第09話 海老修行〜汽車に乗る


 柳、鎮太郎くん、伸宏くんを乗せた汽車は真っ黒な光の降り注ぐ昼下がりを駆け抜けて行きます。


 ぼた、ぼたた。


 車内は真っ赤な電球がついています。

 三人の他、車両の奥の方で逆さに吊るされている皮膚の無い人型の何かの他は誰もいません。ほぼ貸切状態です。


 窓ガラスにはたくさんのイナゴの死骸がこびり付いて変な臭いが漂っていました。


「へへ、ふへへへ」


 ぽっぽー。

 ぽっぽー。


 汽車はどす黒い空を更に腐らせる黒煙を垂れ流しながらイナゴの大群をどんどんと追い越していきます。


「ぽっぽー! へへ、ぐひゃひゃ、た、たた、楽しいなあ」


 光を全身に浴びながら蜘蛛のように背中を反らせた柳が“びちゃびちゃびちゃびちゃ”と車内をのたうち回るように走り回ります。


 その様子に表情を歪ませた伸宏くんが鎮太郎くんに耳打ちしました。


「鎮太郎くん、僕もう耐え難い。気味が悪くて仕方ないよ、あの女」


「シッ、聞かれます。気持ちは僕も同じです。今日一日我慢すれば彼女とも永劫におさらばです、頑張って耐えましょう」


「うーむ」


 伸宏くんは溜息をつきました。


「そうですね、今は耐えるしかなさそうです。しかし、しかしですよ? それにしたってこの腕は何なのですか、人の腕のように見えませんか」


 伸宏くんの座席の隣には歯型のついた腕が置いてあり、周辺に蛆がぴとぴとと這っています。


「駅で会った時、あの女はこれを齧って居たんですよ。あの女にしてみれば、僕らもオヤツか何かに見えているのではないの」


 真っ赤な光を浴びながら鎮太郎くんは肩を竦めました。


「人の腕だって? あっははは」


「な、何がおかしいのか。言え!」


「これが笑わずにおれるかってなもんです。よく見給え、その腕の指の間を」


 伸宏くんは鎮太郎くんに促されるままに座席の上に転がっている腕の指の股を見ました。


 ——これは。


 真っ赤な光に照らされたそこには普通の人間には無いものがありました。

 薄い、半透明の膜、言うなればそれは、


 ——水掻き?


 ——そう、水掻きさ。人間に水掻きは無いでしょうよ。即ち、馬鹿かお前。


 意味がよく分かりませんでしたが、取り敢えず馬鹿と言われたので伸宏くんは鎮太郎くんを睨みつけました。


「別に珍しくもありませんね、正直水掻きが何か?という感じです。僕達も食べられてしまうかもしれないという今の話に何の関係があるのですかね」


 鎮太郎くんはやれやれと首を振りました。


「まあ落ち着きなさいワトスン、最後まで話を聞いてから自分の意見を言いなさい。君は豚の肉を食べたことはあるかい?」


 伸宏くんはイライラした様子で「ああ」と言いました。


「じゃあ人間を食べるかい?」

「人間は食べない。当然だ、馬鹿かお前」


 伸宏くんはやり返しました。ほんの少しだけ胸がすっとします。


「それと同じことさ。つまりはこうさ、柳が食べているのは人間の腕では無い、だから君が豚の肉を食べても人間を食べないのとおなじように、あの女も人間は食べない筈だ、と。そうだと信じるしか無い……、という訳さ」


 伸宏くんはイライラと貧乏揺すりをしています。


「なるほど。では当初僕が危惧していた通り柳に対して気を抜けないという認識で間違ってはいなかった、という訳だね」


 鎮太郎くんは踏ん反り返ってニヤリと笑って見せると「その通りだ」と言いました。


「………」


 伸宏くんは心の中で(意味がさっぱり分からん。こいつらの一族はまとめて気違きちがいだ)と思いました。



 生皮が剥がされて吊るされている人型の何かが遠くで電車の揺れにぎいぎいと鳴っています。


「げぎゃあああッ」


 不意に車内に絶叫が木霊しました。

 二人が声のした方を見るとそれは柳のものでした。


「うるさいな」


「たた、楽しい! うれ、うれし、うれ? あぁあアあァーッ!!」


 柳が二人の視線に気付いて真っ赤な照明の下をブリッジの状態のままべたんべたんと走って来ました。


「う、うわああ!」


 柳は鼻息を荒くして鎮太郎くんの正面で“べちゃん”と止まりました。

 服の中に入っていた蟲が二、三匹裾から零れ落ちます。


「ねえ、楽しいね! 私、海初めてな、なのォ! え、え、海老になれるんでしょう? 人が海老に!!」


 ——継続は力なり、継続は力なり!


 柳の頭の中でその言葉は何よりも力を持つ言葉のように思われました。


 鎮太郎くんは偉そうにコホンと咳払いをしました。そして下目遣いの視線を柳に送りながら言いました。


「そうです。柳、僕らが君の夢を叶えてあげます。感謝してほしいものです」


「ありがとうありがとう!」


 柳が海老反ったまま鎮太郎くんに飛びかかって来ました。


「ヒ、ヒィッ!?」


 鎮太郎くんはシートから電車の床に叩きつけられ、柳はその上に海老乗りになりました。上下逆の柳の顔の目がギラギラと赤く光って真っ直ぐ此方を見つめています。


「フゥー、フゥー! 鎮太郎くん、わた、わたし、えっとね……」


 突如柳の顔がぼっと赤くなりました。


「鎮太郎くん、しんたろ、のこと、す、すす、す……、ぎゃっ、ぎゃあああッ!」


 突如柳は伸宏くんに脚を掴まれ、後ろにズルズルと引っ張られました。


「ふはは、柳ぃ、少し落ち着きなよ。旅は未だ始まったばかりだよ」


「良くやった、とても良いですよ! ワトスン君!」


 伸宏君は“ワトスン”という言葉に舌打ちをしました。


(何故僕が君の助手なのか。今に見ておれ)


「いたい、頭が、痛い、痛い! やめて、やめてください!」


 柳の頭がガン、ガンと床を鞠のように跳ね、電車の床は柳の後頭部からの出血でどんどん汚れていきます。


 柳の仰向けの頭を列車内の床で引きずった後、脚をぶん投げた伸宏くんは鎮太郎くんの方へ戻る時に、わざと柳の指を踵で強く踏みました。


(よっと)


「あっ!」


 柳は自分の手がわざと踏まれたのが分かりました。


「う、うう。おか、おかあさあん」


 柳は痛みに震えながら、これで今日もお家に帰れば不幸な話でお母さんを楽しませられる、と思いました。しかしもうお風呂場に引き篭もっていた人魚のお母さんは教頭先生によって一部を刺身にされ、原宿の大将のもとに売られてしまったのです。


 柳の目から血の涙が噴き出します。


「ひ、ひぐ、ふいい〜、ふいい〜、ふ……、」


 柳は泣くのを止めて袖で顔の血を拭きました。


(泣くともっといじめられる)


 いつだってそうでした。人は柳が泣くと嬉しそうな顔になってもっと酷いことをします。


 柳は再びブリッジになり、そのままべたんべたんと列車内を二人の方へ戻りました。鎮太郎くんと伸宏くんが腕組みをしたまま並んで座り、こちらを睨んでいます。


「謝ってくれませんか」


「え?」


 鎮太郎くんの目がギロリと光り、柳はガクガクと震えました。


「と、と、飛びついて、嬉しくなって、ごめ、ごご、ごめんなさい」


「そんな、反り返ったままで、ふざけているんですか?」


「ごめんなさい、へ、げへへ」


 柳は身体をひっくり返しておずおずと膝をつき、額を床に付けました。


「嬉しくなってごめんなさい」


「はい。大人しく椅子に座っていて頂けませんでしょうか」


 柳は「え、海老のままだと椅子に座れません」と呟くように言い、鎮太郎くんと伸宏くんはそれを無視しました。

 柳は鎮太郎くんを厭な気持ちにさせたくなかったので、ブリッジはやめてお母さんの腕を両手に抱くように持つと鎮太郎くんの隣に座りました。


 生皮が剥がされて吊るされている人が遠くで電車にぎいぎいと揺られています。


 正面の窓を真っ黒な田園が平らに滑って行きます。

 何やら柳はお母さんの腕を持って自分の頭を撫でています。

 それから電車は幾つもトンネルを抜け、村々を抜け、墓場を超えました。


 村を抜ければ空は晴れるかと思われましたが、どこまで行っても曇っていて、何処までも真っ黒で、心の中もずっと真っ暗でした。

 そういう訳で柳の心の中にイメージする未来も海も真っ黒な空の下の真っ黒が浮かびました。


(本当に世界中がもうずっと真っ暗のままなんだなあ)


「げへ、げへへ」


 柳は出来るだけ元気に笑ってみました。

 しかし鎮太郎くんも伸宏くんも何も言わず正面を見たままです。


 柳はどんどん元気が無くなっていきました。



《終点、地獄》



「ぎゃ、ぎゃへえ」


 車内放送がしたと思った次の瞬間、列車は急停車をして車輪が火花を出しながら絶叫しました。

 生皮が剥がされて吊るされている人も大きく揺れて「ぎゃあああ」と絶叫しました。


「着いたようですね」


 列車のドアが“づどんッ”という音と共に乱暴に開きました。


 柳はシートから降り、床の上に仰向けになり、グッと背中を起こしてブリッジをしました。


「ギャッ!」


 しかし次の瞬間ずだんと背中を強く地面に打ちました。


 鎮太郎くんが柳の腕を足払いして、ブリッジのバランスが崩れてしまった為です。


「柳、これから海老になれるのですから、そのようなことはしなくて良いのです、普通にしていてくれませんか」


「う、うん」


 柳は身体を起こすと、お母さんの腕を両手に抱え、立ち上がると二人の後に着いて電車から降りました。

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