うさぎの穴


Dahlia

​​第4幕 うさぎの穴



 ルティは中庭を歩きながら鞄の中をまさぐっていた。その様子を不思議そうにパティーが見つめていた。彼女はようやくお目当てのものを引っ張り出した。お金とキャンディの入った小袋だった。中からダリアにあげたときと同じようにして赤、黄、緑の包みをそれぞれ一つずつ手のひらに乗せ、パティーに差し出す。

「ランチのお礼ね。赤がいちご、黄色がレモン、緑が青りんごだよ。どれがいい?」

「わ、いいの? じゃあ。」

パティーは黄色のキャンディを取った。ルティは残りのキャンディを元に戻した。パティーは歩きながら包みを開けて、中から出てきた宝石のような黄色い玉を口に入れた。一瞬、酸っぱい顔をした。ころころと口の中でキャンディを転がしている。ルティは心ばかりではあるが、ランチのお礼ができて嬉しく思った。なにかをしてもらったら、例えわずかでも、なにかお返しがしたいとルティは思う。それが達成できて、キャンディを転がす愉快そうなパティーの表情が見られて、ルティは満足していた。

 別館まではそこそこの移動時間を要した。博物館の敷地内の隅の方までダリアを先頭に歩いて行った。本館ほどではないが、それも立派な建物であった。本館と似たような外観をしていて白い外壁に覆われている。正面に位置するガラス張りのドアは既に片方だけが開け放たれていた。三人はさっそく中へと入った。

 中は白い照明で明るく、ひんやりとしていた。ロビーには誰もいなかった。正面の壁には様々な舞台のポスターが木の額縁に入れられて飾ってある。パティーがそれを見て感嘆の声を上げた。ルティにはそれがなぜなのかはわからなかった。だが、いくつか知っている題名のものはある。中でも、ハムレットとマクベスのポスターは幼心には強烈だった。どちらも恐ろし気な影が描かれており、そこに起こる災いを暗示するかのようだった。ルティはポスターが貼られている壁から目を逸らした。壁の左右にはそれぞれ通路が伸びているようだった。ダリアがポスターの前に進み出た。

「ルティは、怖いの苦手そうだね。こっちに行こう。」

ダリアは向かって左側の通路を示した。ダリアを先頭に進んで行く。すぐに次の部屋に着いた。そこは会議室のような部屋だった。大きなテーブルに椅子が十二脚、備え付けられている。そしてそのそれぞれの席の前には、大量の資料とおぼしき紙が山を成していた。作り物の窓が一つだけ申し訳程度にある。そして、テーブルの中央には模造品の、非常に変わった形状のバタフライナイフが二本、並んで突き刺さっている。

「ギルティ? ノットギルティ?」

ダリアが二人を向いて微笑んだ。

「ノットギルティ。」

ルティは厳粛な調子で答えた。ダリアが笑った。パティーはその二人のやり取りを見ていて感心した。これは十二人の怒れる男というサスペンスの金字塔とも評される名作の舞台セットである。だがこの作品はもう五十年近く前の作品で、テレビもスクリーンも白黒の時代だ。いくら名作とはいえ、そんな古い作品をこの幼い二人が知っているとは予想外であった。しかも内容はただただ議論が続くだけの、子供からすれば面白くもなんともないものであろう。ルティは陪審員八号の真似を、ダリアは陪審員五号の真似をそれぞれして、話の流れでかなり重要なシーンを再現している。ダリアがナイフを持った振りをして、二つの刺し方を実演する。

「二人ともすごいね。なんで知ってるの?」

パティーが訊ねた。

「パパが好きなの。それで、わたしも一緒に観てたから。」

ルティが答えた。ダリアはまだ続けている。

「わたしは、映画が好きだからよく知ってるよ。」

低い構えから突き上げるようにして腕を振りながらダリアが答えた。

「感心するなあ。」

パティーが展示されているセットを眺めながら言った。気が済んだのか、ダリアは姿勢を元に戻すと、作り物の窓の方へと歩いて行った。上に押し上げて開けるタイプの窓だった。いまは上がっており、開いている。ダリアはしばらく二人に背を向けていた。

「ちょっと、お手洗い行って来るね! 先に回ってていいよ!」

ダリアはそう言うと先へ走って行ってしまった。誰もいない会議室にぽつんと二人、ルティとパティーは取り残された。どうするかとパティーが訊いた。ルティは先に進むことにした。

 次の部屋はどこかの家の中のようだった。立派な暖炉があり、年季の入った本棚が並んでいる。作り物の窓の奥には見渡す限りの桜の木が描かれていた。部屋の中央には見るからに高価なソファーやテーブル、椅子が並べられている。総じて、あたたかみのある部屋だった。パティーは窓の奥に描かれた一面の桜の木を見たときに、この世界がなんという作品かわかったようだった。

「ルティ、これはね、桜の園っていう作品だよ。書いておいて後から観てみるといいよ。」

ルティは鞄からペンとノートを取り出した。暖炉のそばに説明書きとおぼしき立札がある。彼女はその前に立った。隣に、パティーも立つ。


 ――― 桜の園 ―――

――― 一九〇三年 アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ 作 ―――

 ――― チェーホフ四大戯曲のうちの一つ ―――

 ――― 桜の園を所有するラネーフスカヤ夫人を主軸とする物語 ―――

 ――― 彼女の浪費癖でできた借金の返済のた ―――


途中まで書いてルティは手を止めた。

「ん? どうしたの? ルティ。」

パティーが途中で途切れてしまった文章を見ながら訊いた。ルティはなぜか書く気が起こらなかった。こんな説明書きでは物語が全く想像できない。自分がこれに関して知りたいと思うのは、目の前の説明的な文字の羅列ではなかった。ルティはノートを閉じて鞄に仕舞った。

「あんまり、面白くなかった?」

パティーは心配そうに訊いてくる。ルティは首を横に振ると笑顔で応えた。

「文字で説明されても、あんまりわからなかっただけ。」

彼女のこの答えを受けて、パティーはどこか安心したようだった。

「これ、観たら面白いんだよ。出てくる人、みんな面白いんだ。

 あ、でも、ルティにはちょっと早いかもしれないなあ。」

彼は自分の下くちびるを指でつまんだ。ルティは彼が濁した言い方をしたので、気になり問い詰めてみた。しかし彼は笑ったり、答えにならない言葉を漏らしたりするばかりだった。ルティはこれでは聞き出せないと判断して鞄の中から小袋を取り出し、二十五セント硬貨を手に乗せた。それを見てパティーは受け取らないと言ったふうでひたすら、だめと言った。ルティはそんな彼にいたずらっぽく笑いかけた。

「表が出たら教えて。裏が出たらもう訊かないから。それでいい?」

彼はつくづく、彼女に感服した。

「わ、わかったよ。じゃ、コイン投げて。」

ルティはにこっと笑うと銀色に輝くコインを親指で弾いた。高い音を一つ立ててコインはくるくると回転しながら宙に舞う。それも一瞬。パチンとルティは上手に手の甲にコインをもう片方の手で押さえつけた。もったいぶって、ルティはすぐには手をどかさない。ゆっくりと少しずつ、この独特の緊張を楽しみながら結果を開示していく。その結果に、パティーは頭を抱えた。表だった。ルティは得意げに鼻を鳴らしながら硬貨を仕舞う。

「わたしの勝ち。はい、教えて。」

パティーは横を向いて気恥ずかしそうに言った。

「ちょっと、えっちなシーンがあるんだよ。ちょっとだけね!」

彼はどこからともなく沸き上がる罪悪感に落ち着かず、その辺を歩き回った。ルティもはしたないことを訊いてしまったと恥じらっていた。パティーは頭をガシガシと掻いている。

 足音が聞こえた。先の空間へ通じる通路からだった。二人はダリアが帰ってきたのだと思った。すぐにその足音の主は桜の園の部屋に入った。その人物は、ダリアに非常によく似ていた。ダリアと同じ色をした髪。だが、長さが違う。その人物はショートカットだった。パティーよりも短い。そして、ダリアと同じような瞳の色をしていたが、少し違う。ダリアよりかは少し薄い緑色をしていた。そして服も彼女に似て白いシャツを着ていたが、少し違う。黒いサスペンダーでひざ丈の黒いズボンを吊っていた。胸元には淡い蒼色のリボンが揺れている。手には古ぼけた黒革の日記帳を抱えていた。ダリアに非常によく似ているが、似ているところが全て少し違う。そんな不思議な人物だった。少年なのか、少女なのか、判別がつかなかった。

「ダリア・・・?」

ルティが声を漏らした。

「それはぼくの妹だね。」

彼は表情を変えずに言った。

「え! ダリアのお兄さん?」

パティーが驚きの声を上げる。なおも、彼は眉一つ動かさなかった。

「フォルミス・プペアンビスキュイ。ダリアの双子の兄です。」

非情に業務的な声の響きだった。そこにあたたかみのようなものは一切感じられなかった。ルティは敏感にそのことを感じ取った。目の前の、ダリアによく似た双子の兄フォルミスはこれ以上の親交を望んではいないように思われた。それはその無機質な声と、冷やかな眼差しがよく示していた。ルティは彼のことを自然と、怖いと思った。身体が勝手に動いて、パティーを盾にするようにして、彼の背後にほんの少しだけ身を隠した。

「妹がどうしているか知らないけど、あまり甘やかさないでやってください。それじゃあ。」

二人の名前も訊かずにフォルミスは十二人の怒れる男の部屋へと入って行ってしまった。彼がいなくなって、桜の園の部屋に満ちた静寂はその温度を少し失っていた。二人は顔を見合わせた。パティーが無理やり笑って見せた。

「変わった子だね。ダリアのお兄さんは。」

「ちょっと、怖かった。」

ルティは彼のジーンズをつまんだ。そのとき、自分の頭を上から何かがやわらかく撫でた。それに少しだけ身を震わせて、目をつむる。すぐに上の方から、優しい笑い声が降ってきた。目を開けて、見上げる。ルティはその笑顔を見て、少し安心した。心があったかくなった。こんな人が、自分のお兄さんだったらいいのにと思った。

 パティーが、気持ちを切り替えて次の部屋に行こうと提案したのでルティはそれに賛同し、彼とともに扉をくぐった。扉を抜けると一気に空間が開けた。そこは広大なエントランスだった。天井は高く、二階、三階へと続く階段がエントランスの中央に降りてきている。このフロアから、各演目の展示室へ行くようだ。壁のあちらこちらに開け放たれたドアがあり、その前に、展示されている作品の演目が書かれたボードが立っている。上の階へ続く階段の付近には脚を休めるための長椅子が設置されていた。とても静かだった。本館では流れていたゆるやかな音楽が、ここ別館では流れていなかった。それどころか、人が全くいなかった。いまこのエントランスにも、人影は一つも見受けられない。ここへ入ってから出逢ったのはフォルミスだけだった。パティーはそのことがどうにも引っかかった。

「バア!」

「オオオオオオ! マイ、ゴッド!」

パティーはまるで猫のように元いた場所から跳び退った。後ろからは少女の笑う声が聞こえる。左胸を抑えながら荒い息を吐き、その方を見た。そこには愉快そうに笑うダリアがルティの隣に立っていた。ルティもパティーを見て大笑いしている。パティーの絶叫と少女二人の笑い声がだだっ広いエントランスに響き渡った。パティーは我に返ると顔を真っ赤にしながら人差し指を自分の口元に当てた。ルティが彼と同じように人差し指を口に当てて笑い声を止めた。だが、まだまだ顔は笑ったままだった。ダリアは少しだけ声を抑えたが、笑い続けていた。パティーは周囲を見回した。特に誰もいなかった。彼は苦笑いを浮かべながら二人の方へ近付いていった。

「ああ、もう。びっくりした。」

「いま戻ったよ!」

ダリアは後ろで手を組んだ。

「ダリア、さっきダリアのお兄さんに逢ったよ。」

ルティが言うと、彼女の顔がわずかに曇った。

「そっか、兄さんに。兄さん、なにか余計なこと言わなかった?」

ダリアの問いにはパティーが答える。

「ダリアをあんまり甘やかさないでくれってさ。」

「あははは。そっか。」

彼女は変わらない笑顔を浮かべる。

「さ、どんどん行こう!」

「そうだね。時間に限りもあることだしね。」

パティーはちらと右腕に着けられた銀色の腕時計を確認した。時刻は昼過ぎの三時三〇分過ぎといったところだった。ルティは六時までに本館のロビー受付に行かなければならない旨を二人に伝えた。あと、二時間と少しだ。ダリアが、どんな作品が好きかと二人に訊いた。パティーはルティが見たいものを見ようと譲ってくれた。ルティは自分の好きなもの、またこれまでに見てきたものの中で心を惹かれたお話を思い浮かべていった。だが、こういうときに限って、なかなかこれというやつは出てこない。ルティは歯がゆい思いをしながら懸命に記憶の引き出しを探っていく。引き出しを開け、中に仕舞われていたものを一瞥すると、また引き出しを押し込んで閉める。そんなことを何度繰り返しただろうか。ルティはようやく一つ思いついた。

「アリス。不思議の国のアリスはあるのかな?」

「あるよ! ついてきて!」

ダリアが元気よく応えた。そのまま軽快な足取りでエントランスの中央へと歩いて行く。二人はダリアに続いた。

 ダリアは上の階へ続く階段の、その奥にある開かれた扉の前で立ち止まった。そこが、不思議の国のアリスの世界観が展示されている部屋だった。鉱物の展示室のときと同じように、ダリアは二人が中に入るのを扉の側で待った。展示室の中はハートのクイーンの城内を再現していた。比較的広い部屋だった。ルティは心躍らせながら部屋の真ん中に進んで行く。紅い絨毯が真っ直ぐに続いていた。その絨毯の一本道を挟むように、トランプの兵士が向かい合って立っている。よくできた人形だった。王宮らしい立派な柱も立っているし、あちらこちらにこの作品の中に住む愉快なキャラクターたちが配置されている。パティーも少々興奮気味だった。視線を右に左に、忙しなく動かしている。ルティは白いうさぎがどこかにいないものかと、そればかりを探していた。

「白いうさぎ、いないね。」

ルティがぽつりとつぶやいた。

「そういえばまだ見つけてないなあ。ダリアは知ってる?」

「ううん。わたしも知らない。」

パティーはなにやら火が点いたらしく、まるで宝探しをする少年のような顔をした。

「よし、ぼくが一番に見つけてやるぞ。」

そう言って彼は紅い絨毯の一本道から逸れていった。通ってきたところの柱の裏や、大きな花瓶の死角までくまなく探している。ルティとダリアは真っ直ぐ、その先にあるハートのクイーンが座している玉座まで歩いて行った。ルティはときどき心配そうにパティーを振り返った。

「もう、パティーったら子供みたい。」

ルティは呆れながら笑っていた。玉座への短い階段を上がり、前を見る。豪奢な玉座に、煌びやかなドレスを着た尊大な態度の女が座っていた。その傍らには甲冑を身に着け、腰に剣を吊ったジャックが、横一列にトランプの兵を従えて控えている。玉座は華美な装飾が施され、文句なしに美しかった。その鮮烈な赤が見るものを魅了する。クイーンが身に着けている赤を基調としたドレスも、見ただけで一級品とわかるほどに生地がよく、また刺繍も凝っていた。そして彼女の身に着けている数々の宝石たちの微笑み。だが、ここまで贅を尽くしているというのに、なぜだかクイーンの表情は冴えない。不機嫌を前面に押し出した仏頂面だった。それだけで全てが台無しだった。

「こんな顔してたら、きれいなドレスも宝石も台無しだね。」

ルティがダリアを見て言った。ダリアも笑いながらうなずいた。

「こういうおとなには、なっちゃだめだね。」

ダリアが怒ったような顔をしたクイーンに視線を戻して言った。パティーが息を弾ませながら二人の元に戻って来た。どうやらどこにも白いうさぎはいなかったようだ。ルティはノートを取り出すとハートのクイーンの特徴を書いていった。パティーはそれを後ろから眺めていた。そして、意外にも容赦のないルティの感想と批評に感心する反面、戦慄した。子供というのは思ったよりもはるかに厳しい目で大人をよく見ているのだということを知った。だが、パティーは首をかしげた。知ったというのでは語弊がある。けっして知らなかったわけではない。古い記憶を辿れば自分にも大人というものがどうしようもなく汚い生き物だと感じた時期があったし、悪いところが嫌というほど目についた。そして、そんな大人になりたくないと思ったし、その中に入っていくのが嫌で嫌で仕方なかった。だが、いつしかその心は忘れ去ってしまった。子供は、いつでもどこからでも自分たちを見ている。そのことをいま、幼いルティに思い出させてもらったのだ。

 彼はまた二人から離れてぶらぶらし始めた。そのとき、玉座の後ろをまだ調べていないことに気が付いた。彼はさっそくトランプの兵士たちを迂回して玉座の後ろに回り込んだ。玉座より後ろの地面は絨毯が敷かれておらず、足音がよく鳴った。巨大な玉座の後ろには時計を持った白いうさぎが隠れるようにしてひそんでいた。

「ルティ! ダリア! うさぎ、いたよ!」

パティーは玉座の影から顔を出して二人を手招きした。二人は顔を輝かせ、横一列に並んで通せんぼうするトランプの兵士たちを迂回し、玉座の後ろへ急いだ。

「うわあ!」

突然、パティーの叫び声が上がった。それと同時に、木材が折れる乾いた音が鳴った。ルティとダリアは玉座の裏へと急いだ。




→第5幕へ続く

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