4章 青色の夜明け(3)


「ある日突然、椅子から立たなくなったの。ああ、また戻って来られなくなったんだ、て気にしていなかったんだけど、それが何日も続いたの」

 裸のまま布団の上で仰向けになったシズクが紡ぐ言葉を、晴史はるふみは静かに聞いていた。

「前からご飯はあんまり食べなかったけど、椅子に座ったままになってからは全然食べなくなって、お風呂にも入らないから臭くなって。布団で寝たら、てわたしが言っても、椅子に座ったまま。そのうち、顔や手が変な色になってうみが出てきたから、お医者さんに見せたけど、よく分からないことばかり言って、治してくれないの。お薬をくださいってお願いしても、聞いてもらえない。お医者さんは嫌い。だから、包帯を巻いてあげた。どんどん膿が出るから、包帯は毎日取り替えなきゃいけなかった。そのうち膿が出なくなったけど、お母さんはずっと椅子に座ったまま」

 シズクはいつになく饒舌で、それがかえって晴史に得も言われぬ不安を与えた。

 月丸が去った後、自分が一向に死なないことをシズクは不思議がった。晴史がシナズについて説明すると、シズクは迷いを振り払って語り始めたのである。

 ――わたしのこと、全部聞いてくれる?

 そう前置きをして。

「お母さんは遠見の力を保つために、定期的に人間の心臓と肝を食べなきゃいけなかったの。そういう力なんだって。お父さんはお母さんのために、心臓と肝を集めてた。女の人をこの部屋で殺したら、お風呂場に担ぎ込んでお腹を切るの。お父さんが影になってから、それはわたしの役目。死体は重いから、わたしは街中で作業しなきゃいけなかったけど」

「それで、物売りをやって獲物を物色していた。前に言ってた『お母さんの手伝い』てのは、その事だったんだね」

 肝喰きもくいにならなければならなかったシズクが、ゆっくり頷く。

「あそこに座って絵を描いているだけで、寄ってくる人は選り取りみどり。似顔絵を描いてて声が聞こえたら、人目につかない場所に連れ込んで、アレの最中に首筋をナイフで切るの。夢中になってて周りが見えてないから、簡単。男の人が死んだら、お腹を切り開いて心臓と肝を取り出すの。お母さんが食べなくなってからも、わたしは心臓と肝を集め続けた。いつかお母さんが良くなった時、食べる物がないと困るでしょ。結局は全部腐らせちゃって棄てたけど」

「言ってくれれば、俺が力になれたのに」

 晴史は腿の上に載せた両手を爪が食い込むほど固く握り込んだ。

「この街にはいくらでもロクが出る。腹を掻っさばけば、臓物なんていくらだって手に入る。そうすれば、客を殺すことも、体を売ることもしなくてよかったんだ」

「だって、きみに嫌われたくなかったから」

「嫌いになんて、なるはずないよ」

 晴史がきっぱり言い切ると、シズクは視線を絡めてきた。

「ねえ、お願いがあるの」

「お願い?」

「描いてみたいものがあるの」

「描いてみたいもの?」

九相図くそうずって知ってる?」

「九相図?」

「死体が腐ってく様子を描いた絵。『生命が消えた肉体が崩壊して土へ還る過程を直視し、肉体の不浄さと諸行無常を観想するために描かれた図画』て図書館の本には書いてあったけど、わたしにはよく分からない。書かれてた言葉を辞書で引いて憶えただけだから」

 晴史も同感だった。死体を描いて何を知ることができるというのだ。

「わたし双子の妹がいたって言ったよね」

 晴史は頷く。

「四年前、わたしが殺したの」

 シズクの一言が、晴史の心臓を鷲掴わしづかみにした。

 信じたくなかった。聞き間違えであってほしかった。

 しかし彼女は、紛れもなく言ったのだ。

 ――わたしが殺した。

「そのちょっと前から、うちは暮らしが苦しくなってたの。遠見の仕事はしょっちゅうは来なかったのに、お母さんのお薬だけは増えてたから。わたしと妹はお父さんの言い付けで、物売りをさせられた。妹は本が好きで頭も良かったから詩を書いて、わたしは今と同じように似顔絵描き。双子って珍しいから、詩集も絵もよく売れた。稼いだお金を持って帰ると、お母さんからはうんと褒めてもらえた。けど、裸にさせられたりべたべた触られたりするのは、厭だったの」

 幼い日のシズクが見知らぬ男に身を委ねる様を思い浮かべると、胸を切り刻まれるような苦しみが走った。

「妹はわたしと違って明るくて愛想のいい子だったから、客もわたしより妹を選ぶことが多かった。でも、日が経つにつれて妹はあまり笑わなくなったの。極楽通りに行く途中で、いきなり泣き出すこともあった。それまではお姫様が出てくる物語の本とか綺麗な図鑑とかをよく読んでたけど、気味の悪い本ばかり読むようになった。九相図の本も妹に見せてもらったの。自分の体が腐っていくのを見ることができたらどんな気持ちになるんだろう、てよく言ってた。もし私が先に死んだら私の死体が骨になるまでを描き残してほしい、て頼まれたこともあった。客の相手ばかりしてるうちに心がぼろぼろになっちゃって、そんなことを考えるようになったんじゃないかなって思う」

 シズクは、ふう、と息をついた。

 続きが語られる前に、少しの間があった。

「いつものように妹と極楽通りでお店を開いてたら急にお腹が痛くなって、トイレに行ったの。戻ったら妹はいなかった。客が付いたのかな。そう思って待ってみたけど全然帰ってこないから捜し回ってみたの。狭い行き止まりで、妹は男の人に首を絞められてる最中だった。声を上げれば、誰かが来てくれたかもしれない。でもわたしは助けを呼ばないで、妹が死ぬまで物陰に隠れてたの。わたしは妹が邪魔だった。絵ばっかり描いてる暗いわたしと違って妹ははきはきしてたから、お母さんに可愛がられてたの。お金を持って帰ってお母さんに褒められるのも、決まって妹。わたしっていらない子なんじゃないかな、いつか捨てられるんじゃないかなって、ずっと怯えてたの。だから助けは呼ばなかった。妹さえいなくなれば、わたしがお母さんを独り占めできるって思ったから。男の人がいなくなったのを見計らって、わたしは妹に近寄った。妹は何も着てなくて、首に紐が巻き付いてた。揺すってみたけど、もう妹は息をしてなかった。いなくなればいいのにっていつも考えてたのに、妹はもう二度と目を覚まさないって分かった途端に後悔が押し寄せて、体の震えが止まらなかった。妹はわたしが殺したも同然なの」

 血を大量に流したことで、シズクの顔は水彩絵の具を塗りこめたように白かったが、妹の惨たらしい最期を語る口調に揺るぎはなかった。

「妹をぼんやり眺めてるうちに、死んだら絵に描いてほしいって頼まれてたことを思い出したの。だからわたしは、妹を描いてあげた。ほんの少しだけ射し込む灯りを頼りにして一晩中描いた。疲れたら眠って、描いて、また眠って、描いて。水もご飯も口にしないで、その繰り返し。妹はわたしのせいで死んじゃったから、罪滅ぼしのつもりだったの。三日目の朝までは憶えてるけど、そこから記憶が無いの。いつ家に担ぎ込まれたのかも分からない。お父さんもお母さんも部屋にはいたけど、わたしが目を覚ましても心配すらしてくれなかった。妹の体も、妹を描いた絵も、どこにも見当たらなかった。お母さんは小さな壺を抱えてしくしく泣いてた。わたしは放っておかれた。嬉しさなんて、ちっとも無かった」

 安楽椅子には、座らせ直した占いママの姿がある。膝には骨壺が載せられている。上体は右に傾がっていて、病人が居眠りしているようにも見えた。

「声が聞こえるようになったのは、それから。初めは分からなかったけど、何人も描いてるうちに、その人に近々起こることを言い当てる予言だって気付いたの。心臓と肝を集めるのには便利だったけど、こんな力なんて消えて無くなっちゃえばいいのにって、ずっと思ってた。私を見捨てたお前に生きてる人間を描く資格なんてない、胡散臭がられて独りぼっちになっちゃえばいい。妹がそう言って、わたしを許してくれないような気がするの」

 シズクは首を動かし、壁際のチェストへ視線を向けた。

 くたびれた笑みを浮かべる若夫婦に抱かれた、純真無垢な双子の姉妹。

 写真が撮られたとき、救いようのない未来を誰が予見できたであろうか。

「妹の夢をしょっちゅう見るようにもなった。街の中を歩いてたり家にいたり、夢の内容はいつも違うけど、決まってわたしの目の前に現れて、目玉がない真っ黒い穴でわたしを睨むの。わたしはそのたびに謝るけど、妹は黙って睨んでるだけ」

 ごめんね、と繰り返すシズクの苦しげな寝顔が、晴史の脳裡を横切った。

「だから妹に許してほしくて、鳥や動物の死骸ばかり描いてたの。死骸が腐ってくのを描き続けていれば、いつか妹が許してくれるんじゃないかって。他に方法が思い付かなかったの。わたしにできるのは、絵を描くことだけだから。でも、夢も声も消えてくれなかった。間に合わせじゃ駄目なんだね、きっと」

 小動物の死骸を描いた油彩画にシズクは視線を移した。死骸が原形を失っていく過程が時系列順に並んでいる。

 シズクが右手で創傷をなぞる。細い指先が生乾きの血で赤く濡れた。

「わたしの心残りは、妹の死体を最後まで描いてあげられなかったこと。わたしの罪滅ぼしは中途半端なままで、まだ終わってないから。妹と同じ姿をしたわたしの体を使って九相図を完成させるのが、今のわたしの望み」

 澄んだ瞳が、真っ直ぐに晴史を見据えた。

「叶えてくれないかな」

 答えはすぐに出たが、言葉となって喉の奥から出てくるまでには時間を要した。

「――何をすればいいの?」

 赤に染まったシズクの指が、鳩尾を示した。

「ここから、お臍に向かって切って。体だけじゃ足りない。内臓が腐っていく様子もちゃんと描き残しておきたいの」

 床に転がった血まみれのコンバットナイフを手に取ると、晴史はシズクの鳩尾に刃をあてがった。柔肌が切っ先をわずかに呑み、赤黒い血が滲み出した。

「いくよ」

 シズクがこくりと頷く。

 柄を両手で握り、一呼吸置いてから肉に刃先を埋める。

 うっ、とシズクが短く呻いた。

「痛い?」

「大丈夫……なんとか、我慢できそう」

 ナイフの刃をさらに三分の一ほどまで埋め、一息に臍まで走らせる。食い縛ったシズクの歯の隙間から苦悶が漏れた。

 赤黒い腹直筋と、その下に詰まった臓物が姿を現す。腸の表面はぬらぬらと粘液で光り、細い血管が透けているのがはっきりと見て取れた。

「お腹を中心にして、円を描くように、腸を引っ張りだして」

 請われた通りに、晴史は腹の裂け目から小腸を引きずりだした。血流はすでに止まっていたが、腸は思いのほか長くて柔らかく、綺麗な同心円状に配置するにはそれなりの時間が掛かった。

 肝臓、胃、胆嚢、十二指腸、大腸、膵臓、脾臓、腎臓と、シズクが指示する順番で、指示された通りの位置に配していく。腹の切り口を広げるたび、まだ温かさが残る臓物を切り離すたび、細い体がびくんと弓なりに反り返る。シズクは手を開閉したり、深く呼吸を繰り返すことで激痛と必死に闘っていた。

 ――痛みなんてこれ以上、与えなくていいじゃないか!

 死だけを受け容れようとしないシズクの脳に晴史は憤慨し、奥歯を強く噛み締めた。

 肋骨から下をあらかた取り出されてすかすかになったシズクの腹には、膣と繋がったままの子宮と卵巣が残された。

「これはいい」

 シズクの手が、晴史の腕をそっと押さえた。

「残しておいて。いっぱい働いてくれたから」

 シズクの臓器で描いた幾何学模様を見下ろしながら、晴史は腰に巻いたタオルで手に付着した体液と額の汗を拭う。柔らかな臓物の感触の余韻だけが掌に残った。

「次は、あの鏡持ってきて」

 シズクが指差した先には、黄ばんだ布が掛かった姿見があった。

「それとあれも」

 指先が真横へ動き、チェストで止まった。写真立ての横には未使用のパステル。蓋を開けると、閉じ込められていたワックスと粘着剤の匂いが広がった。

 パステルを枕元に散らすと、「それじゃお願い」とシズクが開始の合図を出した。

 晴史はシズクを跨ぐ恰好で立ち、彼女に見える角度で鏡を構えた。

「そのままちょっと辛抱して」

 言うやいなや、シズクはパステルを左手に取り、右手に持ったキャンバスへ滑らせる。極楽通りで描いていたときと同じように、シズクの左手がキャンバスと畳とを目まぐるしく行き来する。

「一枚できた。もういいよ」

 一仕事を終えた後の充足感など片端も混ざっていないシズクの呟きで、晴史は鏡持ちの重苦から解放された。シズクが絵筆をとってから十分と経っていなかった。

 キャンバス上には、短い時間で仕上げたとは信じ難い写実的な筆捌きで、とぐろを巻く腸と臓器に囲まれる少女が忠実に描かれていた。微妙な色使いは分からないものの、内臓の生々しい質感やシズクの気怠い表情は晴史の心をいたく打った。

「やっぱり凄いね、シズクの絵は」

 晴史の感服に唇を軽く舐めると、シズクは同じ構図で新たな絵を描き始めた。眼前に鏡像が無いにもかかわらず、彼女の左腕は精確にモチーフを再現していた。

 四枚目を描き終えたところで、ようやくシズクはパステルを畳に置いた。「二枚目がいい出来栄え」とシズクは自賛したが、晴史には違いがよく分からなかった。

「明日も来てくれる?」

 後ろ髪を引かれる思いを引きずりながら部屋を去ろうとした晴史の背に、シズクが問いを投げた。

「明日も仕事だよ。明後日も、その次も」

「終わってからでいい。待ってる」

 心はとっくに決まっていた。

 ――明日もきっと来るさ。だって、そうしたいんだから。


 果たして晴史は、翌日もシズクの部屋を訪れた。

 シズクは前日と寸分違わぬ恰好で布団の上に横たわっていた。臓物もまた、一つとして欠けることなく散らしたままになっている。新たな絵が二枚、畳の上に増えていた。白磁のような肌にこびりついた血はチョコレート色に乾き、シズクが爪で擦るとぽろぽろと剥がれた。

「昨日と色が変わってる」

 鏡を覗き込むシズクの声は心なしか、新たな発見を喜んでいるように聞こえた。

 死臭が室内にかすかながらも漂い始めていた。

 シズクの肌を這う小さな蛆を見つけたのは、四日目だった。

 冬場とはいえ、防腐処理を施していないシズクの体が腐敗するのも、彼女の肉を喰らう虫の侵入も完全に食い止めることはできない。腕や足には網目状の模様が浮き上がっている。悪臭は濃くなり、シズクの体から抜き取った内臓は沈んだ黒褐色に変じていた。

 その日から晴史の仕事リストに、殺蛆剤の撒布が追加された。

 シズクは「別にいいのに」と言ったが、蛆がシズクの体を蝕むことに、晴史は我慢がならなかった。

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