2章 灰色の秋雨(3)

車軸を流したような雨が、イタギリを叩き続けていた。

 元より彩りに乏しい街並みは灰色に煙り、陰欝いんうつな街の空気は一層重苦しかった。

「見立てでは、不整脈の発作だろうって」

 朝礼で顔を合わせるなり竹林老人の死を告げられて絶句する晴史に、樹戸は「昨日、外へ出て行ったんだ」といきさつを話し始めた。

「帰って来るなり、玄関先で倒れたんだ。慌てて抱き起こしたけど、もう息がなかった。加齢で弱った体にゴミ屋の仕事が祟ったんだろう、て医者は言ってた」

「チンさんは、今どこ?」

 雨音に掻き消されそうなほど低い声で晴史が訊ねた。

「家に寝かせてある。白装束は用意していないけど」

 轟く雨音が、会話の空隙くうげきを埋めた。

 樹戸が晴史の肩にそっと手を添える。

「午前中の仕事が終わったら、焼きに行こう」

 雨の日は、指定の捨て場に出されるごみ袋の数が格段に少ない。ごみの総量が減ったわけではない。屋内に捨てられるごみが増えただけである。

 レインコートから流れ落ちる雨水もいとわず、晴史は黙々とごみをリヤカーに積み続けた。水気を吸ったごみ袋は重く、荷台に載せると板の表面に浮いた水がしぶく。樹戸もまた終始無言のまま作業に没頭していた。その日の作業は三つの捨て場と六番街の内部に分散したごみを集めただけで、七番街と八番街の建物には手を付けなかった。

 集積場へごみを捨てた足で、二人は昼も摂らず竹林たけばやし老人が入居していた十七番街のビルへ向かった。道中で、ショルダーバッグを提げて雨の通りを駆ける少年とすれ違った。中身を濡らさないように、レインコートで古ぼけたバッグを庇っている。子どもの拳大に空いたバッグの穴から、消印付きの葉書が覗けた。イタギリの少年たちにとって、郵便物や新聞の配達は絶好の小遣い稼ぎである。

 うつむく樹戸が「竹林さんの涙雨だ」と呟いた。

 ――これがチンさんの涙だとするなら、どういう気持ちで泣いてるのかな。

 晴史はただの一度も、竹林老人が泣いている姿を目にしたことがなかった。

 感動の涙。悲嘆の涙。歓喜の涙。

 いずれの涙も、人を喰ったようなあの老人とは結び付かなかった。

 十七番街のビルを五階まで上り、共用通路に出たところで、二人は口をあんぐりと開けた。

「チンさんっ?」

 部屋の前に立っていたのは、誰あろう、死んだはずの竹林老人その人であった。

 しかし、背筋を伸ばして直立するスーツ姿の竹林老人は、「何よ二人とも、幽霊に出くわしたような顔しちゃってえ」などとおちゃらけもせず悠々と頭を下げた。

 薄い頭頂部を目にしてようやく晴史は、目の前の竹林老人が短髪であることに気付いた。

「もしかしてお二方は、兄のお知り合いですか?」

 竹林老人に似てこそいるが響き具合が異なる、寂のある声だった。

「兄?」

「私、竹林賢二と申します。竹林宗一は私の双子の兄です」

 竹林老人に弟がいたことも、まして双子の片割れであることも初耳だった。

 晴史の後ろで阿呆あほうのように突っ立っていた樹戸が、思い出したように「ここではなんですから」と竹林氏を室内へ招き入れた。

 四畳半間の真ん中にのべた床で、竹林老人は静かに眠っていた。白装束の代わりに、三つ揃いの背広姿であった。死人だけが作り出せる緩みきった表情と肌色の薄さを目にして、晴史はようやく竹林老人が逝った事実を呑み込んだ。涙のひと粒も溢れてこなかったのが、我が事ながら不思議だった。

 竹林氏は兄の亡骸なきがらを前にしても取り乱すことなく、全てを悟ったような表情でしばし死に顔を覗き込み、やがて静かに手を合わせた。

 端座したままで竹林氏が差し出した名刺には、『株式会社竹林商事 代表取締役 竹林賢二』とあった。

「竹林商事って、卸売りの大手じゃないですか」

 樹戸が唖然と、名刺と竹林氏の顔とを見比べる。

「礎を築いたのは、先代である父です。その父の会社に、兄と私は勤務していました。手前味噌を並べるなんてと嗤われるかもしれませんが、兄は私よりもずっと明晰で弁も立ち、若い時分から将来を嘱望されていました。社内外を問わず人望も厚く、組織の長に収まるべくして生まれた傑物だと、業界でも評判になったほどです。父は兄に多大な期待を寄せ、ゆくゆくは自らの後釜に据えようと目論んでいました」

 もし仮に、生前の竹林老人がこの賛辞を耳にしたら、おそらくは「やめてよ賢二、照れるじゃない」と面映おもはゆさに笑ったであろう。

「事件は突然起こりました。兄が突如失踪したのです。兄を次期代表取締役に推挙するための役員総会が開かれる二日前でした。当時兄には、父の勧めで縁付いた妻と二歳の娘がいましたが、彼女たちにも一切を告げず姿を消したのです。書斎には、何も言わずに出て行く事を許してほしいとだけ書かれた、短い書き置きが残されていました。当然ながら上を下への大騒ぎとなりまして、八方手を尽くしましたが、兄の足取りは一向に掴めませんでした。父は兄がいなくなった直後に心労で倒れ、そのまま快復することなく三年後に亡くなりました。可愛さ余って憎さ百倍、という言葉がありますが、父は最期まで兄を赦そうとはしませんでした。母はさらにその一年後、父の跡を追うようにこの世を去りました。結局、会社は私が継ぐこととなりました。社業の発展に粉骨砕身する傍らで私は兄の捜索を続けましたが、ようとして兄の行方は知れませんでした」

 竹林氏は心底疲れた面持ちで、大きく息を吐いた。目の下のくまが濃い。こうして実兄の来歴を語ることすら、彼にとっては難儀のようであった。

「兄が実家へ姿を見せたのは、失踪からまるまる二十年が経った時です。兄はすっかり変わっていました。女物の衣裳をまとい、女口調で話す兄を目の当たりにして、私は困惑を隠せませんでした。父と母が鬼籍きせきに入っていたのは、むしろ幸いだったのかもしれません。あの兄の姿を見ずに済んだのですから。何の断りもなしに出奔したことを兄はしきりに詫び、娘に会わせてほしいと申し入れてきました。兄の妻、つまり私の義理の姉は、兄が消えた八年後に病を得て亡くなっていました。子宝に恵まれなかった私たち夫婦は、遺された兄の娘を養子として引き取っていたのです」

「それで、娘さんは――」

「けんもほろろに突っ撥ねました。連絡の一つも寄越さなかったくせに、今頃になってしゃあしゃあと家にやって来るだなんて面の皮が厚いにも程がある、と玄関先に姿を見せようとすらしませんでした。娘には兄の記憶など全くありませんでしたが、自分たち母娘を捨てた父親へ深い恨みを抱いていたようです。実の娘に拒絶されてすっかりしょげ返った兄を、私は近くの喫茶店へ誘いました。何故突然姿を消したのか、二十年もどこで何をしていたのかを聞き出すことにしたのです」

「そこで、竹林さんの心が女性であると明かされたわけですね」

 竹林氏は「そうです」と頷いた。

「自らが性同一性障害であり、長年に亘ってその事を誰にも相談できずに苦しんだことを兄は告白しました。父の顔に泥を塗らぬよう男として振る舞うことも、子作りのためのセックスも、手足をもぎ取られるような並々ならぬ苦痛であったと兄は明かしました。会社を継ぐのが本決まりになったことが失踪に至ったきっかけでした。これ以上、周囲と自分を欺き続けることに耐え切れなくなったというのです。兄は家を出てからの二十年間についても滔々と語りました。偽名を使ってショーパブのプロモーターや訪問販売で食っていたこと。時には詐欺まがいの商売に手を染め、警察の厄介になる寸前まで行ったこと。ゲイバーを切り盛りしていたこと。そして兄は――」

 そこまで話して、竹林氏は急に押し黙った。

 樹戸が「何があったんですか?」と先を促したが、竹林氏はなかなか話を続けようとしなかった。勝手に話したりして怒られやしまいかと顔色を窺うように、兄の死に顔をちらちらと見るばかりである。

 部屋の中に、篠突く雨の音だけが響いた。

「分かりました、お話しします」

 竹林氏が再び口を開いたのは、話が途切れてから十分余りが過ぎた頃だった。

 氏の視線は、竹林老人に向けられたままだった。

「兄は、人を殺していました」

 竹林氏のどぎつい一言に、晴史は耳を疑った。樹戸の顔も驚きの色で満ちている。

 ――チンさんが、人殺し?

「バーを開いてから数年が経った頃、二十歳過ぎの青年が入店してきました。彫りが深い顔立ちの美丈夫だったそうです。兄は青年の名を明かしませんでしたから、ここでは仮にAとしましょう。兄がAと懇ろになるまで、さほど時間は掛かりませんでした。兄はAを猫かわいがりし、最終的には店長に彼を据え、一切の権限を与えたのです。それが過ちの始まりでした。やがてAは増長し、店の金を横領するようになりましたが、兄はそれに気付きながらも目こぼししたのです。恋は麻薬といいますが、兄ほどの人物の目を曇らせてしまうほどに愛欲の魔力は強いのです。Aの不正を追及しない兄の煮え切らなさにスタッフは愛想を尽かし、くしの歯を挽くように店を去って行きました。兄が我を取り戻したときには、店はガタガタでした。赤字まみれの店は人手に渡り、Aとは連絡が取れなくなっていました。洋々とした前途と家族を捨ててまで手に入れた新しい人生を、恋人を、兄はこうして失ったのです。それでも兄はAを諦めきれず、彼を捜しました。そうしてとうとう、居場所を突き止めたのです」

「そこで彼を殺してしまった、というわけですか?」

 樹戸が先回りすると、まるで自分が重い罪を犯したかのような暗い面持ちで、竹林氏は額に手を当てた。

「兄はAの許を訪ね、縒りを戻したいと迫りました。今までのことは水に流すから、どうかもう一度恋人でいてほしい、と。Aは兄を嗤いました。金も無い老いぼれと元の鞘に収まるつもりはない、もう新しい恋人もいるのだ、と。どれだけ兄が言葉を尽くしても、Aの答えは変わりません。兄は眼の前が真っ暗になり、前後不覚に陥りました。正気に返ったときには、血だらけのAが床に転がっていました。兄の手には包丁が握られていました。注いだ愛が深かった分だけ、募った憎しみもまた強かったのでしょう。兄は逃げました。逃亡の末に辿り着いたのが板切だったのです。住み始めた頃は些細な物音にも怯え、新聞やテレビを見るのすら怖かったといいます。兄の精神が落ち着きを取り戻すまでに、五年ほどの歳月を要しました。会社を裏切り家族を捨てた挙げ句、人をあやめてしまった。これより先は日陰者として生きていくより他ないと兄は覚悟し、板切をつい棲家すみかと決めたのです」

「それは……辛い過去ですね」

 樹戸がどこかずれた相槌を打った。

「過去を打ち明けられ、私は頭を抱えました。果たして兄を娘に会わせていいものか、警察に自首するよう説得すべきではないのか、と。思い悩んでいるうち、ふと疑問が湧きました。何故兄は、今頃になって実家へ戻ってきたのだろう。もしかすると警察に見つかるかもしれないのに、危険を冒してまで何故娘に会いに来たのだろう。そのことを兄に訊ねましたら、つい最近まで重い病気で床に臥せっていたというのです。死線を彷徨い、どうにか一命を取り留めた兄に心境の変化が訪れていました。いつ自分はこの世から消えてしまうかもわからない。死ぬ前に全てを清算しなければならない。真っ先に思いついたのが、私や娘との関係の修復だったと、兄は語りました」

 竹林老人が休日のたびに街の外へ出掛けていた理由を、晴史は理解した。

 ――陰のあるミステリアスな魅力に、人は惹きつけられるものなのよ。

 竹林老人が囁いたような気がした。

「散々考え抜いた結果、私は兄を警察へ突き出さないことにしました。身内に甘いだの不道徳だのとののしられるでしょうが、兄の強い覚悟と熱望が痛いほど伝わってきたからです。私は兄が実家を訪れることを許しました。その翌週に兄は再び訪れてきました。女もどきの恰好ではなく、実業界で名を馳せていた頃を思い起こさせる整った身なりで、です。兄の実家通いは三年に及びました。先に折れたのは、娘のほうでした。二十余年の時を経て、兄と娘はようやく親子の縁を取り戻したのです。娘に会う時の兄は女ではなく、毅然とした父親の貌でした。月に一度の面会は五年余りに亘って続いていましたが、決まって兄が娘の許へ通い、住まいへ娘を招くことはありませんでした。住所すら教えてもらえず便りも出せない、と娘は常々嘆いておりました」

 一旦竹林氏は話を区切り、綺麗に剃刀かみそりが当てられた顎をさすった。

 悲しみと喜び、相反する感情が複雑に絡み合った色が竹林氏の顔に浮かぶ。

「先日、娘に子どもが生まれたんです。私達の初孫です。娘の懐妊を知った時、兄は斜めならず喜びました。次に会う時はもう産まれているだろうから出産祝いを持参しないとな、と朗らかに笑っていたのが、つい先月のことだったんです」

 語り終えて、竹林氏は目頭を押さえた。

 月に一度、竹林老人がイタギリの外へ出ていた理由も、酒席で口にした「良い事」の言意も、ようやく晴史は呑み込むことができたが、一つ疑問が残った。

「どうして竹林さんは急にここへ来たんですか? それにチンさ……竹林お兄さんは、どこに住んでいるのか教えなかったんでしょ?」

「昨夜、夢を見ましてね」

 竹林氏は眠る兄の顔を再び見た。

「夢の中で兄は、暗い道に立って寂しそうに笑いながら、さようなら元気でね、と只管に繰り返していました。目が覚めても胸騒ぎが収まらず、娘には内緒でと兄から教えられていた住所を頼りに、おっとり刀で駆けつけたというわけです」

「双子には不思議な力がある、とはよく聞きますね。お互いの考えていることが分かったり、互いの身に起きた異変に気付いたり」

「それはあくまでも俗説に過ぎませんよ。同一の生活環境と価値観に育まれた結果、思考の組み立て方が極めて似通うためにそう見えるのでしょう。考えが読めるわけではありません。どれだけ外見がそっくりな双子であっても、人格の壁というのはちゃんと存在しています。現に私は、兄の性向に長い間気付くことができなかったのですから」

 言下に否定された樹戸は、ばつの悪さを取り繕うように重ねて訊ねた。

「それで竹林さんは、これからどうなさるおつもりですか? お兄さんのご遺体を持ち帰られるのですか?」

「亡くなる直前の父からは、あいつは絶対に竹林家の墓に入れるな、と厳命されましてね。兄を連れて帰りたいのはやまやまですが、父の遺志も蔑ろにはできません。ここに来るまでずっと悩んでいましたが、やっぱり兄は板切で荼毘に付そうと思うのです」

「でも、こっちのやり方は、焼いて川に流すだけ――」

 言いかけて、晴史は竹林老人の言葉を思い出した。

 ――死んだらとっとと焼いて、海にでも撒いてほしいくらいよ。

 晴史が故人の遺志を伝えると、竹林氏は強張っていた表情をようやく和らげた。

「兄らしいですね。生前の兄は唯物主義者で、死後の世界など無いと断じていました。兄が自らの亡骸に恋々としないならば、それに従うのが遺された者の務めなのでしょう」

「では、焼いてしまっても」

「ええ、お願い致します」

 きっぱりと言い、竹林氏は頭を下げた。


 正装姿のまま、竹林老人の亡骸は納体袋に入れられた。晴史と樹戸とで、壊れ物を扱うような手付きで袋をリヤカーに積んだ。雨足はぐっと和らぎ、レインコートをやわやわと打つ霧雨に変わっていた。焼却棟へ向かう道中ですれ違う人たちは、ちんちくりんのチンさんが余所行きを着て紳士然と振る舞うのを、怪しげに見ていた。

 袋から出されて鉄板に乗せられた兄の亡骸に、竹林氏が手を合わせて瞑目する。樹戸も同じようにして、晴史に囁いた。

「死んだ人には、こうやって哀悼を示すんだよ」

 ゴミ屋の仕事で数多くの死体を焼いたが、合掌をしたことはなかった。

 竹林老人の小さな体が焼かれるのを、晴史は覗き窓越しにじっと見ながら、かつて図書館で読んだ短編小説を思い返す。

 舞台は西洋の墓舎。棺に納められた仮死状態の婦人が息を吹き返したものの、堅く閉ざされた舎の扉を開けることがついに叶わず、扉に凭れ掛かって絶命していたという奇譚である。婦人の底知れぬ絶望を想像して晴史は戦慄に震えると同時に、もし自分が建物の外で扉を叩く音を耳にしたとしたらどうするだろうかと思案した。

 すわ一大事と扉の閂を抜いてやるのか、はたまた悪霊の仕業と耳を塞ぐのか。

 背後で、モルタルの床を踏む靴音が遠ざかった。

 首だけで振り向くと、竹林氏の痩せた背中が出て行くのが見えた。

 晴史は樹戸に炉の番を任せると、竹林氏を追って外へ出た。雨はほとんど上がっていた。見上げた狭い空に塵となった兄を乗せた煙がそびく様を、竹林氏は身動ぎせずに凝視していた。煙を避けるようにして、一群のカワラヒワが西の空へ飛び去っていく。

「沖の潮風、身にしむ鴎、汝も無常の煙に咽ぶ、か」

 晴史に気付いた竹林氏が、独り言を聞かれてきまり悪そうに苦笑いを浮かべた。

「煙になってしまえば、誰でも一緒ですね。父や母のときもこんな煙でした」

 竹林氏は内ポケットから煙草を取り出して一本を咥え、金色のライターで火を点けた。

「先程は伏せていましたがね、実を申しますと、二十年ぶりに実家へ顔を見せた兄に怒りを露わにしていたのは、娘だけではありませんでした。私もまた、兄に対してきつい言葉を浴びせてしまったのです」

 紙巻きの火種からくゆる紫煙の行方を、竹林氏は油断なく見つめる。

「最初は、仕事や家族を捨てた兄の無責任に対して激しい怒りを覚えていました。兄の顔を見た途端に爆発したのは二十年分の欝憤です。しかし話を聞くにつれ、兄の他人行儀にやるせない気持ちが湧き上がってきました。己を貫き通すのも結構なことです。けどそれならそれで、なぜ私に相談してくれなかったのか。だって、そうじゃありませんか。父や母は古い人間でしたから、兄の気質を理解してくれなかったでしょう。しかし私は違います。一つの胎で十月十日を共に過ごし、同じ日に生まれ落ちた兄と弟なのです。それなのに、あまりに水臭いじゃないか。そう考えたら、やるせなくなったのです」

 竹林氏は煙草を携帯灰皿でもみ消し、肺に残った煙をふっと吐き出した。

「しかし、兄の人柄を顧みれば、私たちに一切を告げなかったのは至極当然です。兄は他人を思いやる気持ちが人一倍強い人物でした。そうでなければ名望を集めることなど、油を塗った手で鰻を捕まえるくらい不可能です。おそらくは、相談することで私に累が及ぶことを避けたかったのです。私が兄の出奔に見て見ぬふりをするのも、それを知った父が私を手痛く叱責するのも想定の内だったのでしょう。だから黙って出て行った。そう結論付けたら、いくらか気持ちの整理が付きました」

 在りし日の竹林老人を、晴史は思い返した。皮肉と毒舌ばかり吐いていたが、未熟な自分に仕事のやり方をはじめとしたあれこれを教えてくれた、もう一人の父親。

「私の推察が正しかったのかは、もう確かめようもありません。兄は灰になってしまいましたから。どんな光をも透さない闇があるとすれば、それは他人の心です。たとえ同じ遺伝子情報を持った双子であったとしてもね」

 樹戸が焼き上がりを報せ、二人は棟へ戻った。

 竹林老人の遺骨はがっしりと太く、生前の達者を偲ばせた。

 寺へ向かう道中、リヤカーの振動に合わせて骨がぶつかり合う乾いた音が絶えず鳴り続けた。それが竹林老人の足音に思え、晴史は幾度となく背後をちらちら振り返った。竹林老人の亡霊も、まして影の姿も見えず、晴史はそっと安堵あんどした。

 寺の格子戸を叩くと、岩石のような住職が相変わらずの強面で出迎えた。

「珍しい恰好してやがるな、ジジイ。おめかしして若い男とデートなの、てか?」

 からかい混じりの挨拶にも憎まれ口ひとつ返さない老爺に違和を覚えたか、住職の顔が厄介事を持ち込まれた役人のようにみるみる硬くなる。

「竹林賢二と申します。生前は兄が大変お世話になったそうで」

 頭を下げる竹林氏に、事情を察した住職が真面目くさった顔で重々しく弔詞を返した。

 話し合いの末、骨は四十九日まで寺に安置することで落ち着いた。

「差し支えなければ、分骨させちゃもらえませんかね。こちらで責任を持って永代供養させてもらうんで」

 住職の提案に、竹林氏は少しだけ逡巡したが「兄の骨が残るなら」と快諾した。

 供養の費用を竹林氏が切り出すと、住職は「世話ンなりましたから」と固辞し、白磁の骨壺を二つ用意した。

「ジジイへの手向けだからな、奮発だ」

 住職の口元が、寂しそうに緩む。

 骨上げと読経どきょうが済むと、「では、私はこれで」と竹林氏は寺を辞した。街の出口までの案内は樹戸が買って出た。

 樹戸が行きしなに「こんな時に不謹慎だけど」と、親指で影舎を指した。

「例のあの子だよね。声でも掛けてみたら。竹林さんだって大目に見てくれるよ」

 連子窓に張り付いて中を覗き込む、絵描きの少女の姿があった。

 屑石の山から宝石を見付けたかのように、晴史の目が少女に吸い寄せられる。

「ありゃあ、シズクだ。たまにああして、影を見に来るんだ」

 少女に気を取られている間に横へ並んだ住職が、彼女の名を口にした。勿怪の幸いに、樹戸が言うように不謹慎だとは思いつつも、晴史の心は小さく躍った。

「あの中には、シズクの父ちゃんがいる。二年くらい前に、影になっちまったんだ」

「影って、何をしたの……んですか?」

「知らねえよ。他所様の事情にずかずか踏み込むほど俺も野暮じゃねえ。シズクにしても、シナズやら影については、まるで知らねえみたいだからな。俺が知ってることといったら、あいつの母ちゃんってのが有名な占い師ってことくらいなもんだ」

「占いって、あのジャラジャラやったりガラス玉を覗きこんだりする?」

「ガラス玉じゃなくて水晶球な」と住職が正した。

「あいつの母ちゃんは、筮竹ぜいちくも羅盤も、何一つ道具を使わなかったんだ。周りからは『占いママ』なんつうふざけた渾名で呼ばれていたがな、本人はその渾名が気に入らなかったらしい。私の力は占いではなく『遠見』なんだ、てな」

「遠見って?」

「リモートビューイングっつうのかな。離れた場所の人間や物を視て、それがどこにあってどんな状態かを言い当てる能力だ。俺は信じちゃいねえが、ずばずば的中するっつうんで、地回り連中は人捜しに重宝してたみてえだな」

 してた、という言い草が引っ掛かった。

「おい」と住職が手招きすると、シズクは警戒する様子も無く寄ってきた。

「なあシズク、せっかくだからこの兄ちゃんに送ってもらえや」

「えっ?」

 住職のいかつい顔に、玩具を見つけた子どものような悪戯っぽい笑みが浮かんだ。

「こいつの家まで遠かねえが、女を家まで送り届けるのが男の務めってもんだぜ」

 なおも二の足を踏む晴史の背中を、大きな掌が張った。

 二人のやり取りを、シズクはきょとんと眺めていた。



 

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