貴人によれば、内面に私とよく似た物を抱えているという繭香を理解したいという気持ちのほうが、何を置いても私の最優先で、貴人のことなんてあと回しだった。


 そのうち、繭香の貴人に対する想いに気がついてしまったら、そのあとはもう考えてみることさえしようとはしなかった。

(じゃあその全部をとり除いたら……? 一人の男の子として見たなら、私は貴人のことをどう思っている?)


 そんなことは簡単だ。

 この手に導かれて、この笑顔に励まされたから、私はいつだって実力以上の力を出せた。

 貴人が口にする「嘘のつけない琴美。真っ直ぐな琴美」に少しでも近づきたくて、 こうありたいと思う自分を真正面から目指せた。


 意地を張ることもなく。

 無理をすることもなく。

 たとえ力が及ばなくて、失敗したとしても、何も恐れるものはない。

 だって何よりも私に力をくれるあの笑顔で、貴人が「大丈夫」と言ってくれたなら、私は何度でも立ち上がれるのだから。


(どうしよう……私……!)

 これまで貴人が、包みこむように私に与えてくれていた想いが、どんなに大きくて、どんなに自分にとって大切だったのかに思い至って、涙が浮かんできそうだった。


(貴人……!)

 とても今までのように、その全てにもう知らないふりはできない気がした。

 

 


「琴美……ねえひょっとしてここじゃないかな?」

「へっ?」

 例によって、本来今やらなければならないことをすっかり忘れて、自分との自問自答にふけっていた私は、突然立ち止まった貴人に、かなりまぬけな返事をしてしまった。


 貴人はそんな私を咎めることなく、クククと喉の奥で笑いながら、目の前にある河童の像を指差す。

「ほら、こことこことあそこ。ちょうどこんなふうな配置じゃなかった? 暗いから遠くの山の形までは確認できないんだけど……」


 チェックポイントで渡された、あのあまり上手くはない風景画を頭の中で思い浮かべて、私は叫んだ。

「確かに!」


 何本もの道が繋がっているところといい、大きな木が二本生えているところといい、きっとここでまちがいはないだろう。

 自慢の記憶力を駆使して、私はそう結論づける。


「ここに何があるのかな?」

 呟きながら歩きだそうとして、ハッと気がついた。

 まだ貴人と手を繋いだままだった。

 しかも貴人の倍もの力で、私のほうがしっかりと握り締めている。


「ご、ごめん……!」

 慌てて放そうとしたら、貴人がクスリと笑った。

「俺は別にずっとこのままでもいいよ?」

 ドキリとどうしようもなく心臓が跳ねる。

「え? は? ……でっ、でも……!」


 ダメだ。

 貴人の想いの大きさとか。

 自分がもともと貴人に抱いていたはずの淡い感情だとか。

 いろいろ自覚してしまったせいで、また心拍数が上がってきた。

 とても普通になんて接することができない。


 思わず乙女ムードの感情に流されて、「私もこのままでいい」なんて頬を染めて言ってしまそう。

(でも……! だけど……!)


 頭に浮かんでくる諒の顔に違った意味で胸を痛めながら、私は必死に後退りした。

「そ、そんなわけにはいかないよ。やっぱり!」

 慌ててふり解こうとする手を、貴人は放してくれない。

「琴美……ちょっと待って……」


 なんだかちょっと貴人の顔が真剣になった気がするけれど、私はなおさら焦るばかりだった。

「貴人、ゴメン! 私、なんか混乱してて……!」

「うんわかった。わかったから琴美……それ以上下がらないで……」

「へっ?」

 静かだが妙に迫力のこもった貴人の声と表情に、私が首を捻った時にはもう遅かった。


 ガラッと足元で何かが崩れる音と共に、私の体は宙に放りだされていた。

「……? ……きゃああああ!」


 いつの間にか背後に迫っていた真っ暗な崖の下に、自分はこれからまっ逆さまに落ちていくんだと、私の頭が理解した。

「いやああああ!!」


 でも実際にはそうはならなかった。

 まさかこうなることを予想していたわけではないのだろうが、貴人が放そうとしてくれなかった私の右手は、まだしっかりと貴人の手の中にあった。


「琴美!」

 自分も地面に叩きつけられながら、貴人が両手で私の腕を持ってくれたから、私は足元に何もない空間の恐怖を感じながらも、その場に宙吊りになり、かろうじて崖から落下せずには済んだ。

 だけど――。


 私の腕を掴む貴人の手から、ツウッと何かが流れ落ちてくる。

 夜の闇の中でも、それが真っ赤な血だということが、私の目に見えた。


「貴人!」

 焦る私を宥めるように、貴人はいつものように笑ってみせる。


「大丈夫だよ、琴美。すぐに助けるから」

 でもその綺麗な微笑みは、私から見てもかなり蒼白で、貴人が必死に無理をしてるんだろうってことがよくわかる。


「やだ貴人! 怪我したんじゃないの? ……私のことはいいから、手を放して!」

「嫌だ」

 悲鳴のような声で懇願する私に、きっぱりと答える貴人の声は強い。

 微笑みさえ浮かべている表情も、貴人の意志の強さそのものだ。

 でも貴人の腕から流れ落ちて来る血液は、止まるどころかどんどん量を増しているように感じる。


「私はいいから! 自分でどうにかするから! ……貴人!」

「絶対嫌だ」

 満天の星空を背に貴人は笑っていた。

 涙で霞む私の視界の中でも、それでもまだいつものように、鮮やかに笑っていた。

 

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