18

「……ビートルズ?」

 僕は世羽さんが言った言葉を反芻した。どこかで聞いたことのある言葉だが、なんだか思い出せない。売れないコメディアンの名前だろうか。怜未を見ても、いまいちピンとこないような表情で小首をかしげている。

「おいおい、マジかよ……ビートルズも知らないで音楽やろうっつってんのか」カウンターに戻ってきた世羽さんが苛立たしげに呻く。「どう思うよ、依乃里」

「……まあ、このご時世だし、知らないのも仕方ないんじゃない?」

「なんですか、その、ビートなんとかって」

「ビートルズ。半世紀前のロックバンドだよ。音楽史に残すその名において、世界でもっとも影響力のあった音楽アーティストのひとつだ。まだ音楽が認められていたころ、ビートルズを知らないやつなんていなかった。世界中が熱狂したんだ。とてつもない人気だったそうだよ。キリストより人気がある、なんて言われたりもした」

「キリストより?」

「そう。眉唾物の話だけど、本当の話だ。だって、メンバーのひとりがそう言ったんだから。世界最大の宗教の開祖より人気があるだなんて、どんなものか想像がつかないだろ。とにかく彼らは、世界の頂点に立っていた。栄華を極められるだけ極めていた。得られるだけの富を得て、浴びられるだけの名声を浴びて、この世のすべてを手に入れたように、できないことなんかなにもないように思えた。でもね。そんな彼らにも、できないことがひとつあったんだ」

「……なんですか?」

「世界を変えることだよ」

 世羽さんはそこで言葉を区切る。反響した彼女の声が、店の壁に吸い込まれて静寂に変わる。

「栄華を極めたロックスターにも、世界を変えることはできなかった。ロック、つまりロックンロールっていう音楽のジャンルは、もともとは反体制的、反社会的な大衆の感情と関連付けられて存在してた。既存の社会や体制を、ロックしてロールする、つまり揺さぶって回してひっくり返す、そうやって既成概念をぶっ壊すということを表現するためのものだったんだ。でもそれに成功したロックンローラーはいなかった。みんな所詮ただの音楽家で、革命家になれたやつなんて誰ひとりとしていなかった。どうしてかわかるか?」

 彼女は僕を真正面から射抜いてくる。

「彼らのほかにも、ロックで既存体制をぶっ壊そうとしたやつらは大勢いる。セックス・ピストルズは『アナーキー・イン・ザ・UK』を歌って窮屈な社会に怒りをぶちまけたし、グリーン・デイは『アメリカン・イディオット』で自国民を張り倒して目覚めさせようとした。それでも世界は変わらなかった。なにひとつ変わらなかった。どうしてかわかるか?」

 わけのわからない単語ばかりが出てきて、僕は少し怯んでいた。いや、単語自体はわからなくても、世羽さんの言いたいことはいやというほどわかる。僕が怯んでいるのは、その世羽さんの言わんとしている内容に対してだ。

「ビートルズが解散したあと、メンバーのひとりであるジョン・レノンは、ソロ活動のなかでこんな曲を歌ってる。『想像してごらん、世界中のみんなが平和に暮らしていることを』。美しい反戦の歌だ。ビートルズという世界最強のバンドが解散したあとも、彼は反戦を歌い、愛を歌い続けた。でも、世界は変わっていない。戦争は続いてるし、飢餓に苦しむ人たちはいるし、『世界中のみんなの平和』なんて夢のまた夢だ。おかしいと思わないか。世界中の人々が、彼の曲を聴いていたんだぞ。ニュースキャスターだって、政治家だって、戦場の兵士だって、みんなビートルズを聴いていた。ジョン・レノンを聴いていた。彼の反戦のメッセージを聞いていたんだ。なのに戦争はなくならない。キリストよりも人気があるはずの彼らの願いが、どうして叶わないんだ。怜未、どうしてかわかるか?」

 何度めになるかわからないその問いかけを、世羽さんは静かに怜未に投げかける。彼女はかすれた声を振り絞って答えを出そうとする。

「彼らの音楽の力が……世界を変えるほど、充分じゃなかったから……?」

「お利口さんの答えだな。惜しいようで全然ちがう。答えはもっと単純で、残酷だ」

 世羽さんは静かな口調のまま言った。

「最初っから音楽に、そんな力はないからだ」

 世羽さんの言葉を聞いて、僕は呆けてしまう。

 音楽に、世界を変える力がないだって?

 そうしたら僕らは、僕らのやろうとしていることは、なんなんだ。

「音楽に世界を変える力なんてものはないんだ。ただの音の重なりと連なりが、空気を伝って鼓膜を震わせているだけなんだから。ギターのコードを弾いて弦の糸がブーンって鳴ったら、もうそれが音楽だ。音楽なんてそんなもんだ。糸の振動でどうやって世界を変えられると思うんだ?」

「でっ、でも、『MES CHERIS』は実際に、音楽で世界を変えたでしょ」

 怜未が世羽さんに反論する。たとえ悪い意味でも、彼らの音楽は世界を変える力を持っていたはずだ。

「あれは『音楽で』世界を変えたんじゃない。結果的にそうなっただけだ。確かに最初のきっかけを作ったのは彼らの音楽かもしれないが、その混乱に乗じて暴れたやつらが大勢いて、そいつらが世界をひっくり返しただけの話だ。サッカーの試合のときに、飲みたい暴れたいだけのやつらが渋谷でどんちゃん騒ぎするのと同じだよ。音楽が世界を変えたんじゃない。音楽はただのトリガーだったんだ。バタフライ効果みたいに、ギター一本の弦の振動が、意図せずに世界中で竜巻を起こしちまったっていうことだ。実際、当の本人たちは、世界をこんなふうにしたいだなんてこれっぽちも思ってなかったんだから」

「………」

「わかったか? わかったならもう帰りな。こんな場末のカフェで無駄話してる時間があったら、学校の宿題でもやってろ」

 世羽さんが僕らに背を向け、流し台を滑る水の音がふたたび聞こえ始めた。僕は静かに深い溜息をつく。やっぱりだめだった。世羽さんを説得することができなかった。僕にはその言葉のほとんどの意味がわからなかったけど、彼女の言いたいことはよくわかった。きっと彼女の言っていることは正しいんだろう。僕が音楽を知るよりももっと前から、そして僕が生まれるよりもずっと前から、たくさんの人たちが音楽で世界を変えようとしていたんだ。でもそれが叶うことはなかった。なぜなら音楽にそんな力はないから。とても単純なことだ。単純すぎて溜息が出てくる。

 僕はかばんを持って立ちあがった。怜未も悔やんでも悔やみきれないような表情を浮かべてていたが、僕がうなずくと目を伏せて静かに腰を上げた。しかし、ソラだけはじっと座ってカフェオレを啜っている。氷ばかりになったグラスの中を、一心にストローでずるずる吸い上げている。

「ソラ、行くよ」

「ずるずる」

「ソラっ」

「………」

「ソラってば」

「……おかわり」

 彼女はすっかり氷だけになったグラスを、まったくの無表情で世羽さんに差し出した。

「ソラちゃん……?」

 いのりさんが心配そうに声をかける。一方の世羽さんは、豆鉄砲で眉間を打ち抜かれたみたいな顔をしている。

「詠人もおなじ」

「いらないから。もう帰るよ」

「どうして」

「どうしてって……」

「まだ話終わってない」

 話が終わってないだって? いったいこれ以上なにを話せばいいっていうんだ。

 怜未は駄々をこねる子どもを見るみたいに、困惑した表情で立ち尽くしている。

「世羽の言ってること、なにもわかんなかった。場所は貸してくれるの」

「だめだってことだよ」

「どうして。飲みもののお金払わないから?」

「ちがうよ。だからさあ……」

「私がカード作らないから?」

 彼女はそう言って、脇に押しやられていた一枚のポイントカードを引き寄せ、サインペンを手に取って裏に名前を書き出す。「いや、だから……」「ソラ……」僕と怜未は一様に困惑の声を漏らす。

 しかし世羽さんの反応はちがった。

「ははあ、なるほどね……道理で」

 世羽さんはソラのポイントカードとソラの顔を交互に見比べながら、どこか得心したような顔つきをしている。

 ソラは「これでいい?」と自分のポイントカードを世羽さんに突き出した。世羽さんは受け取ることなくそれをじっと見つめている。いや、世羽さんはカード越しにソラの顔を見ている。

「ソラ」

「なに」

「ソラはなんのために音楽をやるんだ?」

「……取り戻したいから」

 彼女は「なにを」取り戻したいのかを言わなかった。それはいつもの会話の癖が表れただけなのか、あえて口にしなかったのかはわからない。世羽さんはその「なにを」を訊くことをしなかった。ただ一言「そうか」とうなずいただけだった。

「依乃里」

 呼ばれたいのりさんは、あきれたような表情で肩をすくめる。そして静かに小さく頷いた。

 世羽さんはカウンターに束になって備えられている紙ナプキンを一枚取り出し、その上にペンを走らせた。

「場所は貸せない。とりあえず今は諦めてほしい」

 口から思わず溜息が漏れる。結論は同じだ、この世界は僕らの夢が簡単に叶うほど甘くないんだ。

「それでも」

 世羽さんは言葉を繋ぐ。「どうしても音楽をやりたいって言うんなら、ここに行きな」

 彼女は紙ナプキンを僕に差し出した。僕は黙ってそれを受け取ると、怜未が横から覗きこんでくる。

「なにこれ」

 そこに書いてあるのは、住所と時間だった。東京都新宿区の住所、そして今日の日付と夕方の時刻。

「……今日?」

「そうだよ。早くしないと時間になるぞ」

 時計を見てみると、紙に書かれた時刻まであと一時間もない。

「なにがあるんですか?」

「行けばわかるよ。まあ、試験みたいなものだな」

「試験?」

「お姉ちゃんひどい……詠人の天敵じゃん」

「大丈夫。馬鹿な詠人でも上手くやればなんとかなるさ」

 姉妹揃ってずいぶんな言い草だな。いやそんなことより、試験ってなんだ?

「あとこれは、お守り代わりだ」

 そう言って彼女は、僕ら三人にそれぞれ一枚の紙を渡した。白地に黒文字で、

  下北沢『路地裏』

       店長 倉城世羽

 と書かれている。

「お姉ちゃんの……名刺?」

 そうだ。名刺だ。どうしてこんなものを?

「まあ、フリーパスみたいなものだよ」

「フリーパス?」

「持っていて損はない」

「なにに使うんですか」

「行けばわかるっつってんだろ早くしろ」

 世羽さんはカウンター越しに僕の肩を思いっきりたたいた。快音が店内に響く。僕はあまりの激痛に顔をしかめながら、荷物をふたたびまとめて店を出ようとする。怜未もならって荷物を取って出入り口へ向かう。

「詠人」

「なにっ?」

 ソラが僕を呼びとめたので振り返ってみると、彼女は空っぽのグラスを手に持って僕を見ている。

「おかわりは?」

「いらないよ!」僕はソラの手からグラスを取り上げてカウンターに戻した。「世羽さん、いのりさん、また来るから」

 なにも言わずに右手を挙げて応えた世羽さん、そして笑顔で手を振るいのりさんを背に、僕らは駅へ歩き出す。

 世羽さんはいきなり態度を変えたみたいだった。ソラがポイントカードを作ると言ったときだ。彼女の作ったポイントカードを見て、「試験」なるものを用意してくれるようになった。

 どうしてだろう。世羽さんの言う通り、行けばわかるんだろうか。

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