3章 緑色の残陽(4)

 竹林たけばやし老人が死んでから、樹戸が時折覗かせる表情や言葉には、曰く言い難い薄ら寒さが見え隠れするようになった。彼の言動がどこかずれているのは前々からだが、ここ最近でずれは頓に顕著になっていた。

 例えば、以前に手掛けた九番街での仕事である。

 踏み込んだ室内のど真ん中で、若い女が深緋ふかひ色の花を咲かせていた。ちゃちな作りのドレッサーに並ぶ化粧品の数々に、女が春をひさいでいたことを窺うことができる。狭い室内は、床一面に飛び散った血と黒ずんだ内臓が醸し出す死の香りで溢れ返っていた。

「酷いもんだね。正視に堪えないよ」

 死体を見た樹戸は、言葉とは裏腹にどこか悠揚としていた。

 納体袋に死体を納め、二人は部屋の後始末に掛かった。

 死体から染み出した体液や血液であれば放っておいても良いが、肉片や脂肪、内臓といった組織はゴミ屋が処分する決まりになっている。放置しておいたら清掃業者が入る前に腐り、悪臭を放つからである。

 闇鍋を殺したときによほど昂奮こうふんしたのか、臓物は部屋のあちこちに散らばっていた。

 玄関先に固めておいた『ロク運び七つ道具』からトングとちり取りを持ちだして部屋へ戻った晴史は、樹戸の所業にぎょっとした。

 畳に散った内臓を、樹戸は素手で掬っていた。

「駄目だよ樹戸さん! 手袋をはめないと」

 晴史が手にしていたトングを振りながら声を張ると、樹戸は何故自分が注意を受けているのか分からないといった顔付きで見返してきた。

「いいだろ、どうせ燃やすんだし。どうやって集めようが一緒じゃないか」

「そういう問題じゃないんだよ、樹戸さん。生き物の体は、腐ると毒素を吐き出すんだ。腐っていないにしても、病気を患っていたら血や内臓から感染する場合だってあるんだよ。だからロクは、素手で扱っちゃいけない決まりになっているんだ」

 手の中の膵臓すいぞうをさも名残惜しげに樹戸は眺めていたが、「規則なら仕方ない」と床に捨て、手袋をはめ直した。ちゃんとタオルで拭かないと、と注意しかけた晴史の耳が、不穏な呟きを拾った。

「問題ないと思うんだよなあ。病気じゃなかったみたいだし」

 この言葉は誰が発したものか。部屋には晴史と樹戸しかいない。

 晴史の心に引っ掛かった事柄は、もう一つある。

 十二月に入ってすぐの頃、竹林賢二が再びイタギリに姿を現した。四十九日に合わせて海へ撒くための遺骨を引き取りに来たのである。

「お手数をお掛けします。何ぶん、この街は迷路のようですので」

 恐縮する竹林氏に「気にしないでください」と返す。

 本来は樹戸の許に便りが来たのだが、前日になって彼が感冒で寝込んでしまったため、晴史が代役を引き受けたのである。

「娘も来たがっていたのですが、子どもから手が離せなくて」

 竹林氏は黒いネクタイの結び目をしきりに気にしながら言った。

「報に触れてから数日間はさすがに気落ちしていましたが、『いつまでも、悲しんでいられないしね』と、今では気丈に振る舞っております。あれも人の親です。どれだけ落ち込もうが、赤ん坊は腹を空かせて乳をねだりますからね」

「そうですか」

「ただ一つ、心残りがあると娘は言うのです」

「心残り?」

「兄に、子どもを見せてあげられなかったことです」

 返すべき適切な言葉が思い付かず、晴史は視線を竹林氏から外した。

 見上げた空は今にも泣き出しそうだったが、住居の窓先から突き出す洗濯物をぶら下げた竿で、狭い路地は満艦飾の出で立ちである。

「以前に、兄が出産祝いを贈ると請け合ったと申しましたが、その頃の娘は臨月でした。兄は娘を労り、その日の面会はいつもより短い時間で終わりました。今思えば、無理にでも引き止めてもっと話をすればよかった、と娘は悔いておるようです。兄が行けなかった面会日が、娘の産後入院中だったこともありますしね」

 ――面会に、行けなかった?

「じゃあ、チンさんは、亡くなった日には娘さんに会っていなかったんですか?」

 思わず渾名が出たが、竹林氏は「ええ」とだけ答えた。

 竹林老人の訃音を伝える際、樹戸はなんと言っていただろう。

 ――帰って来るなり、玄関先で倒れたんだ。

 雨漏りのような疑念がぽつぽつと黒いシミを作る。

「兄は、ウインザーノットを好みました」

 耳慣れない言葉に晴史が首を傾げていると「ネクタイの結び方です」と補足があった。

「遺体のネクタイは、プレーンノットで結んでありました」

 布団で眠る竹林老人と、それを見つめる竹林氏の姿が脳裡に蘇る。

 物問いたげに竹林氏を見つめていると、ついと視線を逸らされた。

「ただ、見たままを話しただけですよ。それ以上は何も言いません」

 竹林氏の口角がわずかに歪む。

「好奇心は猫をも殺しますから」

 笑い損ねた犬のような、引きった顔だった。



 吐き出す息がすっかり白くなった頃には、晴史にとって図書館は勉学の場ではなく、シズクと束の間のひと時を過ごす場へと変わっていた。平日であっても、ゴミ屋の仕事が早くに終わった日には、作業着姿のまま図書館へ立ち寄るようにした。

 十一番街に建つ象牙色のビルへ入り、天井が低い通路を進む。反対側の出口は十三番街に通じているため、晴史はしょっちゅうこの通路を利用していた。街の大半がビルで構成されたイタギリには、建物の内部を縫う抜け道が無数に存在している。

 ――今日は、いるといいな。

 図書館を目指す足が、知らず速くなる。

 シズクと会えるのは、週に三回あればいいほうだった。彼女が来ていない日は、本を借りるだけに留めて長居は避けた。晴史の心情など知る由もない見張り番の女性が「感心ねえ」と声を掛けてくるのを、彼は曖昧な笑みでかわすしかなかった。

 シズクは窓際の席で大判の本を読み耽っていた。書架から自分用の本を抜き取り、シズクに軽く片手を挙げてから隣に座る。シズクはちらりと晴史を見ただけで、すぐまた本の世界へと戻った。

 折良くシズクと出会えても、交わす会話はさほど多くなかった。晴れの日はシズクの写生に付き合い、風が冷たい日や雨の日は図書館で本を読んだ。

「これ、わたしが好きな絵」

 白濁した窓ガラスを風が揺らす音に溶けこむような声で、シズクが紙面を指でなぞる。文字の習得を望んだシズクではあったが、古今東西の絵画を集めた画集や風景写真集を開くことのほうが多かった。

 シズクが示したのは、寂れた港から望む水平線に光の筋を放ちながら沈みゆく太陽を描いた風景画だった。

 一風変わっていたのは、その色遣いである。残照は赤でも橙でもなく、鮮やかな緑色で表現されていた。空のスペクトルも浜辺に打ち棄てられた漁船も緑に染まっている。

「変わっているでしょ」と同意を求められたが、晴史は悲しくかぶりを振った。

「俺、色がよく分からないんだ」

「眼の病気なの」

「それも分からない」

 シズクは顔を近付け、じっと眼を覗き込んできた。細い吐息が頬に掛かり、晴史の顔はみるみる上気する。

「眼の色はおかしくないのに、どうしてなんだろ」

 シズクは視線を解いて画集に戻った。晴史も伏せておいた読みかけの小説を再び手に取りページを繰る。静かな時間が活字の隙間に溶けていく。胸の高鳴りと顔の火照りはなかなか消えなかった。

 晴史は嘘をついた。色がよく分からなくなったきっかけには思い当たる節があった。

 彼が五歳のことである。

 その日晴史は、外遊びから帰るなり常日頃から抱えていた憤懣を母にぶつけた。

「どうして母ちゃんは、いつもいつもよその男を連れて来るんだよっ!」

 青痣が棲みついた小さな膝からは血が流れていた。

 苛立ちをあからさまに見せた母の機嫌を察するには、晴史は余りに幼かった。

 やにわに襟首を掴まれ、畳の上に引き倒された。

 呆然とする晴史に、母の打擲が雨あられとなって降り注ぐ。

 父は杯を重ねながら、妻の暴行を止めようともせず、虚ろな目を向けていた。

 痛みの中で仰ぎ見た母の醜い顔は、激情でなお一層醜く歪んでいた。

「お前がいるからだろ! お前を産んだから、こんな商売続けなきゃいけないんだよ! お前なんか堕ろしちまえばよかったんだ!」

 母の罵声は、拳や平手よりも痛かった。

 打撃に耐えるために丸めた体を、母の足が強く蹴飛ばした。運の悪いことに、転げた先には卓袱台があった。強かに頭を打ち付け、晴史の意識は瞬時に刈り取られた。

 正気付いた彼の視界が最初に捉えたのは、一筋の光すら射し込まない闇だった。頭の天辺から爪先まで詰まった痛みを、押入れの息苦しさの中で堪えるのは、幼い晴史にとって大変な苦痛だった。意識が有と無の間を何度も行き来した。ようやく気絶せずに済むようになったのは、母のヒステリーから丸々一日が経った頃だった。

 襖越しに窺うと、母は不在のようだった。卓袱台の上には乾いた食パンが一枚だけ置かれ、台の横では赤ら顔の父が熟睡していた。侘しい食事にがっついていると、共用廊下から足音が聞こえてきた。パンの残りを口の中へ押し込み、慌てて押入れへ引き戻る。玄関先から二人分の靴音と、母が「邪魔だから隅っこで寝てて」と父を邪険にする声が聞こえた。数分後に繰り広げられた艶事の音に、晴史は耳を塞いだ。

 視界の異変に彼が気付いたのは、それから数日後のことだった。

「お寺に行きたい」

 唐突にシズクが画集を閉じ、席を立った。

 凩が汚臭をかき混ぜる中、晴史とシズクは言葉少なに寺を目指して歩を進める。外の世界ではジングルベルが巷に溢れる時期ではあったが、イタギリには無機質な冬だけが横たわっている。小さなもみの木のイミテーションさえ、どの窓辺にも見当たらない。

「絵はお父さんが教えてくれたの」

 マフラーですっぽり口元を隠したシズクが、ぽつりと切り出した。

 彼女が父親のことを自分から話したのは、これが初めてだった。

「お父さんはいつも家にいたけど、あんまり相手をしてもらえなかった。でも、絵を教えてくれる時だけはすごく熱心だったの。お母さんと出会う前は絵を描いてたって言ってたから、そのせいかも。画材を買ってくれたし、図書館に連れてってくれたのもお父さん。ここは眺めがいいからスケッチにはもってこいなんだ、て」

「画家だったの?」

 シズクは「ううん」と髪をかき上げる。形の良い耳たぶには、ほくろが二つ浮いていた。

「ずっと、お母さんのお手伝いしかしてなかった」

 それだけ言って、シズクは口を閉ざした。

 彼女の横顔には、深く立ち入ることを拒絶するような冷たさが漂っていた。

 十四歳のシズクは、子供じみた貌と大人びた貌とを併せ持っている。

 多くを語らず、感情の起伏もほとんど見せないシズクと接していると、時として幼い子どもの相手をしているような錯覚を抱かされる。その一方で彼女は、はっと胸を突かれる物憂げで触れ難い雰囲気を纒うときもある。

 どちらがシズクの本当の貌なのか、晴史は掴みかねていた。

「でも、羨ましいよ」

 晴史は重い空気を払拭するように、明るい声を作った。

「いつもじゃないにしても、お父さんに可愛がられてたんだろ? 俺んちなんてひどいもんさ。母ちゃんはどっかに行ったきりだし、父ちゃんは毎晩のように酔っ払って、俺のことなんてまるで眼中に無いんだから。親らしいことなんて、してもらったことないよ」

「でも、お父さんと話すことはできるんだよね」

 愚痴をこぼした晴史に、シズクは静かな声で応える。

「わたしのお父さんはもう、わたしの言葉も分からないし、話し掛けてもくれないから。わたしからしたら、きみのほうが羨ましい」

「――ごめん」

 晴史が謝ると、「気にしないで」とシズクは小さく手を振った。

 乾いた風が路地を駆け抜けた。

 晴史もシズクも、それきり言葉を交わさなかった。

 寺に着くなり、シズクは影舎の連子窓に張り付いた。晴史も彼女と並んで窓を覗き込む。

 窓の奥には、等間隔で敷き並べられた不揃いの骨壺と、その間で蠢く無数の影が見えた。曖昧な輪郭の影が蝟集しているというだけで、板間は夕闇に包まれた路地よりも暗い。観察してみると、影の挙動はまちまちだった。

 しきりにうんうんと頷く影。立ったまま左右に体を揺らす影。8の字の軌道で歩き回る影。ぶるぶる震え続ける影。しゃがみこんで骨壺を見下ろす影。彫像のように直立不動の影。

「どれがお父さんの影か、分かるの?」

 シズクは「たぶん、あれ」と影の一つを指差す。衛星さながらに、影は骨を納めた一升瓶の周りをぐるぐる回っていた。

「遠見を頼みに来る人たちが教えてくれたの。二年くらい前にいきなりここに連れて来られて『あれがお前の親父だ』って。何のことだか全然分からなかったけど、お父さんはそれから家に帰って来なくなったから、あの黒いのがお父さんなんだって思うようにしてるの」

 説明する間も、シズクは父親の影から目を離さなかった。

 からん、と下駄が鳴る音がした。

「おう、来てたのか。茶でも飲んでけや」

 住職が酒臭い息を吐きながら、ひょっこりひょっこりやって来た。

「ったく、お前も気が回らねえ奴だな。女の体、冷やすんじゃねえよ」

 太い肘で小突かれ、晴史はたたらを踏む。

 住職とシズクが肩を並べて堂宇へ入っていくのを、小走りで追い掛けた。

「最近、やけに可愛らしい格好してんじゃねえか」

 作務衣の胸元を掻きながら、住職がシズクをじろじろと眺め回す。

 休日のシズクは極楽通りの野暮ったさからは想像もつかない小綺麗な身なりであることが多かった。タートルネックのニットにフレアスカートを合わせただけのシンプルな装いだったが、それがかえってシズクの可憐さを引き立たせていた。きっと女の子らしい華やかな色合いなのだろうな、と晴史は、色を見分けられない目を恨めしく思った。

「そりゃあれか。ゴミ屋の小僧に褒めてもらいてえから、てか」

 住職が冷やかすと、シズクは「えっ?」と短く発したきり唇をきゅっと結んでしまった。すまし顔の耳元だけが、ほんのりと赤らんでいる。

 シズクは晴史を一瞥だけして、すぐさまつんと前を向いた。

 彼女の眼は「そうだよ、鈍感!」と晴史を罵ったようにも「変なこと言わないで」と住職の軽口に腹を立てたようにも見えたが、掛けるべきうまい言葉が見付からない。

 傷だらけの黒塗り柱に囲まれた仏堂には線香とどぶ水の臭いが染み付き、黄色く褪せた畳にはささくれが目立つ。漆喰塗りの壁は継ぎ接ぎだらけである。天井の梁で女郎蜘蛛が大きく巣を張っていた。

 縁が欠けた湯飲み茶碗に淹れた焙じ茶を啜りながら、茶菓子代わりの武勇伝を聞かされる。晴史は本来争いごとを好まない質だったが、住職の巧みな語り口に釣り込まれ、気が付けば身を乗り出して聞き入ってしまっていた。有り難くも抹香臭い説法は、最後まで住職の口からは出てこなかった。

「あれ、何」

 湯飲みを手にしたまま、シズクが須弥壇の脇に据え置かれた古い棚を指差した。埃をかぶった桐箱が隙間なく並べられている。

「面白い代物じゃねえぞ。時々ここに持ち込まれてくんのを置いてやってんだ。棄てちまっても構わねえんだが、どうにも憚られてな」

「何が入ってるんですか?」

 晴史も興味をかきたてられた。「見世物じゃねえんだがな」と渋りながらも住職は桐箱を一つ取って戻る。紺の紐で括られた箱は片手に乗せられるほどの大きさだった。

 中を覗き込み、晴史は息を呑んだ。住職の口角が吊り上がる。

「な、面白いもんじゃねえだろ?」

「うん、あんまり」

 二の句が継げずにいる晴史に代わってシズクが答えると、住職は豪快に笑った。

「肝据わってやがんなあ、シズクは。将来は亭主を尻に敷くこと、間違いなしだ」

 なあ、と住職に背中を叩かれながら、晴史は苦笑いを浮かべる。

 シズクとの交流は、逢瀬と呼ぶにはあまりにも拙かったが、晴史は満ち足りていた。

 大量のごみやロクを運ぶしんどさも、砂を噛むような父との生活に疲れた心も、シズクと過ごすひと時が慰めてくれた。

 ――街の暮らしは面白くないことばかりだけど。

 この時間だけは、変わらず続きますように。

 住職の笑声を聞きながら、晴史は須弥壇に鎮座する本尊へそっと願を懸けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る