09

「どうして来なかったの」

 翌朝、宇田越さんが僕に話しかけてきた。いつものように表情はまったく動かず、声に抑揚もないが、どうやら少し機嫌が悪いように思える。きのう楽器室に顔を出さなかったことを責めているんだろうか。僕がドアの前にまで行っていたことを彼女は知らない。

「しょうがないだろ。掃除当番で遅くなっちゃったんだ」

 なんで君がそんなことを言うんだ、と僕はやや訝しんだが、それを言うとまた眉をひそめられるような気がしたので、ただ彼女の質問に答えるだけにしておいた。細く整った彼女の眉は、いまはまだ三日月のように穏やかな形をしている。

「弾けるんだね」

 僕は努めて平坦な声でそう言った。彼女の身体がぴくりと反応する。そしてそのままうつむいてしまう。

「勝手に聴くなんてひどい」

「そんなつもりはなかったんだけど」

「聴かせるために弾いてたんじゃないわ」

「それでも嫌いなの? 本当は好きなんじゃないの?」

 彼女は顔を上げ、目を細めて僕を見据えてくる。

「嫌いよ」揺るぎない声色で言い放つ。「大嫌い」

 これ以上話すことなんてないとでも言うように、僕に背を向けて歩き去ってしまった。



 それから僕と彼女の間には、なんとも微妙な空気が流れるようになった。

 教室の中で彼女は、僕と目を合わせようともしてくれない。

 この教室で僕と目を合わせてくれるのは、鳥の巣頭の鳥巣と黒縁メガネの黒渕、そしてそのほか何人かの男友達だけだ。彼らは僕が宇田越さんを気にするそぶりをすると、両手をすり合わせて乞い願うように拝んでくる。中には「大明神さまあ!」と大声を上げるやつもいる。僕が修験道の修行僧のようにストイックにナンパの鍛錬に励み、めきめきと大明神としての神格を上げてしまっているものだから、霊験あらたかな僕の神通力に少しでもあやかろうとしているのだろう。

「大明神さまあ!」

「ありがたやありがたや!」

「お慈悲を! 我らに力をお与えください!」

 鳥巣と黒渕、その他友人たちが口々に叫ぶ。愚民どもめ。大明神としてのこの力は、一朝一夕で身につくような平易なものではない。数多の苦悩と、艱難と、そして犠牲を乗り越えてこそ会得することのできる、神妙なる力なのだ。犠牲というのは具体的に言うと、この教室内における社会的地位とか、クラスの女子からの信用とか、そういうたいへん尊いものだ。お前らにそれらを失う覚悟があるのか。

 ないだろう、ないならやめておけ。生半可な決意で歩むことのできる道ではないんだ。歩み始めてから気づいては遅い。お前らならまだ間に合う。来るべき道はこっちではない。今すぐ引き返さなければ、僕みたいになるぞ。クラスの女子からの信用を失った僕の無様な姿を見るがいい。ほら、今まさに怜未がこっちをすごい目つきでにらんでる!

 怜未が僕の方に歩み寄ってくる。つかつかと彼女が床を踏み鳴らす音が聞こえる。やばい、僕今日は生きて帰れないかもしれない。先日トゥーキックで貫かれた額が古傷のように痛みだす。

「詠人」

「ジーザス!」

 怜未に声を掛けられたことに驚いて、思わず本物の神の子の御名を叫んでしまった。それに反応して、鳥巣と黒渕がやかましくわめく。「おお、なんとありがたき神のお言葉!」ありがたいのは僕の言葉じゃなくて僕が叫んだ神の子の御名だからね。「神よ、この世界を救いたまえ!」救われたがってるのは世界じゃなくてむしろ僕自身だからね!

「ねえ、詠人」

「おおおおお慈悲をッ!」

 怜未から匂い立つ強烈な殺気にあてられ、僕は情けなく叫んだ。すると彼女はにこりと微笑んだ。

「大丈夫。無駄な殺生はしないわ」

「あなたが神か!」

 なんと母性愛に溢れた微笑み。なんと隣人愛に溢れた眼差し。彼女はまさに、荒涼としたこと世界にふわりと舞い降りた女神だ。まるで後光が差しているかのように、彼女の微笑みは柔らかい光に照らされているように見えた。鳥巣や黒渕たちも怜未に向かって合掌し、今までの馬鹿げた騒ぎが嘘のように、「ありがたや……」と静かに祈りを捧げている。あたたかく優しい温度の微笑みに包まれて、彼女の前ではどんなに深い罪でも赦されるような気がした。

「そう、無駄な殺生はしない」

 怜未、つまりこの世に顕現した現人神は低い声で繰り返す。

「でも詠人、あなたは罰を受けるべき罪人で、その殺生は人類にとって無駄ではないわ」

 僕の罪は赦されなかった。

「さあ、右の額を蹴られたら左の額を差し出しなさい」額に左右ねえよ。あと前回おまえが蹴ったのは愚地克巳もびっくりなほどの正中線上だよ。「ど頭ぶち抜いてあげる」神は神でも破壊神か! 「ありがたきぃ! 神のぉお言葉ぁ!」おまえらうるせえ!

「宇田越さんとなんの話してたのよ」

 怜未は目の前に立ちはだかって僕を責め立ててくる。真の仁王立ちとはかくやともいうべき威圧感で、吽形像のごとく口許を真一文字に引き結び、憤怒の形相を呈している。

「好きとか嫌いとか行ってたけど、もしかして、その……」彼女は言いにくそうに言葉を詰まらせる。「痴話喧嘩?」

「ちがうよ!」

 どうしたらそんなふうに聞こえるんだ。「音楽」とか「ギター」って言葉を教室で口にするのははばかられたから、ぼかして喋ったのがよくなかったのだろうか。

「詠人が宇田越さん泣かせてるのかと思った」

「泣かせてねえよ……」

 僕自身の名誉のために言っておくが、僕は泣かせてない。でも彼女は、ギターを弾きながら心の中で泣いていた。僕のせいではないとは思うが、それがなぜなのかはまだわからないままだ。

「じゃあなんなの?」

 すごい剣幕で問いを重ねてくる怜未に、僕は思わずたじろぐ。

「怜未には関係ないだろ」

「関係あるよ」

「なんで」

「私は詠人の世話係だもの」

 彼女はそう真顔で言う。

「世話係って……ただの幼馴染だろ」

「……『ただの』ってなによ」

 低く唸るような怜未の声。

「じゃあ、宇田越さんはなんなの」

 その言葉に僕ははっとする。

「詠人にとって、宇田越さんはなんなの」

 僕にとって、宇田越さんはなんなのか。

 怜未はそうやって、たまに物事の本質を衝くような発言をすることがある。宇田越さんはなんなのか、そんなこと今まで考えてもみなかった。おんなじ場所で一緒におんなじ音楽を聴いている、でもなにを思いながら、なにを望みがら、なにを願いながら音楽を聴いているのかわからない。僕は彼女がギターを弾けることすら知らなかった。音楽が嫌いで、それなのに僕の音楽を毎日聴きに来て、ギターも弾けて、でもそのギターはとても哀しい音色をしていて。僕が彼女について知っていることは、そういうようなほんの些細なことばかりだ。彼女がいったいどういう人なのか、僕はまったく知らないんだ。

 そんな彼女は、僕にとってなんなのか。

 なんなのだろう。

 わからない。

「まさか詠人」

 怜未が視線で僕を射抜くように見据えてくる。

「彼女をあんたのアヤシイ部活に勧誘しようとしてるんじゃないでしょうね」

 アヤシイ部活? 失礼なことを言うやつだ。

 文化研究部は崇高な部活である。穢れなき神聖な場所であるので、そう簡単に新入部員を勧誘することはできない。僕のような聖人しか入部することを許されないので、いまだに僕ひとりしか部員のいない孤高の部活である。

 そこで僕は、おや、ととある考えに至った。

 宇田越さんを部活に勧誘するというのは、もしかしたら妙案なんじゃないのか。彼女が部員であったなら、もう彼女の下手な言い訳を毎日訊かずに済み、彼女が楽器室に来る理由付けにもなるんじゃないか。僕と宇田越さんは文化研究部の部員として、毎日あの部屋で音楽を聴いていることができるんじゃないか。

 その天啓を与えてくれた怜未を、僕は尊敬の眼差しで見つめる。それを勘違いした怜未は、

「え、まさか、もう勧誘しちゃったの?」

 と、手の早いジゴロを見るような軽蔑の目を向け、溜息交じりのつぶやきをもらす。僕はあわてて「いや、まだだよ」と取り繕おうとするが、しかしそれはただ自分で墓穴を掘っただけだった。

「『まだ』ってことは、やっぱりこれから誘拐しようとしてるのね」

「誘拐なんてしねえよ」それは犯罪です。

「じゃあ、拉致?」

「同じだろ!」

「なら、かどわかし?」

「ちょっと雅で粋な言い方してもだめだ。僕は何人(なんぴと)もかどわかしません」

「キャトルミューティレーション?」

「そんな人智を超越した超常現象なんて起こさねえよ!」ジゴロとか犯罪者とかそういうレベルじゃなくてもはや宇宙人じゃねえか。

「毎日まいにち彼女をキャトルミューティレーションして、洗脳して手懐けようとしてるんでしょ」

 怜未はそう言って僕の罪を弾劾する。

「いや、毎日来てるのは宇田越さん本人の意思だから!」

 僕は頭から被せられた濡れ衣で窒息しそうになりながら、苦しまぎれに呻いた。しかしそれは失敗だった。突っ込み半分で言い訳していたら、怜未にかなうわけなかったんだ。

「ほんとうに毎日来てるの……?」

「あ、いや、ええと……」

「宇田越さん、部員じゃないのに……」

「そ、それは……」

 僕が情けなく弁解の言葉を考えあぐねているかたわら、彼女の表情はみるみるうちに凍りついていく。まるでこの世の絶望と失望を集めて紙粘土みたいにこねくりまわして人の形に整えたらちょうどこんな感じになるんじゃないかと思われるほど、怜未は色を失った表情で立ち尽くしていた。「おほほほほ……」と半開きの口から変な笑い声が漏れ出ている。

「ちがうんだ怜未っ、これには深い事情があって――」

 僕が力をふりしぼって言葉を発すると、彼女は凍てついていた表情をふと和らげ、にこりとこちらに笑みを向けてきた。

「そうだよね。詠人にも事情があるよね」

「……怒ってる?」

「怒ってないよ」ふと和らげた表情は笑顔のままふたたび凍りついている。「私が怒る理由があるの?」

「ないですね」

「ないよね。理由がないなら怒らないわ」

「ごもっとも」僕はそう言ってぽんと柏手をたたいた。怜未は満足そうにうなずく。

「私、決めたわ」

「決めたって……なにを」

「私も行く」

「え?」

 行くって……。「どこへ?」

 怜未の表情はもはや温度を持たない氷の彫刻ではない。確かな暖かみを持った、太陽のような輝く笑顔を湛えている。私はそこでふと、翼を失って落下していく神話の中のイカロスの姿をみずからと重ね合わせた。ろうでできた翼を太陽に融かされ、失意のうちに堕ちていく悲劇の青年に想いを馳せる。怜未の笑顔という太陽は、いずれ詭弁と虚飾で塗り固められた僕の翼を融かしつくしてしまうだろう。

 そんなまぶしい笑顔を僕に照射しながら、彼女は屈託のない声色で言った。

「決まってるじゃない。あなたの部活よ」

 怜未が文化研究部の活動に来る? それはつまり、僕がギターを弾いて、それを宇田越さんがただ聴いている、あの楽器室に来るっていうのか?

「なんで、そんなこと」

 僕がおどおどとそう言うと、彼女はいたずらに微笑んだ。

「私は詠人の世話係だもの」

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