第03話 ぶストーカー①

「おうい、ひっく、今戻ったよぉ。係長の野郎、殺す」


 学業を終えた鎮太郎くんが、学校からの道程をえっちらおっちらと歩き、アル中のお父さんの真似をしながら巨大団地の玄関扉の一つを開けた時のことでした。




 –––おかえりなさい。ごはんにしますか、おふろにしますか、あるいは……?




「……む!」


 家の奥から女の声がしたのです。


(……様子がおかしい。即ち、幻聴には分類され難い明瞭な返事のようなものがしたことが、である。ふふふ、我ながら哲学的な考察也)


 鎮太郎くんは名探偵のホウムズに憧れている為、単純な状況を複雑に解釈したり、文章を複雑化させるのが好きです。彼はそれを“哲学的”と呼んでいました。


「はて、そんなことよりも……、だ。何ですか、今の声は。今日は家には誰も居らぬ筈であるが……」


 そう呟きながら鎮太郎くんは玄関口から闇の中を覗き込み、耳を澄ませました。


「………」


“カッ……カッ……カッ……カッ……カッ……カッ……カッ……カッ……”


 神経を音に集中していると、それまで気にならなかった音も聞こえてきました。


「………」


“カッ……カッ……カッ……カッ……カッ……カッ……カッ……カッ……”


「……壁掛け時計の秒針の他は何も聞こえないなぁ。先程の女の声のようなもの、つまり其れは幻聴の類いであったということですか」


 鎮太郎くんの両親はこの週末で青森県、むつ市の恐山おそれざんに旅行に出掛けている筈なので、その日は何者の返事があっても妙なことなのです。


「とすれば、どろぼうか、いや、玄関扉は確かに施錠されておった上に此処は地上十三階であるから、その可能性は皆無に等しいですな」


 泥棒がキーピッキングで開錠し、家の中に入ってから内側から鍵を閉める可能性は大いにあるのですが、一度“泥棒である可能性は皆無に等しい”と思ったら彼はそれ以上のことは考えられません。


 ——つまり、頭が良く無いのです。


(もし他に可能性が在るとすれば、未だ首のすわらない稚児、つまり妹が一人、確かこの家にはいた筈)


 ここ一週間程姿を見かけない様子でしたが、鎮太郎くんには両親がセックスして産まれたばかりの妹がいるのです。


(しかし幾ら「士別れて三日なれば刮目して相待すべし」とは言えども、一週間妹の姿を見なかったというだけであれ程の会話が出来る程に急速な成長をする筈はない。即ち、妹の声では無い。ふふ、我ながら完璧な推理です)


 鎮太郎くんはもう一度女の声を思い出してみました。


“おかえりなさい。ごはんにしますか、おふろにしますか、あるいは?”


(あるいは……、何だというの)


 ——いや、果たして待て!


 に対し、それは日にして七日……、つまり3は7の2.3333……倍、つまり、




 簡単に、ことはできない——、か。





 ——まあ、それがどうということもないのだけれど。



「……考えていても進まない。直接調べてみよう」


 馬鹿の考え休むに似たり、という言葉があります。珍しくこれは鎮太郎くんにしては良い判断でした。彼は土間で下駄を脱ぐと、声がしたダイニングキッチンの方へおそるおそる移動しました。


 一歩ごとに床がギシ、ギシ、と鳴ります。


「……む」


 不意に妙な異臭が周囲に漂いました。


(く、臭い! 何だこの、生臭い臭いは! この臭い、どこかで……)


 鎮太郎くんが異臭のする方へ視線を移した次の瞬間でした。


「し、鎮太郎くん? こんなところで、奇遇だね。へ、ふへへへ!」


 ギョッ!!


「き、貴様!」


 クラスメイトの大嫌いな柳がキッチンの椅子に座っていました。


“カッ……カッ……カッ……カッ……カッ……カッ……カッ……カッ……”


 暫く二人の間に静寂が漂いました。



「………」

「………」


 鎮太郎くんにとって、それはとてつもなく永く感じる時間でした。


「………」

「……ふひ、あの」


 先にその沈黙を破ったのは柳でした。


「何故、ここに?」


「………」


(何故、ここに……、何故ここに……?)


 鎮太郎くんは、


 ——それは僕の台詞です……!!


 と思いました。




 膝がガクガクと震えます。




 キッチンは黒い光に照らされ、“ぬらり”と光り、そのぬめりはメッシュの掛かった三角コーナーの中からゴキブリとなってカサカサとき上がります。


(この女、どこから人の家に入ってきたのか)


 ふと、鎮太郎くんはどこかからか生温い空気が入ってきていることに気が付き、視線を闇の中の柳からバルコニーの方へと移しました。


 サッシが外れています。


 バルコニーに向かう鎮太郎くんの背中を、放ったらかしにされた柳はどこか少しソワソワしながらジッと見つめています。


(まさか此奴、バルコニーから入ってきたとでも……?)


「ふむ」


 鎮太郎くんはバルコニーに出て真っ黒な空を一瞥しました。そして手摺に身を乗り出し周囲の外壁を入念に調べだしました。

 手を掛けて登れるようなものは外壁にはありません。梯子、縄の類も無いようした。


「……まさか空を飛んできた? 馬鹿な。ゴキブリじゃあるまいし」


 空を飛ぶ生き物の喩えとして、もっと一般的なものがあるのでしょうが、何せ相手にしているのがあの柳です。ゴキブリという言葉は自然と鎮太郎くんの口をついて出た様子でした。


 その時のことです。


「今日ノ蟲ハ、様々ナぶよぶよディ〜ス!?」


 不意に後方のダイニングキッチンから陽気な声が響いてきました。


 鎮太郎くんが振り向くと、柳がダイニングキッチンの椅子に腰掛けたままテレビを見ています。


 人の家のテレビを勝手に点けたのでしょう。


 どうやら陽気な声はテレビのナレーターの声のようです。

 因みに柳が見ていたのは毎週のこの時間に放送されている『蟲ワアルド』という番組でした。


『蟲ワアルド』はその番組名から、一見その興味が蟲の生態等に向けられていると思われがちですが、寧ろそれはオマケで、例えば年に一度、夏の暑い時期に拡大版の1週間連続生放送の枠を設け、人間の死体が蛆虫に喰い散らかされる様子を流す等、専らグロテスクや生命に対する冒涜に焦点が当てられ人気を博している国民的番組でした。


 鎮太郎くんがバルコニーからキッチンに戻ってくると、テレビ画面には芋虫を指でひたすら突っつく映像が流れています。


 ——見テクダサイ、ぶよぶよシテルデショウ??

 ホレ、今日のてーまハぶよぶよシタ蟲デスカラネ。突クト、ホーレホレ、ぶよーんぶよよーん。


「へへ、好き! 蟲、可愛い!」 と独り言なのか何なのか、柳はテーブルをバシバシと叩いて喜んでいます。


 元気いっぱいに暴れ廻る芋虫の映像の光が、椅子に座る毛の塊に反射してぶよぶよと蠢いています。


 鎮太郎くんはゴクリと唾を飲んでその毛の塊に意を決して話しかけました。


「そんなことより、君、どうやって、ここへ入ったの。そして何故ここにいるの」


“カッ……カッ……カッ……カッ……カッ……カッ……カッ……カッ……”


 問い掛けに長い前髪の隙間から血走った目が鎮太郎くんを見上げます。


「ど、どうやって……? ど、どうって……?」


 柳は頬に手を添えて「うーん」と何かを考えるようなポーズをしました。それから長い前髪の隙間から見えていた目がギュルンと上を向き、白目になりました。


「え、えっとね。ま、ま……、まど……」


「即ち、バルコニーですね。そうですか。成る程ねえ……。あ、そうそう、これは大したお話でもないの、些細なことですから。でも、確かここは、」



 ——十三階です、よねえ。



「そ、そう! じゅ、十三階ですねっ! ひ、ひぃいひぃいい! 変だなァ!?」


 柳は急に慌てた様子で声を荒げ、頬に手を添えたまま、自分の額を見上げる両目から涙を流し始めました。


「……ひっ」


(泣いている……。この子、やはり病気かしら)


 鎮太郎くんは柳の薄気味悪さに巻き込まれないよう、気を持ち直し深呼吸をひとつしました。


(壁をヤモリのように登ってきたとでも言うのか、ということを僕は問いたい訳なのです! しかし「そうです」と言われたらどうしましょう。その時、僕の繊細な心は限界を迎えるであろう……)


 鎮太郎くんの膝は再びガクガクと痙攣しだしました。


「嗚呼、早く出ていってくれないかなぁ。この状況を、何とか、何とかしたいんですけどねぇ」


 鎮太郎くんはニコリと微笑みながらキッチンシンクの方へ後退りしました。


 ——見テクダサイ、皆サン! ホーレホレ、ぶよーんぶよよーん。


「げへ、げへへ! ぶ、ぶよぶよ! ぶよぶよ!!」


(うっ、共鳴している。何かいつもより一層様子がおかしいですね。しかし鎮太郎、動揺しては駄目。落ち着いて対応すればよいのです。醜女ぶすも人の子、話せば分かる。犬養毅いぬかいつよし


 そこで、鎮太郎くんはとびきり普通のことを言ってみることにしました。






「あのう、ここは僕の家なので出て行ってくれませんか」






“カッ……カッ……カッ……カッ……カッ……カッ……カッ……カッ……”



「な、なな……」


「……ごくり」


「な……、何言ってるの! ここは、私の家だよ! ですので、鎮太郎くんのほうこそ、い、いらっしゃいませ!」


「………」


 その目には迷いはありません。この女は本当にここを自分の家だと思っているのです。


 鎮太郎くんの膝の震えは過去最大になりました。


 ガクガクと震えながら鎮太郎くんは、柳の帰る家があるとすればどんな家なのだろうかと思いました。

 洞窟、墓場、ゴミ処理場。

 いいえ、こうして家々を渡り歩いて人々を喰らっているのかも知れない、とも考えました。


(お、恐ろしすぎる!)


 もしもの時に備える為に鎮太郎くんはシンク下にあるキッチン扉を僅かに開けて包丁を後ろ手に取りました。


「おやぁ? ハハハ。それは奇怪なこともあるもんですなァ。てっきり私の家かと思っておったのですがねぇ」


「違うよ!ぐへ!ぐへへ!!」


「そ、そうかなぁ。少し、外に出て表札を見てきて貰えます?」


 鎮太郎くんは包丁を持っていない方の手で玄関扉の方を指し示しました。


「ぶへ、へへ! ひゃ、変な鎮太郎くんっ」


 変なのは間違いなく貴様です、と鎮太郎くんは思いました。


 柳は椅子から立ち上がり、そのまま裸足で玄関ドアを開けて外に出ました。


 玄関扉上部に付いているドアクローザーが柳の目を盗み、関節をゆっくりと曲げます。閉まりゆく扉の隙間から汚いドドメ色の空を背景に、表札を見上げる醜女ぶすの姿が鎮太郎くんには見えました。


 ——つづく——

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