23

 ――それから約二時間後。

「ちょ、ちょっと待って休憩っ」

 畳みかけるような特訓にたまりかねた僕は、とうとう音を上げてスタジオルームを飛び出た。

「詠人、もう一回やるわよっ! 根性なし!」

 スティックを振り上げてカウントを取ろうとしていた怜未が、僕の背中に怒声を浴びせてくる。それにかまわず、僕は這々の体で退散した。

 途中から数えるのをやめたけど、もう百回は通しで練習しているんじゃないのか。スタミナのあるプロ野球の投手ですら、九回まで投げ続ければ体力が切れてくるだろうに、怜未とソラは少しも疲れた様子を見せない。それどころか、練習の回数を重ねるごとに、怜未の顔はぷりぷりともち肌の輝きを増してきているようにすら思える。それがスタジオの鮮やかな照明に照らされて、まるで画面の中を踊る映画の女優みたいに見えた。ソラはソラで、端正な顔立ちを微塵も崩すことなくベースを弾き続け、そのくせ汗一滴もかいていなかった。なんなんだこいつら。常人じゃねえ。

 僕は凡人なので、八回目の通し練くらいからもう疲労が滲み始めていた。十五回目くらいから思うように指が動かなくなり、二十を過ぎたあたりから数えるのをやめた。怜未が「もう一回」と言うたびに、ギターの重さが呪いのように僕の肩に食い込んでくる。

 カウンター前のロビーにあるソファに寝転がり、荒れた息を整える。

 汚い天井を眺めながら、僕は過ぎ去りし日々に思いを馳せた。ずいぶん遠いところまで来たものだ。一ヶ月以上前、ソラに出会う前の僕は、楽器室でひとりギターを触って音楽を聴いていた。誰に聴かせるでもなく六弦を掻き鳴らし、満たされる和音にただ身を寄せるだけだった。そのときの僕は、それでもなんの不満も焦燥もなかった。だれかに聴いてほしいと切に叫ぶギターの音色も、僕が聴いてあげればいいと思っていた。

 でもソラに出逢って、僕の考えは変わった。ソラにそばで聴いてもらって、僕の音楽は変わった。やはり音楽は、だれかに聴いてもらわないとだめなんだということを知った。だれかの鼓膜を震わせ、だれかの魂を奮わせるのが音楽なんだということを知った。でもまた僕は、それで充分だと思っていた。ソラと楽器室の中でおなじ音楽を聴いて、おなじ周波数で振動して、僕らの魂が共鳴し合えればそれでいいと思っていた。たとえ彼女が、音楽を嫌いだと言ったとしても。

 だから、ソラと一緒に音楽をやれるだなんて、微塵も思っていなかった。そこに怜未が入って三人でバンドを組めるだなんて、夢にすら見たことなかった。家族を音楽でばらばらにされた少女と、両親を音楽に奪われた少女が、一度は見放した音楽とふたたび向き合えるようになってくれるなんて、まるで奇跡のことのように思える。

 僕は静かに目を閉じた。

 それならいったい、僕にはなにができるんだろう。このふたりの少女のために、僕にできることなんてあるんだろうか。

「ひゃあっ!」

 急に額に冷たい感触がしたので、変な声を上げながら跳び起きた。僕が寝そべっているソファの横に、世羽さんが立っていた。小悪魔みたいな微笑を顔に貼り付けている。

「なんだ、世羽さんか……」

「なんだ、とはごあいさつだな」彼女は右手を挙げて僕に見せびらかすように振る。「せっかく差し入れを持ってきてやったのに」

 彼女の右手には、スポーツドリンクの青い缶が握られている。僕は「ああ、ありがとうございます」と言ってそれを素直に受け取った。姿勢を直してソファに座り、世羽さんがそのとなりに腰掛ける。青い缶のプルタブを起こして一口含むと、まるで渇いた魂に直接沁み込むみたいに、全身の細胞が活力を取り戻して行くのを感じた。肩に食い込んだ怜未の呪いもいくぶんか和らいだようだ。

 ぷしゅっ、と小気味いい音がとなりから聞こえたので目を遣ると、世羽さんが発泡酒のプルタブを起こしていた。そのまま一気に缶を呷り、こくこくと喉に流し込んだかと思えば、「ぶはあああっ」とおっさんみたいな吐息を漏らしている。昼間っからなに飲んでんのこのひと。ていうか仕事中じゃないの?

 思いのほかまじまじと見つめてしまっていたようで、僕の視線を勘違いした世羽さんは、発泡酒の缶をさっと後ろ手に隠す。

「これは私のだ。おまえにはやらんぞ」

 あんたの酒なんて狙ってねえよ。

「ガキの飲むもんじゃない。大人になるまで我慢しな」

「……そんなにおいしいんですか?」

「酒はうまいぞ」彼女は缶を持った手に力を込めながら呻くように語った。「アルコールには哀しみを分解する酵素が含まれているんだ。飲むと幸せな気分になれる。くだらないことでくよくよ悩むなんて馬鹿馬鹿しいと思えるようになる。哀しいことや嫌なことなんて、一瞬にして頭から消し飛ぶんだ。ついでに記憶も消し飛ぶ」

「飲みすぎでしょそれ」

「酒を飲めばなんでもできるような気がするんだ。逆に言うと、酒がないとなにもできないような気がする。だから毎日酒を飲む。繰り返しくり返し酒を飲む。飲みだすと止まらなくなる。するとなんだか手の顫えが止まらなくなって、なんだか耳鳴りがするようになって、まっすぐ歩けなくなって、動悸、息切れ、肝硬変、意識障害、幻聴幻覚などさまざまな症状が――」

「アル中だろそれ!」

 熱く語る世羽さんの手の中で、発泡酒の缶が握り潰されてべこべこになっている。アルコールについて熱く語る大人って大人としてどうなの。

「酒を飲めるのは大人の特権だな。おまえ、仕事のあとの酒の味を知らないだろ」

「当たり前です」

「格別だぞ。ちなみに仕事中の酒の味はもっと格別」

「やっぱりダメな大人じゃねえか」

 僕の言葉を聞いているのかいないのか、世羽さんは発泡酒の缶をぐいっと呷る。

「飲みたいか?」

「僕は未成年なのでお酒は飲みませんよ」

「なに良い子ぶってんだ。音楽やりたいなんて言ってるやつの言葉だとは思えないな」

「それは……」

「まあ、私はそういうの嫌いじゃないけど」

 僕は世羽さんの横顔を盗み見た。缶の中身を確かめるように覗きこみ、その頬はほんのり赤く染まっている。

「……どうして、ライブ観に行かせたんですか」

「んん……そりゃあ」彼女は指で缶を軽く弾いた。ぽこん、という軽快な音がロビーに響く。「いま音楽をやるということがどういうことか、おまえらにも知ってほしかったからな」

「でも結局は許してくれましたよね」

「どうせおまえら、私がなに言っても聞かないだろ。ガキが間違った道に行こうとしてたら正しい方に導く、それでもそっちへ行きたいって言うんなら、黙って後押ししてやるのが大人だ」

「世羽さんって、じつは良い大人なんですね」

 僕がそう呟くと、姉さんは豆鉄砲を食らったようにきょとんとしたあと、両手をたたきながら大声をあげて笑いだした。

「あはは! 残念だけど、良い大人なんていないよ。もちろん、悪い大人だっていない。大人はみんな、自分の守るべきものを必死になって守ろうとしているだけだ。その守るものの違いで、子どもには正義にも悪にも見える。でも、大人は自分の正義を貫いて生きているんだ。覚悟と責任っていう、自分の正義をな」

「覚悟と……責任?」

 僕は馬鹿みたいにふたつの単語を繰り返した。小学校か中学校で習ったような言葉なのに、僕はなぜか、どこか異国の言葉でも聞いているような感覚にとらわれていた。

「そう。子どもには難しかったかな」

「なんだかよくわからないですね」

 僕が正直にそう言うと、姉さんはふわりとやわらかな笑みを向けてくれた。

「まだわからなくていい。おまえもじきにわかるようになるから」

「大人になったら、ですか」

「あはは、そうだな」

 彼女は悪戯な笑みを浮かべた彼女の顔は、まるで僕を知らない世界へ誘ってくれる妖精かなにかのように思われた。

「でも、早く大人になりたい、なんて思ったらだめだ。大人の階段は高くて急だから、もし踏みはずしてしまったら、もう取り返しがつかないようになることもあるんだ。私は何度もそういうやつを見てきた」

 姉さんの瞳に暗い影が落ちる。彼女はいままで、どれくらいの「そういうやつ」を見てきたのだろうか。禁じられた音楽に想い焦がれ、あつい情熱を注ぐあまり、その身を焼き尽くされてしまった人たちを。

 覚悟と、責任。

 自分の守るべきもの。

「僕は……僕は、自分の守りたいものを、守ることができるんでしょうか」

「………」

 僕の問いかけに、世羽さんは発泡酒で喉を鳴らして応える。

「……知らん。それはおまえ次第だ」

「……そうですよね」

「でも、おまえなら……おまえらなら、もしかしたら」

「え?」

 世羽さんのつぶやきを訊き返すと、世羽さんは発泡酒の缶を一気に傾け、最後の一滴まで飲み干した。

「むむ、いささか酔ってしまったようだ。しかしまだ飲み足りん! 手足が顫えだす前にコンビニでもう一本調達してくる」

「今までの発言が台無しですね」

 世羽さんはソファーを立って、発泡酒のアルミ缶を片手で握り潰し、それをバスケットボールの選手みたいにジャンプショットで放った。きれいな放物線を描いた空き缶は、ロビーの隅に備え付けられているごみ箱に、がこんという音をたてて入った。よく入ったな、かなり距離あるのに、と見当はずれな感心をしていると、世羽さんは鼻歌を鳴らしながら階上のフロアへ続く階段を上っていってしまった。鼻歌なんて歌って大丈夫なのだろうか。コンビニで通報されなければいいのだが。

「あ、そうだ、言い忘れてた」

 階段の上から声が響く。

「お前らがライブやるって日、ちょうどおなじ日に別の会場でライブがあるらしい。でかいイベントになるからって、依乃里がそっちに手伝いにいくことになった。すまんがあいつはここにいられない」

「そうなんですか……残念ですね」

「まあロクに客なんて来やしないんだから、大したことじゃねえだろ。私がなんとかしてやるよ」

 じゃあな、と声と、階段を踏みしめる音とともに、世羽さんは行ってしまった。

 ロクに客は来ないなんて、相変わらず身も蓋もないことを言う。仮にも僕らの初舞台なんだから、ねぎらいの言葉くらいかけてくれてもいいのに……と思ったが、世羽さんはそんなうわべだけの言葉を言うような人じゃないことは充分わかっていた。言いたいことは遠慮せずに言うし、やりたいことは遠慮せずにやる。彼女はそういう人だ。だからこそ、「私がなんとかしてやる」という彼女の言葉には重みがある。底知れぬ説得力がある。いのりさんが来られないのは、残念だけど仕方がない。

 去っていく世羽さんの足音を聴き届けたあと、僕は彼女の言葉をしばらく反芻した。

 ――守るべきものを守る。それが大人になるということ。

 ルームのドアが開いて、怜未がちょこんと顔を出したのが見えた。

「詠人、いつまで休憩してんの! 練習続けるよ」

「へいへい」

「へいは一回!」

「HEY!」

 僕は世羽さんに倣って、缶を一気に傾けて最後の一滴まで喉に流し込んだ。ここから投げ入れる自信がなかったので、ごみ箱の近くまで歩いて行って握り潰した缶を放り込む。

「早く早く」

 怜未が急かすので、僕は小走りでスタジオルームに駆け込んだ。担いだギターのチューニングを手早く済ませて後ろを振り返ると、すでに怜未はドラムの前に座ってスティックを掲げている。そのそばに立つソラは、無表情でベースを構え、僕をじっと見据えている。

 その光景、待ってましたと言わんばかりのふたりの様子を見て、僕はなかば呆れたように笑いを漏らした。こいつら、どんだけ音楽が好きなんだよ。音楽から離れてしまっていた今までの時間を、まるでこのスタジオ練習で全部取り戻そうとしているみたいに、彼女たちは精いっぱいこの瞬間を楽しもうとしているように見える。

 怜未のスティックが鳴らすカウントから、僕らの音楽が始まる。怜未のドラムが刻むリズムにソラのベースのビートが乗っかって輪郭を創り、僕のギターがそれに色彩を加えていく。ドラムが震わせた空気の中に生まれる音に、僕とソラの掻き鳴らす弦の震えが音階という生命を吹き込んで、僕たちの奏でる音楽は追い風を得た鳥のように羽ばたいていく。

 聴いてくれ、これが僕らの音楽だ。

 体中にめぐる血液から直接滲みだすような衝動を、僕はギターの六本の弦にめいっぱい流し込む。

 音楽なんてただの空気の振動だ。でも、だからこそ音楽は、僕らの心を奮わせるんじゃないか。音楽が生むグルーヴが人の心に響いて、その生命の鼓動にぴったり共鳴したなら、それだけでその人の世界を変えられるんじゃないか。僕がそうだったんだから。音楽に魂を揺さぶって回してひっくり返されたんだから。世界の心はつまり、人の心だ。人が変われば世界は変わる。そうやって音楽は、世界を変える力があるんじゃないのか。

 ギターを弾きながら、スタジオルームを見渡す。怜未が二つ結びの髪を振り乱してドラムを叩いている。仄暗い照明の中に、幾筋か流れる汗の跡が見える。彼女の身体は風にはためく蝶のように軽やかに舞っている。

 ソラを見る。彼女のベースが響かせる音に耳を澄ませる。

 そして僕ははっとした。

 ――守るべきものを守る。それが大人になるということ。

 ――僕は大人になれるのだろうか。僕が守るべきものって、いったいなんなのだろうか。

 これでいいじゃないか。これで充分じゃないか。僕たちが辿り着くことのできた、僕たちのこの音楽を、三人でずっと奏でていくことができれば、それで充分なんじゃないのか。三人で奏でる僕たちの音楽こそが、僕の守りたいもの、僕の守るべきものなんじゃないのか。

 だって、ソラの弾く音が、こんなにも楽しそうだから。楽器室で聴くたびに哀しく響いた彼女の音が、冬空に降る雨のように冷たくけぶっていた彼女の心が、僕らの音楽のなかで笑っているんだから。

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