3章 緑色の残陽(6)


 お屠蘇とそ気分とはおよそ縁遠いイタギリではあるが、冬の寒さは外界と平等にやって来る。一月も半ばに差し掛かると、寒さはぐっと厳しくなる。配管や電線が毛細血管のごとく這うビルの群れも、吹き渡る風に身を縮こめているように見えた。

 寒い朝、日が当たらない路地に氷が張ることも多い。氷は溶けづらく、足運びに注意しないとごみ袋を抱えたままひっくり返ってしまいかねない。

 屋外のロクが多いのもまた、この時季である。

 行き場を失った浮浪者や路上で寝込んでしまった酔客が、朝を待たず凍死体へと変わるためである。骨の髄まで冷えきった行き倒れは、真冬のイタギリにおける風物詩である。住民たちが回収現場に遭遇してしまう確率もぐっと高まるため、猫塚からはくれぐれも気をつけるようにと訓示を受けている。

 竹林老人の死から三ヶ月が過ぎようとしていたが、第三班の二人体制は続いていた。この間に二人、イタギリの外から流れてきた半端者を使うことがあったが、いずれも半月ともたなかった。

 晴史は以前にも増して仕事に打ち込んだ。ロク運びも、できる限り引き受けた。いくら金を稼いでも、父が酒に換えてしまうためである。貯蓄はもはや望むべくもない。右から左へ消えていく金を得るだけの仕事に、働き甲斐など爪垢ほども無かった。

 それでも晴史が絶望に打ちのめされなかったのは、シズクの存在が一条の光明のように彼の心を照らしていたためだった。

 シズクとの交流は、年をまたいでもなお続いていた。

 シズクが文字を習得する早さは、晴史のそれを遙かに凌駕していた。彼が三年をかけてようやく憶えた字も、すでにその大半を読めるようになっていた。

「形を憶えるだけだから簡単。わたし、頭いいのかも」

 そう言って、シズクは上唇で下唇を舐めた。

 絵を描いているためか、シズクは物体の形状を見た通りに憶える能力に長けていた。

 この日彼らは、テーブルに向かい合いになって、それぞれの本に没頭していた。

 晴史が読んでいたのは、外国文学の棚から抜き取ってきた、かびと埃の臭いが染みこむ上製本であった。ヘミングウェイ全集。ぱらぱらとページを捲り、「午後の死」と命題された小説に目を通した。

 スペインの闘牛を軸に、絵画論や文学論など多岐にわたるテーマがちりばめられた文章は、読み進めるのに骨が折れた。三分の一もいかない箇所で晴史はヘミングウェイを断念したが、ある一つのエピソードだけは彼の心に深い印象を残した。カペーアと呼ばれる、村の広場などで催される非公式の闘牛遊戯にまつわる話である。

 とある町のカペーアに供された闘牛の中に、五年間で十六人の命を奪った獰猛な牡牛がいた。その十六人の中には、流民の少年が含まれていた。彼の妹と弟は兄の敵とばかりにその牡牛を付け回し、闇討ちを目論んで機をうかがっていた。しかし、この牡牛は持ち主によって手厚く保護され、二人を阻んでいた。

 やがて政府がカペーアを禁止すると、牛が年老いていたこともあり、持ち主は処理場へ送ることを決める。そこへきょうだいが千載一遇とばかりにやって来て、「この牛は自分たちの兄の敵だから殺させてほしい」と頼み込んだ。持ち主が承諾すると、二人は檻に入った牡牛をたちまちのうちに殺し、切り取った睾丸を道端で焼いて食べるとそのまま町から姿を消した、という筋書きだった。

 刃物で牡牛を刳ったとき、どんな気持ちが彼らの胸にあったのだろう。

 幼い二人のその後に思いを馳せつつ、晴史は本を閉じた。

 シズクは開きっぱなしの本を傍らに置いたまま、テーブルに突っ伏していた。長い睫毛の瞼はぴったり閉ざされている。開きかけた蕾のような唇からすうすうと寝息が漏れる。

 眠るシズクを頬杖をついて見つめていると、安らかな寝顔が不意に苦悶で歪んだ。眉間には深い皺が刻まれている。食い縛った歯の隙間から、「ごめんね」と糸のように細い声が何度も漏れた。

「シズク、大丈夫っ?」

 晴史は思わず身を乗り出して、シズクの細い肩を揺さぶった。

 背中を大きく震わせて、シズクが目を開いた。額に前髪がぺったりと張り付いている。シズクはゆっくりと体を起こして、辺りを恐る恐る見回した。

「どうしたの? うなされてたけど」

「ちょっと怖い夢見てただけ。もう大丈夫」

 忙しなく髪をかき上げると、シズクは椅子に座り直して再び本を読み始めた。

 シズクは感情を明け透けに表したりはしない。しかし晴史は、三ヶ月足らずの付き合いの中で、些細なサインからシズクの感情を読み取る術を身に付けていた。

 唇を舐めたときは得意気になっている。唇を固く閉じたときは図星を指されて困惑しているか、恥ずかしさを堪えている。頬を膨らませていても、実はそれほど怒っていない。耳元の髪をかき上げるのは、嘘をついているか、言いたくないことを隠している証拠。喜びや悲しみのサインは、まだ分からなかった。

「ちょっと休憩しようか」と晴史はシズクを誘った。寒風かんぷうが吹きすさぶ屋上では休まらないだろうと一階へ降り、雑貨屋で紙パック入りのジュースを買った。

 雑貨屋のレジに置かれたラジオからは、軽快なトークが流れていた。

『正月に実家で荷物の整理をしてたらですね、机の抽斗ひきだしから手製の木箱が出てきたんですよ。振るとカラカラ音がするんです。ところが全然記憶に無いんですよ。俺こんな箱持ってたかなあ、て。中身の正体も判らない。急に薄気味悪くなりまして、鍵も無かったんで箱は抽斗にまた仕舞ったんですけど。何が入ってたんですかねえ、あれ――』

 小話を聞き終える前に店を出て、階段に腰を下ろした。

「絵は描かないの?」

「家に溜めてある描きかけも仕上げたいけど」

 ココアのパックにストローを刺しながら、シズクは首を振る。ここのところ、シズクが図書館で絵を描くことはほとんどない。なぜだか描きたがらないのである。

「家では、スケッチブックに描いた絵をキャンバスに描き起こすの。一回スケッチすればモチーフを憶えてられるから」

「けど、色はどうするの?」

「色味を思い出して塗るだけ。濃いと淡いに気を付けるだけでいいから簡単」

 簡単、とシズクは片付けたが、それが一般人にとってどれだけの難事であるかを理解していない様子だった。

「わたしの絵に興味があるなら、今から見に来ない」

 思い掛けないシズクの誘いに、晴史は色めき立った。

「いいの?」

「お母さんが休んでるから、あんまりうるさくできないけど」

 晴史はジュースをあっという間に飲み干し、店の前に置かれたくずかご代わりの鉄バケツに空のパックを放り入れた。

 図書館のビルを出て、二人は肩を並べて二番街へと向かった。コンクリートの地面すれすれを風が這い、立ち枯れの雑草が小さくざわめいた。

「お母さんの具合はどうなの?」

「話はできるけど、仕事はまだ」

 シズクは髪をかき上げなかった。

「体が弱ってると、うまく集中できないみたいだから。体から抜けだした意識が別の世界に飛んで行って、そこで映像や情報を受け取って帰って来るんだって。たまに意識が帰ってこられなくなって、長いときには一日くらい抜け殻みたいになることもあるの。視た後は疲れ果てて、何日も椅子に座ってぼうっとしてる。はっきりと視るためにお薬を使ってるんだけど、その副作用もあるみたい。お父さんはその間、お母さんの身の回りの世話をしてたの」

「それが前に話してた『手伝い』?」

 シズクが曖昧に頷いた。

「力を蓄えるために食べ物にも気を遣うんだけど、それを用意したりもしてた。お父さんがいなくなってからは、わたしがやってるの。お母さんは怒りっぽいし、体が弱いから結構大変。人捜しを頼まれたときは、お母さんが特徴を言って、わたしがその通りにスケッチするの。よく似てるって評判みたい」

 晴史の頭には、女性の顔が二つ浮かんでいた。

 激情型の醜女ではあったが、自分にとってただ一人の母。

 仕事明けでも疲れた素振りを見せず、面倒を見てくれたナナミ。

 今、彼女達がどこでどうしているのか、知りたくなった。

 ――視てもらうことって、できないのかな。

 図々しいとは分かっていながらも、晴史はシズクに頼んでみた。最初は渋っていたシズクだったが、「駄目かもしれないけど、言うだけ言ってみる」と請け合ってくれた。

 煤けたグレーの丑首ビルに立ち入り、階段を二階へ上がる。甘ったるく薬臭い、複雑な臭気が充満していた。階段の手摺りや段差に黒い血の痕が残っている。遠くでドリルの刃が回る音がする。共用トイレから鼻が曲がりそうな臭いが漏れてくる。

「ここがわたしの家。遠見のお客さん以外を上げるのは、初めてかも」

 ドアのプレートには『213』と刻まれている。

 柑橘の香りが鼻の奥に漂った。

 水屋や浴室を詰め込んだ狭苦しい空間を左手に見ながら、板張りの短い廊下を進む。

 法外な金を取っていると聞いていたが、家の中は生活感に乏しかった。

 擦りガラスの窓越しに外光が入り込んでいるにもかかわらず、畳敷きの居間はどこか陰気臭い。家具といえば、メラミンの化粧板がところどころ剥がれたチェストが壁際に据え置かれているだけだった。洋服箪笥の類すら無く、畳まれた衣服が部屋の隅に固められていた。

 チェストの天板に、晴史が贈ったパステルが置かれていた。箱の具合を見るに、まだシズクが使っていないと知れた。大事に飾ってもらっている嬉しさと、使ってもらえない寂しさがい交ぜになって晴史の心を掻き回した。

 パステルのすぐ横には、一葉の写真を収めたスタンドが飾られていた。片手に乗る小さな世界の中で、それぞれの腕に赤ん坊を抱いた若い男女が二人、生活の疲れを滲ませながらも微笑んでいた。男はいかにも意志薄弱の痩男で、隣に座る気の強そうな妻の尻に敷かれているであろうことは、予備知識無しに写真を見た者であっても容易に汲み取ることができる。お包みの温もりで眠る二人の赤子は目も鼻も小さく、この世に生を受けてから日が浅いことを窺わせた。

「お父さんとお母さん、それとわたしたち。残ってるのはその一枚だけ」

 ――わたしたち?

「妹がいたの。双子の」

 いた。

 それきりシズクは妹について語ろうとしなかったので、深くは訊ねなかった。

 押入れの横には布団が敷かれ、その近くにはスケッチブックや鉛筆、コンテ、油彩道具が、今しがたまで誰かがそこで絵を描いていたかのように散らばっている。押入れの引き戸に立て掛けられた数々のキャンバスには、朽ち果てていく小動物や鳥達の姿が精緻な筆致で克明に描かれていた。色が乗った絵は、死臭が漂ってきそうなほどの質量感を訴えていた。

 ――凄い。

 絵から放たれる死の存在感に、晴史は圧倒された。

「こっちがわたしのお母さん」

 窓際の安楽椅子には、背もたれに体を預けた恰好で座る人影があった。長い髪を後ろで束ね、首を沈めて物思いに耽っているようにも見える。

「お母さん」

 シズクはそっと、椅子の人物へ声を掛けた。応えは無い。

 椅子の傍らに膝立ちになり、シズクが母親に顔を寄せる。チャコールグレーのワンピースの寝間着を身に纒った母親は、頭の天辺から爪先に至るまで包帯でぐるぐる巻きにされていた。かつて見た図鑑に載っていたミイラの写真が、目の前の母親の姿と重なる。母親は両手で、乳白色の小さな壺を大事そうに包み込んでいた。

 二言三言、何事かを伝え終えたシズクが首を横に振る。

「体調があんまり良くないからやっぱり勘弁してほしい、て」

 期待はしていなかったが、それでも晴史はがっくりと肩を落とした。

「いつもこんな調子なの。遠見の仕事も全部断るようになって、そろそろ一年。ご飯もほとんど食べなくなったし、一日中こうして椅子に座ってるだけ」

 失礼だとは思いながらも、晴史は包帯姿の占いママから目が離せなかった。ガーゼの表面にはところどころ茶色いシミが浮き上がっていた。

「皮膚の病気なの」

 晴史の眼差しを見取って、シズクが問わず語りに話し始めた。

「立ち上がれなくなって少し経った頃から、体のあちこちがじゅくじゅくし始めたの。痛そうだったから、包帯はわたしが巻いてあげた。この街のお医者さんじゃ、治せないみたい」

「じゃあ、シズクはお母さんの病気を治すために――」

 物売りでお金を稼いでるの?

 言いかけて、言葉を喉の奥へ押し込んだ。

 彼女が体を売っているという事実を突き付けるのは、あまりに不埓で、あまりに乱暴な行為に思えた。

 シズクが母親の肩にそっと手を添えた。

「お母さんは今、具合が悪いだけ。体が治ったら一緒に色んな所に行きたいの。だからそれまでは、わたしが頑張らないと」

 晴史の問いに答えるように、シズクは気丈に言った。

 雲の切れ間に差し掛かったか、窓から射し込む光が明るさを増し、母娘の輪郭に白い光暈を形作った。

 包帯を全身に巻かれた母と、その傍らに寄り添う花のような少女。

 殺風景な室内に光のいたずらが生み出したモノクロームの活人画は、膝を折らずにはいられなくなる神々しさを湛えていて、晴史はすっかり心を奪われた。

「お母さんが元気になったら、海に行ってみたいの」

 シズクは母親を見つめたまま言った。

「前に図書館で見せた絵、憶えてるかな。海原に沈む緑色の太陽。グリーンフラッシュっていうとても珍しい現象なの。普通、夕陽は緑色じゃないでしょ」

 海を見たことはなかったが、夕陽の色ならば幼い日に見た記憶がうっすら残っていた。

 灰色のビルに囲まれた眺めを黄金色に染め上げる夕暮れの色。

 その色が緑に変わる様を、晴史は心に描けなかった。

「グリーンフラッシュを見ると幸せになれるって言い伝えがあるの。お母さんと並んで緑色の光が夕陽に走るのを見るのが、今のわたしの夢」

「幸せに……」

 東の河原で焚き火を囲み、何もかもを諦めたような目付きで残日を眺め見る浮浪者たちの姿が、不意に脳裡に浮かんだ。

「でも滅多に見られないんだろ? そうそううまいこと遭遇できるかな」

「それなら、出会えるまでずっと海にいればいい」

 シズクの言葉に晴史は面食らった。想像だにしなかった、否、想像しながらも意図的に目を逸らし続けた未来が、今まさに彼女の口を衝いて出た。

 シズクがイタギリを出て行く可能性について。

 我が春の永続を疑わなかった古代ローマの貴族のように、晴史もまた、シズクとの日々がいつまでも続くという何ら保証のない幻想に頭の先まで浸りきり、彼女との離別など露ほども考えていなかった。

 その日の訪れを思うだけで、晴史の胸は潰れそうになった。

「わたし、きみには感謝してるの」

 湿っぽくなった晴史の心に、シズクの澄んだ声が沁み入った。

「生きてる人を極楽通りの外で描かないのは、予言の声が聞こえるのが辛いからじゃなくて、今まで誰も信じてくれなかったから。気味悪がられるのもそうだけど、お前が変なこと言ったからこうなったんだ、て怒鳴られるのが一番辛かった」

 ぽつりぽつりと心情を吐露するシズクの口調は、いつになく寂しげだった。

「だから、最初にきみに予言を教えたすぐあとで後悔したの。どうせまた嘘つき呼ばわりされるに決まってるのに、なんで余計なことしちゃったんだろうって。でも、知らん振りなんてできなかった。きみが怪我をしたのを知ったときは、ちょっと悲しかったの。やっぱり今までと一緒なんだって」

 寺からの帰り道で、そっか、と呟いて視線を落としたシズク。

 月丸の部屋で、晴史の語りを聞きながら膝小僧を見つめていたシズク。

 彼女をまた一つ知った喜びは、不思議と湧かなかった。

「だから、二回目の予言できみを救えたのが嬉しかった。きみがわたしの言葉を信じてくれたから、わたしは勇気をもらえたの。こんなわたしでも誰かを助けられるんだって」

 シズクの右手が躊躇ためらいがちに動き、耳元の髪をかき上げる。

 言い出しにくい何事かを隠しているサイン。

「図書館の屋上で最初に会ったときに『どこかで会ったっけ』って言ったけど、あれ、とぼけてたの。本当はきみのことはその前から知ってた。極楽通りでリヤカーは目立つし、きみがわたしをちらちら見てたのも気付いてた。だけど素直にそれを言い出せなくて。きみに予言を教えたのは、そのせいなの」

 嬉しさ半分恥ずかしさ半分で、晴史は顔から火が出る思いだった。

「わたしを信じてくれたきみのこと、わたしも信じたい。きみと過ごす時間は楽しい。わたしの全てを知ってほしいとも思う。だけど、わたしのことを残らず知ったときにきみがどう思うのか、もしかしたら嫌われたり軽蔑されるかもしれないって考えたら、ちょっと怖いの」

「軽蔑だなんて――」

 シズクはふるふると首を振った。

「わたし口下手だからうまく話せる自信は無いけど、何もかも隠さず話しておきたいの。だって今まできみだけだったから。わたしにここまで寄り添ってくれたのは」

 もう一度、シズクは髪をかき上げる。

 黒髪の毛先に纒わり付いていた光の粒が宙を舞う。

「だけど今だけは」

 シズクの口から、続きは出てこなかった。

 白い光と行き場のない沈黙が、古ぼけた六畳間をゆっくりと満たしていった。

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