心的外傷

Dahlia

​​第7幕 心的外傷



 誰かが自分を呼んでいるような気がした。いや、はっきりと力強く自分の名前を叫んでいた。その声は、最近になってよく聞く声だった。その声は二つだった。一つは、優しい男の人の声。もう一つは、かわいらしい女の子の声。ルティはうっすらと目を開けた。ぼやけた視界に、エメラルドのような緑色の瞳と、アメジストのような紫色の瞳が映りこんだ。ダリアとパティーが心配そうな表情で自分の顔を覗き込んでいた。背中とお尻になにやら固く冷たい感触がある。ルティは自分が壁にもたれかかったまま眠ってしまっていたことを知った。身体が冷え切っていて寒気さえする。それでもルティは、安心した。

「ただいま。ダリア、パティー。心配かけちゃったみたいで、ごめんね。」

ルティはか細い声で言った。彼女が完全に目を開け、言葉を口にしたことを受けたダリアとパティーは長い安堵の溜息をついた。

「本当に心配したよ。ちょっと目を離した隙にこうして眠ってるんだもん。

 どれだけ揺すって話しかけても起きないし。でもまあ、よかった。」

パティーが気の抜けた顔をして言った。ダリアも安心した様子で、ルティに手を差し伸べた。ルティはその手を取って立ち上がった。

 ルティはおもむろにこの部屋を出て、この部屋への入り口のドアの上を確認してみた。入るときにはなぜか気が付かなかったが、プレートが取り付けられていた。そこには【しあわせなゆめ】と書かれていた。これでルティは確信した。やはりこの別館には異変が起きている。怪奇現象、怪異と言ってもいい。人智を超えた不可思議な力が働いている。ルティはその実感を得た。彼女は部屋に戻ると、二人に先ほど自分が体験したことを話して聞かせた。二人の顔色がみるみる悪くなっていった。

「じゃあ、もしかしたら永遠に眠り続けていたかも知れないってことなの?」

ダリアが顔面蒼白で震える声を絞り出した。ルティはうなずいた。ダリアはそれきり顔色を悪くしてうつむいてしまった。

「とにかく注意しよう。ルティ。気分はどう? 大丈夫?」

「大丈夫。」

ルティはまたしゃんと立った。まだ起き抜けで気分が優れなかったが、もう泣き言はこぼさないと決めた。身体は冷え切っていて関節が軋むが、先に進まなければならないという気持ちが脚を動かそうとする。そんなルティの強い表情にパティーは感心した。だが、それと同時に自分の中に巣食う劣等感、コンプレックスがきりきりと心を痛めつける。自分の土壇場での意思の強さや行動力、勇気は目の前の小さなかわいらしい華奢な少女にも劣っているのだと、そう感じた。パティーは自分が暗い顔をしていることに気付いた。首を小さく左右に振ると、思考の中から無理やりネガティブな気持ちと痛みを追い出した。

「ねえ! このノート、ここの職員さんの日報みたいだよ。」

ダリアが机の上に置かれている日記帳をめくりながら二人を呼んだ。

 ざっと目を通した限り、そのノートはダリアの言うように職員が書き残した日報だった。各職員への確認事項や作業内容などがざっくりと書かれている。パラパラとめくっていくと、途中から記述が途絶えた。そこでここが閉鎖されたのだろう。パティーが最後の記述があるページを開いた。何日分かの日報が書かれていた。その中に、奇妙な記述を見つけた。それは、他に比べて明らかに長い記述だったのですぐに目に留まった。その内容は、ある日、この別館の倉庫に運び込まれたとある物品に関する記述だった。その物品を示す文字は黒塗りで消されていて正体を知ることはできなかった。だが、その何かがここに安置されてから、奇怪な事件が起こるようになったのだという。そこからは閉館に至る日まで、被害の報告が書かれていた。日にち、職員の名前、その職員の状態が箇条書きで記されている。その状態というのが、この倉庫で起こった事件の奇怪さを物語っていた。


 ――― 気絶したまま目を覚まさない ―――

 ――― 医師の診断は植物人間の状態 ―――


負傷や、行方不明になるといった被害は一切認められなかった。それを読んで三人は背筋が凍りつく思いだった。先ほどルティが陥った状態と、非常によく似ていた。三人はなんとも言えないまま少しだけページをさかのぼり、怪異の原因と思われる、黒塗りにされたなにかに関する記述をノートの文字の羅列の中に探した。しかし、肝心なところは全て黒く塗り潰されており、新たな手掛かりを見つけることは困難だった。また、日報は作業などに関することばかりなので、出入り口のことなどのことは当然ながら書かれていなかった。

「時計の針が逆向きに回ると、時間が逆向きに流れる?」

ダリアがつぶやいた。

「え、なに?」

パティーがダリアを見た。彼女はノートに書かれたおびただしい文字の中の一つを指さした。そこには、確かにダリアの言った通りの文言が並んでいた。

「あ、本当だ。ちょっと待って、まさか。」

パティーはその文字を睨みつけた。そして、思考する。ここは不可思議な怪奇現象が起こる空間になってしまっている。そしてそのことは自分自身の目で見たし、ルティも先ほど身をもって体験した。更には日報の記述もある。ならばここに記された、時間が逆向きに流れるということも実現しうる。もし、予測が正しければここに迷い込む前にまで戻って、この状況を回避できるかもしれないと彼は考えた。さらにその周辺の文字を読んでいく。すると、この倉庫に年代物の置時計が保管されているという情報を発見した。それは【Cー1】に保管されているのだという。

「ダリア。お手柄だよ!」

「ほんとう? やったあ!」

「パティー。どういうことなの?」

ルティが首をかしげた。

「もしかしたら、ここから出られるかもしれない!」

二人の顔がパッと明るくなった。パティーは二人に、日報に記されていたことと自分の予想を説明した。二人はパティーの推理に希望を見出すことができたようで、小さな身体に活き活きとした純粋な力を宿らせている。いまにも駆け出しそうな勢いだった。パティーはそんな二人に背中を押される思いだった。いまこの場において、一番強くなくてはならないのは自分で、この二人をなにがなんでも守ってあげるのだと心に強く誓った。




 ――― そう 今度こそは絶対に ―――




​​♪♪♪


 パティーは机の上に放置されていた鍵束を掴むと、二人を引き連れてエントランスへと出た。そして【A】の隣にある【C】のドアの前に立った。錆びた金具に無数にぶら下がるキーの中からCの刻印があるものを探し出すと、ドアノブの鍵穴に挿し込んだ。右に回す。だが、鍵の開く音も感触も全くなかった。今度はそのまま左に回す。無機質な鍵の音がした。キーを引き抜いてドアノブを回す。しかし、ドアノブはなにかに引っかかったようで、初期位置からほとんど回らなかった。そこまでしてパティーはようやく、ここのドアは初めからロックされていなかったことに気付いた。またキーを差し込んで右側に回し、鍵を開けた。次こそ、ドアは不気味に軋む音を響かせながらその道を開けた。

「おっちょこちょいパティー。」

ルティが笑った。

「ほんと、おっちょこちょいパティー。」

ダリアも追い打ちをかけて笑う。パティーは赤面した。

 細く蒼白い光が不気味に照らし出す、温度の感じられない無機質な倉庫をいまなおさまよっているが、ルティはもうそこまで恐怖を感じなかった。それは先ほど自分にとっての大きな試練を一つ乗り越えたからかもしれない。そしてなにより、パティーが解決への糸口へ導いてくれているし、明るく元気なダリアに力をもらっている。ルティは自分の前を行く大きな背中を見ながら【C】の管理区域へと足を踏み入れた。

 扉の向こうは【B】の管理区域と同じだった。真っ直ぐな通路の壁に、左右二つずつドアがある。蛍光灯が冷たい光を放っていた。【B】の通路と違うところは、正面には扉がなく、行き止まりだということだ。

 【Cー1】のドアは入って手前側の右だった。パティーは、鍵がかかっていることを確認してからCのカギを挿し込んで右に回した。確認しただけのことはあって、鍵の開く音がしっかりとした。ルティとダリアはすんなりと鍵が開いたのでつまらなさそうにしていた。さきほどの、おっちょこちょいパティーを期待していたようだ。湿度の高い無垢な二つの視線を背中に浴びながら、パティーはドアを開けて中を覗いた。

 倉庫の中は明かりがなかったが、通路から蛍光灯の明かりが侵入しており、限定的ではあるが中の様子をうかがい知ることができた。そこはやはり博物館の展示室同様に、ガラスケースが部屋の壁沿いに配置されているようだった。全てに白い布がかぶせてある。パティーは一歩、部屋の中に足を慎重に踏み入れた。すぐさま、壁を確認してこの部屋の蛍光灯のスイッチがないかどうかを調べる。幸いにも、入り口のすぐそばの壁にあった。パティーは壁に埋め込まれているその出っ張りを押し込んだ。しかし、一向に部屋は明るくなる兆しを見せない。パティーは首をかしげてもう一度スイッチを入れてみた。同じことだった。

「どうも、点かないみたいだなあ。」

入り口付近はまだ視界が確保できるのだが、奥に行くにつれて段々と暗闇に閉ざされてしまっている。パティーはまず、手近なガラスケースから調べていくことにした。順番にかぶされた白い布をめくっては畳んでケースの隅に置く。中には古い時計ばかりが入っていた。腕時計はもちろん壁掛け時計に懐中時計なども、まるで展示されているかのように丁寧に並べられている。それらの時計は全て停止していた。秒針は一秒たりとも時を刻まなかった。ケースを三つも見ると、もう視界の確保が困難になった。ルティとダリアはそれ以上には奥に進まなかった。パティーはジーンズのポケットからライターを取り出した。ホイールを親指でこするようにして火を灯す。それで心ばかりではあるが、火の近くのものは見えるようになった。

「パティー、どう?」

ダリアが憂いに満ちた声で言った。

「なかなか見つからないね。置き時計はまだ一つもないや。」

真っ暗な闇の中で、パティーの灯すライターのか細い火だけがぼんやりと浮かび上がっていた。パティーはどんどん奥へ奥へと進んで行く。ルティは入り口のドアを振り返った。もしもいま突然に、あのたった一つしかない光の入り口を閉ざされてしまったらという想像が頭をよぎった。怪異の真っただ中を自分たちはさまよっているのだ。いつ怪奇現象が起きても不思議ではない。ルティは念のため、ドアの近くに立つことにした。

「パティー。わたしとダリアはドアの近くにいるね。」

「うん。わかった。」

パティーの声が闇の中から聞こえた。ルティはダリアの手を引いてドアのそばまで戻った。通路からの光が照らしてくれる。それだけでなんだか安心できた。

「暗いと、怖くなるよね。」

ダリアが、握ったルティの手を一層強く握りながら言った。その瞳はパティーのもぐっていった闇の中を見ていた。

「うん。怖いよね。」

ルティも彼女が見据えている方向を見ながら応えた。

「なぜだか、わかる?」

「なにも、視えなくなるから?」

ダリアがそのままでうなずいた。

「帰ってくるところも、進む方向も、なにも視えなくなっちゃうからだよ。

だから、暗くなったら、安心できるように明かりを灯す。

 でも、もしも明かりになるものがなかったら、そのときはどうすると思う?」

彼女は変わらず、闇の中の紅い火を見つめている。

「うーん。どうするの?」

ダリアがルティの方を向いて微笑んだ。

「明かりみたいに、そばにあると安心できるものを探すんだよ。

 迷っても、道がわからなくても、ここだよって呼んでくれる、そういう存在を。」

ルティは、ダリアがどういう理由でこんなことを言ったのかわからなかった。ただ、右手で握っているダリアの感触が、温度が、急に鮮烈なものになった。

 パティーはもうずいぶんと奥の方までやってきていた。もうライターの火だけが唯一の明かりだった。ガラスケースの中をいくら調べても、止まったままの古い時計しか出てこなかった。彼はそれでも、順番に調べていった。ちょうど、部屋の中央に置かれたケースの辺りまで壁際の物品を見終えたパティーは小休止を取った。暗い所でわずかな明かりを頼りに行動するというのは思ったよりも摩耗する。彼はライターの火を灯したまま、暗い宙へ視線を泳がせて一息ついた。もうしばらくは煙草を吸っていない。緊張の糸が途切れたのと、ライターを持ってしまったことで、一服したくなってしまった。

 そのときだった。彼の耳が、しずくが落ちるような静かな音を捉えた。最初は気のせいかと思ったが、動かずに耳を澄ませてみるとその音は確かに聞こえた。それも一定のリズムを正確に刻んでいる。間違いなく、時計の針が進む音だった。その音は、中央のガラスケースから聞こえているような気がした。パティーはすぐ、部屋の中央に置かれたガラスケースまで歩いて行った。他と同様に白い布がかぶせてある。だが、一つ違うのはその布が盛り上がっていたことだ。パティーは布をめくった。そこには中の歯車が露出している、変わったデザインの置時計があった。塔のように、縦長に組まれた歯車が少しずつ回り、静かに時を刻んでいた。ローマ数字の書かれたドーナツ状の盤を指す針は一〇時四三分を示していた。パティーがライターの火を時計に近付けて、もっとよく見ようとしたときだった。突然、時計の針が止まってしまった。そしてすぐさま、また動き始めた。

「え?」

戻るはずのない、過去へ向けて。


​​♪♪♪


 悲痛な叫び声が上がった。激しい衝突音が周囲一帯を震え上がらせた。甲高い、金属の摩擦音のような響き。その次には鼓膜を突き破るほどのクラクションの音。それから、誰かの声。なんと言っているのかわからなかった。知らない言語だった。だが、言語というには奇妙な、支離滅裂とした音の連続だった。自分の認識している世界が、吹き飛ぶようにぐるぐると自分の周りを回っている。まったくもって、理解不能だった。パティーはそのうち気分が悪くなって目を閉じた。耳を両手で塞いで、その場にうずくまった。なにも聞こえず、なにも視えない、無の世界を強制的に作り上げた。そのまま、現在の意味のわからない狂った世界が過ぎ去るのを待とうと思った。


 ――― 思い出の後遺症は消えないぞ パティー・ティエンス ―――


封鎖した耳をすり抜けて、頭の中に直接声が響いた。しわがれた、老人の声だった。更に強く耳を押さえ、まぶたをぎゅっとつむる。真っ暗な視界に、粘り気の強い紅色の塗料が垂れながら文字を浮かび上がらせた。さきほどの声が言った言葉が、そのまま文章となった。結局、逃れようとしても無駄だった。パティーは急激に周りの温度が下がるのを感じた。首筋に、氷の冷たさをした粒が降ってきた。それは彼の体温に負けてすぐに水となって流れ落ちた。パティーは目と耳を開いた。

 どこかで見た景色だった。町の大通りだった。陽はとっくに沈んで宵闇が世界を包み込んでいた。その黒い視界には、もう自分の記憶の傷跡を抉るような無慈悲な紅い文言は浮かび上がっていなかった。その代わりに寂しそうな白い粒が、音も無く黒い天から舞い降りてくる。夜も遅いのか、右隣を真っ直ぐに貫く車道には一台も車が走っていなかった。外灯の小さな光が星のように連なっていた。自分の体内から出て行く息は白く、呼吸をするたびに体内の温度が奪われていく気がした。濡れたコンクリートは凍結しているらしく、ガラスのように、こぼれ落ちたわずかな明かりを冷やかに反射している。

「パティー。」

背後で、不機嫌な女の声がした。その声に、パティーは息を呑んだ。金縛りにあったかのように身体が硬直した。指先を一センチも動かせない。また、あの冬の日がやってきたことを、パティーは悟った。何度も何度も眠りにつくたび、ぽっかり空いた心の傷口から芽吹く古い記憶。土に根付いた花が毎年決まった時期に花を咲かせるように、その思い出の悪夢の季節はやってくる。そして咲き誇る、傷跡の花。

「なぜ、わたしを頼ってくれないの? あなたの、そういう優しすぎるところが嫌いなのよ。」

胸にナイフが突き刺さったように痛かった。すぐに傷口が熱を持ち、心臓の鼓動とともに鈍い痛みが駆け巡る。パティーはまた、なにも言えなかった。背を向けたまま足元に視線を落とす。奥歯を噛み締めて、必死になって答えを探す。もう、何年も探し続けている、その答えを。

 外灯が、ちかちかとまたたき始めた。静かに降る雪と、その外灯だけが動いていた。寒さが骨まで染み入る。

「また、なにも言わない気なの?」

深く、言葉が突き刺さる。相手の言葉は自分でもわかっている自分の急所を、的確に寸分たがわず射抜いている。パティーは自分でもわかっていた。自分のその優しさは、時として自分自身を臆病にしてしまう。たとえば、相手に腐った部分があればそれを取り除き、それ以上に腐敗しないようにしてやることが本当の優しさだということもわかっていた。だが、彼にはそれができないでいた。相手の苦痛を思えば、そこにナイフを入れることはできなかった。そしていま、相手は自分の腐った部分をなんとか治療しようと懸命にナイフを入れてくれているということもわかっていた。パティーはすべてを了解していた。それでもなお、彼は立ち止まったままで、動き出せないでいた。そんな自分を情けなく思った。

「もう、いい。わたし行くからね。」

背後で踵を返す音が鳴った。確かな足音が、次第に遠ざかっていく。音が少しずつ消えていく。あとにはただ、空虚な静寂だけが残った。やっとパティーは振り返った。遠く、交差点の付近を黒いロングコートを着た女性が歩いていた。その後ろ姿をパティーは遠い目をして見送った。黒に、金色の髪が映えた。

 一瞬だった。静寂をクラクションの音がつんざいた。その次には甲高いスリップの音。そして破壊の轟音が響き渡った。交差点を、ぐしゃぐしゃになった鉄の塊が滑走した。まるでサイコロのように転がると、勢いそのまま彼女を荒波のようにさらっていった。

「ルレアァァァァァ!」

パティーは彼女の名を呼んだ。だが、もう届かなかった。去って逝く彼女を呼び止めることはできなかった。慌てて惨事の方へと駆け出そうとする。だが、凍った地面に足をとられ、虚しくも心だけが身体を置いて先走る。パティーの身体はそのまま固く冷たいコンクリートの地面に激突した。パティーは頭から落ちた。額が切れて、血が噴き出した。だが、そんな痛みなど微塵にも感じなかった。それよりもはるかに巨大な痛みと、哀しみと、後悔と、自分に対する怒りが込み上げてきて自分の全てを占拠した。固く拳を握りしめた。

 地面に滴り落ちる自分の血が、重力に逆らって舞い上がってきた。それは溢れ出た傷口へと戻っていった。自分の身体が強制的に宙に浮いて、意思とは関係なく自分を立ち上がらせる。悲痛な叫び声が上がった。激しい衝突音が周囲一帯を震え上がらせた。甲高い、金属の摩擦音のような響き。その次には鼓膜を突き破るほどのクラクションの音。それから、誰かの声。なんと言っているのかわからなかった。知らない言語だった。だが、言語というには奇妙な、支離滅裂とした音の連続だった。自分の認識している世界が、吹き飛ぶようにぐるぐると自分の周りを回っている。まったくもって、理解不能だった。パティーはそのうち気分が悪くなって目を閉じた。耳を両手で塞いで、その場にうずくまった。なにも聞こえず、なにも視えない、無の世界を強制的に作り上げた。そのまま、現在の意味のわからない狂った世界が過ぎ去るのを待とうと思った。


 ――― 思い出の後遺症は消えないぞ パティー・ティエンス ―――


封鎖した耳をすり抜けて、頭の中に直接声が響いた。しわがれた、老人の声だった。更に強く耳を押さえ、まぶたをぎゅっとつむる。真っ暗な視界に、粘り気の強い紅色の塗料が垂れながら文字を浮かび上がらせた。

それを認識すると、パティーは嫌な予感を覚えた。

「やめろ! もう見たくない!」

彼は目と耳を塞いだまま、大声で叫んだ。すると、真っ黒な視界に塗りたくられていた紅い文字が煙のように掻き消えた。暗闇のみとなったのも束の間。すぐにまた紅い文字が、新たな文言を闇の中に刻み込んだ。それと同時に、またあの老人の声が言う。


 ――― 拭えぬ後悔は袋小路 おまえはここをさ迷い続ける ―――


一際大きな文字が現れて、パティーの心を絶望の淵へと突き落とした。【Dead end】と鮮血のような色で暗闇の中に書かれた。また、自分の首筋に雪が止まって、水となって流れ落ちた。

「パティー。」

またあの声がした。心臓が強く胸を打つ。寒いのに嫌な汗が出る。パティーは無理やりその場を離れようとした。不思議なことに、強く念じているにも関わらず脚は動かなかった。そしてさらに不思議なのは、この先の悪夢を知っていてどうにかそれを回避しようと焦る自分の意識と、先ほど同様に彼女の言葉を浴びて悠長に落ち込む無知な自分の意識が混在していることだった。不憫なことに、身体の支配権を得ているのは、これからの惨劇を知る由もなく呆然と落ち込む方の意識だった。どれだけ身体を動かしたり、言葉を発したりしようとしても、回路が遮断されてしまっているかのように全く意思は反映されなかった。

「なぜ、わたしを頼ってくれないの? あなたの、そういう優しすぎるところが嫌いなのよ。」

さっきよりも余計に深く突き刺さる。言おうとしているのに、身体が動かない。破滅の時間は刻一刻と近付いてきている。

「また、なにも言わない気なの?」

焦りと絶望がどんどん強くなっていく。狂ったように心の中では喉が張り裂けんばかりに叫び、のたうち回っているというのに、身体は動かない。彼女は、自分に言った最期の言葉を一言一句違えずに残すと、踵を返して歩いて行ってしまった。やっと、自分の身体が彼女の方を振り返った。彼女はもう交差点に差し掛かっている。急いで走り出そうとする。だが、振り返っただけで身体は止まってしまった。身体を動かしたのは、現在の自分の意識ではなかった。またあのクラクションの音が鳴った。その音を聴いた瞬間にパティーは目を閉じようとした。目の前で愛した人が破滅にさらわれる光景を見たくはなかった。しかし、ついにその望みすらも叶えてはもらえなかった。スリップ音。車の衝突する音。おもちゃのように転がるぐしゃぐしゃの車。そして、死に強奪されていく大切な人。

 パティーはその場に泣き崩れた。全てが終わってしまってから、身体が解き放たれた。

「もう、やめてくれ。もう、たくさんだ。」

彼は嗚咽混じりにつぶやいた。無情にも、また全てが巻き戻り始めた。自分の意識と記憶を継続したまま、それ以外の全てがまた繰り返されようとしている。そしてこれは、永遠に繰り返され続けることなのだろう。その絶望の黒い光が心に射し込んだ。

また、あの惨劇が繰り返された。また懸命に自分の身体を動かそうと必死にもがいてみるが、やはりどうともならない。彼女はまた同じ言葉を並べ立て、パティーに背を向けて去って行く。そして、何度も何度も彼女が車に押し潰される光景ばかりを瞳に押し付けられる。

「だれか、たすけて・・・。」

パティーは壊れていく自意識の中で、思わずつぶやいた。

「ルティ・・・。ダリア・・・。」


​​♪♪♪


 ルティは暗闇に浮かび上がるライターの火をずっと見つめていた。先ほどから目を離さずに見ているが、少し移動してから全く動かなくなった。ここからでは小さな火しか見えないのでパティーの様子も、彼がなにをしているのかも、彼の周囲になにがあるのかもわからなかった。

「パティー、さっきから様子が変だよね。」

ルティが自分と同じようにして暗闇の中に浮かんだ火を見つめるダリアに訊いた。彼女は黙ってうなずいた。ルティとダリアは二人してそのままパティーの動向を見守っていた。だが、どれほど待っても固まった空気が流れ出す気配はなかった。物音ひとつしなかった。ただ、色を失くした黒の中でただ一つの赤い火が音も無く揺らめくだけだった。たまらず、ダリアがパティーに向かって声を飛ばした。

「パティー。どうしたの?」

無音の世界で、その澄んだ声はよく響いた。にも関わらず、パティーは返事をしなかった。二人は顔を見合わせた。聞こえていないはずがない。だが、パティーは返事をしない。ようやく彼の異常に気付いた二人は互いに焦りの色を浮かべた。パティーの元へ駆けていこうとする。暗闇がそれを遮るように、また誘うように広がっていた。ルティは今にも駆け出しそうな脚を一度止めると、深く呼吸をした。それから心を強く持って、真っ直ぐに前を見据えて、ゆっくりと暗闇の中に足を踏み入れた。ダリアもルティの腕にすがりながら後に続く。

 足を踏み出すたびに、か細いライターの火が近付く。パティーはライターの火で照らされた変わった意匠の置時計を見つめて固まっていた。まばたきすらしていなかった。

「パティー?」

彼女たちの問い掛けにも応じず、揺すっても石像のように動かず、まるで彼だけ時間が止まってしまっているかのようだった。

「ルティ! この時計、針が逆向きに回ってるよ!」

ダリアが叫んだ。改めて置き時計を見てみると、確かにダリアが言った通り、進むはずのない反時計回りに針が進んでいた。時計の針は2時07分を指していた。その不可思議な現象に、二人はしばらくの間、目を奪われていた。

 時計の針が2時03分を指した頃だった。それまで反時計回りだった時計の針が、そこを境に正常に動き始めた。二人は首をかしげた。またしばらく観察していると、2時08分を少し過ぎた辺りで、再び時計は逆向きに回り始めた。そして2時03分の地点に至ると、また正常に時を刻み始める。2時03分から2時08分の間を幾度も行き来している。

「そんな・・・。」

ルティが失意の中、言葉をもらした。自分が体験した、しあわせなゆめと似たようなことがパティーにも起こっている。ダリアは言葉を失って口に手を当てて後ずさった。

「パティー! 戻ってきて! おねがい!」

ルティはパティーにしがみついて彼を揺すった。何度も何度も、彼の名を呼んだ。戦慄していたダリアも、彼にすがりついてその名を大声で呼んだ。

 ふと、なにかを踏んだ感触がルティの足に伝わった。曲線を描いていて、踏んだ後に安定しなかった。ルティはそれを拾い上げた。ひんやりとして、手の温度を奪われる感覚があった。それは、六〇センチほどの鉄パイプだった。ルティの頭の中に、ある考えが浮かんだ。それは名案のように思われた。パティーを捕らえているのは目の前にあるこの置き時計で間違いはない。この鉄パイプで、叩き壊してしまえばいいのだ。ルティはさっそく、それを実行に移そうと、思い切り鉄パイプを振り上げた。いざ、振り下ろそうとしたところで、身体が止まった。両親の、置いてあるものには触らないという言いつけが頭をよぎる。一度止まってしまえば、次々にそれを実行しない理由が浮かんでくる。これを壊してしまって、それでもパティーが元に戻らなかったら、壊してしまってはパティーが元に戻らなくなってしまうのでは。そんな答えの出ない杞憂ばかりが頭の中を旋回し始めた。

「それ貸して!」

ダリアが言うが速いか、ルティから鉄パイプを取り上げた。ルティはそれでようやく我に返ったが、もう遅かった。

「ダリア、だめ!」

ダリアが2時08分を指した置き時計を、鉄パイプで思い切り殴打した。


​​♪♪♪


 ――― パティー 戻ってきて ―――


 聞き覚えのある声が自分の名を呼んでいる。幾度目かの惨劇の後で、パティーはその呼び声に気付いた。視線を上げる。その先では、彼女の命を奪い去った車が横転していた。その景色を、パティーは恨めしそうに眺めていた。また、この陰惨で忌わしい事件の一部始終を見なければならないのか。そう、気力の失せた瞳をしながら考えていた。だが、今度はいつまで経っても時間が逆行しなかった。その代わり、景色と音が早戻しになるその代わりに、自分の視える世界の世界がぐしゃりとひしゃげた。それは、絵の描かれた紙をぐしゃぐしゃにしたような光景だった。景色の全てが歪にひん曲がっていた。電柱は捻じ曲がり、道路は寸断された。自分だけはしっかりと自分の形のままでそこに存在していた。

「パティー。どこへ行こうとしているの?」

背後で声がした。パティーは胸の奥が鋭く痛むのを感じた。ルレアの声だった。一番最後の記憶にある彼女の声と全く同じだった。悲しみは尽きない。だが、もう後には戻れない。彼は自分に誓った。

「後ろを振り返るのは、これで最後にするよ。」

パティーは自分の背後を振り返った。あの日のままの姿で、ルレアは立っていた。いまにも泣き出してしまいそうな表情でパティーを見ていた。灰色の瞳が、自分を捉えている。

「ごめん。もう、行かなくちゃ。」

ルレアは涙を流した。パティーは彼女に背を向けた。十字架を握って祈るように、自分の首元にぶら下がっている三日月のネックレスに手を当てた。

「さよなら。愛してるよ。」

冷たい風が吹いた。ルレアの身体は粉雪となって風に乗り、黒い空へと消えていった。パティーの紫色の瞳から、涙が一粒だけこぼれ落ちた。それが歪んだ地面に落ちた瞬間、ガラスにヒビの入る音が響き渡った。パティーの立つ、彼を捉え続けていた世界が一気に、轟音とともに崩れ去った。足場を失い、パティーの身体は重力に導かれるまま、闇の底へと落下していく。彼はその浮遊感をものともせずに、ジーンズのポケットから煙草の箱とライターを取り出した。細い煙草を咥えると、ライターのホイールを回して先端に火を点ける。煙を吸い出して飲むと、ゆっくり息を吐いた。そして彼は自嘲するようにして笑むと、つぶやいた。


 ――― やっと 言えたな ―――







→ ​​第8幕へ続く


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