07

 次の日は授業に身が入らなかった。

 窓の外を眺めると、空にはどんより鉛のような色をした雲が張りついて、しとしとと細雨を降らせている。僕はなにを見るでもなく、ぼんやりと曇り空を眺めていた。そこにあるはずの太陽も今日は鈍色の雲に覆われて、うすら光が雲に滲んでいる。

 英文の和訳をしていても、二次方程式を因数分解していても、僕はぼうっと上の空で、心ここにあらずであった。昨日楽器室で聞いた宇田越さんの言葉が、僕の心にささくれのように引っかかっている。いったい彼女はどういう思いで「嫌い」という言葉を使ったんだろう。どうして自分で歌をうたっていたのに、そういう人たちを咎めるような言い方をしたんだろう。僕には彼女の気持ちがまったくわからない。そんなことばかりに思考が引きずられ、現国の先生の説明なんて耳に入ってこなかった。現国担当の安西先生は、よぼよぼの震え声で教科書の例題を読み上げている。問題文に出てくる登場人物の心情よりも、僕はクラスメイトの少女の気持ちを知りたいんだ。

 彼女は後方の席で授業を聞いている。いや、聞いているかどうかはわからないが、少なくとも教科書は手元にあるはずなので、前のように聞いてるふりをしながら寝ているということはないだろう。

 休み時間に彼女の方を向いても、彼女はやはりすぐに席を立ってどこかへ行ってしまう。そんな僕にだって、いざ彼女が話を聞いてくれたとしても、なにを話していいのかわからない。そんなふうにうじうじ考えながら、ただ時間だけが過ぎていく。


   ○


 いつもどおりの放課後。

 僕はかすかな雨の音を聞きながら特別棟四階へ向かった。普段はグラウンドからやかましく聞こえてくる運動部の掛け声も、今日は鳴りをひそめている。

 楽器室でギターを弾いていると、かすかにドアが三回ノックされた。だれだろうと訝しんだものの、僕はこれと似たような状況が過去にもあったことを思い出す。たしか同じようなノックを聞いた気がする。扉をたたいた人に心当たりがありつつも、それでも念には念をいれてギターを棚の奥に隠す。ノブに手をかけてゆっくりと手前に開くと案の定、目の前にはひとりの少女が立っていた。

「……宇田越さん」

 いつかのように彼女はうつむいて表情を見せない。相変わらずなにを考えているのか、僕には読み取ることができない。

「どうしたの」

 僕が声をかけても彼女は答えない。やや顔を上方にもたげ、ただ僕をじっと見つめている。彼女の視線は僕の目線とは合わず、僕の顎の下あたりに注がれている。でも視線を注いではいるものの、意識はそこに注いではいないのだろう。うすらぼんやりと虚空を見つめているような様子。もし彼女が視線の先に意識を注いでいるとしたら、彼女は熱心に僕ののどちんこを見つめていることになる。

「今日も忘れもの?」

 僕が訊くと、彼女はやおら首を振ってようやく反応を示す。今日はこの部屋にかばんを忘れたわけではないらしい。よかった、それなら授業を聞くふりをしながら一日中寝ることもないだろう。

「なんの用事?」僕はそう訊ねる。

「雨」

「え?」

「降ってる」

「そうだね」

「傘」

「………」

「なくて」

「……そうなんだ」

 なんだか非常に調子が狂う会話のテンポだ。ようは雨が降っているのに傘を持っていないから帰れない、ということだろうか。それにしても、この部屋は暇を持て余したからと言ってふらり立ち寄るような場所ではない。

「こうもりは持ってないの?」

 大きな雨傘の用意はないにしろ、教室のロッカーに置いておく用のこうもり傘くらいは持っているんじゃないだろうか。女の子ってそういう小物にもこだわりそうだし。

「いいえ」しかし彼女は否定する。「かってないわ」買ったことないのか。こうもり傘を買ったことがないだなんて、なんだか超俗的に過ぎる気がするが、まあそういうこともあり得るだろう。が、なんだか彼女のイントネーションが妙だ。

「飼うならコウモリじゃなくてモモンガがいい」

「そっちのコウモリじゃねえよ! 日本でコウモリ飼育しちゃだめだからね!」モモンガは知らんけど。

「じゃあ、かっぱはないの?」

 僕は彼女の渾身のボケ(?)にやや辟易しながらも、宇田越さんに質問を重ねる。女の子が雨合羽を積極的に着たがるのかどうかはわからないが、手持ち無沙汰にこんな場所に来るよりは、雨合羽を着て早く家に帰ったほうが得策だろう。

「いいえ」しかし彼女は否定する。「かってないわ」彼女はまた僕の自我を不安定にさせるイントネーションで呟く。嫌な予感がするんだけど。

「デザインが好みじゃない」

「そっちの河童じゃ……、え、で、デザイン?」伝説上の生物河童じゃなくてまさかイタリア発のスポーツウェアブランドKappaのほう?

「そう? 僕は機能的で好きだけど」

「もっとかわいいのがいい」

 女の子から見たらスポーツウェアでもそんなもんなのだろうか。

「まず頭の上の皿が許せないわ」

「やっぱそっちの河童かよ!」伝説上の妖怪に対してかわいいデザインとか求めるもんじゃねえだろ。

 僕の全力の突っ込みに機嫌を損ねたのか、彼女はわずかに柳眉をひそめて黙り込んでしまう。まさかこのひと、今までのこと本気で言ってたのかな。もしかしたらモモンガは好きな動物なのかもしれない。河童の頭にはただの皿ではなく、水玉模様のかわいいマグカップでも載ってないと気が済まない性格なのかもしれない。そう思うと怒鳴ってしまったことがなんだか申し訳なくなってくる。

 宇田越さんが部屋の中をじっと覗いているのに気づく。そういえば、忘れものもないのにこの部屋になんの用事があるんだろう。とりあえず、さっきの漫才みたいなくだらない世間話をしに、わざわざこんなところまで来たわけではあるまい。用事はこの部屋そのものか、もしくはこの部屋にあるなにかか。

「……入る?」

 おずおずと訊いてみる。すると彼女の方もおずおずと頷きを返す。扉を開いて室内への動線を示すと、ゆっくりとした足取りで這入ってきた。

 部屋の扉を閉めると、室外への空気の進路が断たれ、部屋は密室に近い状態になる。高度な遮音処理を施された楽器室の中では、蚊のなく音ほども外の音は聞こえなくなり、宇田越さんの息づかいだけが僕の鼓膜を震わせている。この部屋だけ外の世界から切り取られたような、どこか別の惑星に迷い込んだような、静謐な時間が部屋に満ちている。

 彼女は部屋の中を眺めまわした。一通り中の様子を観察すると、その流れで僕の顔を見とめ、

「今日はやらないの」

 といつもの抑揚のない声で訊ねてくる。

「……なにを」

 困惑しながら疑問に疑問を返すと、彼女はまっすぐ僕に向けた視線を逸らすことなく、そして声の抑揚も変えることなく答えを返してくる。

「音楽」

「………」

 思わず息が詰まる。

 なんでそんなこと訊いてくるんだ。音楽なんて嫌いじゃなかったのか。

 僕が返答に窮していると、彼女はおもむろに手近にあった椅子を引き寄せ、腰を落ち着けた。両足を椅子の座面に置き、膝を両腕で抱きかかえるように座っている。なにかを待つような視線を僕に向けて。

 やれと言うのか?

 君が嫌いと言った音楽を、君の目の前で?

 彼女は無言のまま。促すように目を向けてはくるものの、その表情からはやはり内なる感情を読み取ることはできない。しばらく見つめ返していたが、いい加減彼女が動じてくれないので、そして密室内で見つめ合うには僕の心臓の耐久力が足りないので、僕は観念して目を伏せてしまった。ふうと深い溜息をついて、棚の奥にあるギターをふたたび引っ張り出す。ギターを構えて机に腰掛け、六本の弦を指先で掻きなでる。渇いた音色が楽器室を満たす静寂に沁みわたり、空気を震わせる。

「なんの曲がいい? ……て言っても、弾ける曲なんてほとんどないんだけど」

 音楽にアクセスする機会なんて皆無に等しいので、レパートリーとなる楽曲はまったく増えることがない。弾けるのはほとんど、『魔窟』で見つけた「MES CHERIS」のアルバム楽曲だ。宇田越さんも状況は同じはずなので、曲のリクエストを尋ねても、そもそも彼女に選択肢がないかもしれない。

 すると彼女は、羽虫が飛ぶ音のようなかすかな声で、

「……昨日の曲」

 と答えた。

「……『ルシエル』?」

 僕が訊き返すと、ソラは無言の肯定を返してくる。

 僕は曲の最初から弾き始めた。

 ギターを弾きながらちらりと目を向けると、宇田越さんは昨日と同じように、ぎゅっと目をつぶっている。熟れたさくらんぼ色の薄い唇も、まっすぐに引き結ばれている。他の感覚をすべて遮断して、僕の音楽を全身全霊で傾聴しているみたいに見える。

 やはり、と僕は思う。

 やはり、音楽はだれかに聴いてもらわなくてはだめなんだ。

 密閉された部屋でひとり弾くようなものではないんだ。だれの鼓膜を震わせることもなく、だれの心も震わせることもなく、ただ周りの空気を震わせているだけの音楽ではだめだ。音楽の訴える力を、熱を、こんな狭い部屋に閉じ込めておくなんてだめなんだ。

 もういちど、思い出してほしい。

 世界が音楽を思い出してほしい。

 ――音楽なんて嫌い。

 ――大嫌い。

 彼女の言葉が頭の中でこだまする。

 ねえ、宇田越さん。なんで君は、音楽が嫌いだなんて言ったんだ。周りの大人たちとおんなじように、音楽を拒絶するようなことを言ったんだ。なのにどうして、僕の奏でる音楽を、そうやって縋るように必死で聴いているんだ。

 僕は心の中で問いかける。

 音楽が嫌いだなんて、うそなんだろう。

 君はほんとうは誰よりも、音楽を大切にしているんじゃないのか。

 こみ上げてくる言いようのない感情を、ギターの音色にのせて吐き出していく。彼女はそんな僕の音楽を、肯定するでもなく、否定するでもなく、ただ静かに聴いている。

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