第16話


 それからは気もそぞろに、お嬢様とは別れる事になった。雲に隠れた空は世界の色味を更に落とし、日が沈みかけている事を教える。


「あの、これ、ちゃんとクリーニングして返して……」

「いいんですのいいんですの! 私が巻き込んでしまったのに、あなたに迷惑をかけるわけにはいきませんわ!」


 少女にかけて濡れてしまったダッフルコートは、最後まで渋ったものの、結局お嬢様が持ち帰る事になった。

 家から少し離れた箇所で車を停めてもらい、二人は一旦車から降りて向かい合う。気まずそうに腕を組んだお嬢様が、ちらりと少女の顔色を伺いながら言った。


「巻き込んだ身としては、是非あなたのご両親にご挨拶と謝罪をしたい所なのですが……」

「ごめんなさい……でも、ありがとう。気持ちだけで、うれしいよ。とっても」


 心からの本心は、同時にお嬢様に対する申し訳なさも孕んでいる。

 ぴゅうと湿った風が吹いた。少女は自分の濡れた服を見下ろす。

 やっぱり、何も感じない。自分が受けるものは、無感動な圧力だけ。

 どうしようもなく無なのだ。お嬢様から借りたダッフルコートも、それ以上を少女にくれたわけではなかった。それが、どうしようもなく悔しくて、虚しい。

 うつむいて自責する少女を見て、お嬢様はおろおろと気まずげに顔色を伺う。


「や、やっぱり、怒ってらっしゃいます? 勝手に振り回して、お洋服も濡らしてしまい……」

「ううん。それは、別にいいの」


 さっきの屋敷では、恐ろしい事が多すぎて考える事は出来なかった。

 でも、濡れた服には、別種の恐ろしさがじわじわと込み上げてくる。それは『いけない事』であるという、途方もない罪悪感だ。


 --あなたは普通じゃないんだから。


 母の顔と声が脳裏に浮かぶ。自分は、他の人間とは違う。その意識が、劣等感が、少女の体と魂を固く縛り付ける。

 幼い頃から少女に染み付いた呪縛。しかし、今の少女には、それを振り払うだけの力を持っていた。


「でも……また」

「え?」


 拒絶されるかもしれない。異端の自分が口にしていい言葉なのだろうか。その恐れが体を震わせる。それでも少女は、振り絞って声を出す


「っまた、今度。あそ……ぼう。いっしょ……っに」


 一度も、それを言った事はなかった。言えると思った事すらなかった。

 だけど、お嬢様は満面の笑みを向けて、少女の両手を取ってくれた。


「もちろんですわ! 一緒にいっぱい遊びましょう! 私たち、もうお友達なんですからっ!」

「お友達……」

「ええっ!」


 少女が呟くと、お嬢様が満面の笑みで返す。とても久しぶりに呟いたその言葉は、実感を伴わずに、お嬢様のお腹の中を、ふわふわと陽気に跳ね回った。

 そう思っていると、お嬢様が少女の手を取ったまま、くるくると回りだした。少女はつまづきそうになりながら、お嬢様と一緒に回る。


「わわっ」

「ふふっ! ねえ、でしたら今度、私のお家にお呼びしても?」

「え? う、うん」

「一緒にお買い物にも行きましょう! 私、前々からあなたはちゃんと着付ればとても綺麗になれると見ておりますの!」

「そ、そう、かな……っ!」

「そうですとも! 私の見立てに狂いはありませんわ! 実際、あなたは幽霊なんかじゃないんですから!」

「ま、待って。回るの待って。ふらふらする……!」

「ひょっとして、私があなたの友達第一号?? なんて幸運なのでしょう! 絶対、将来胸を張って自慢できますわ!」


 ハイテンションなお嬢様には、少女の懇願など聞こえない。

 ようやく手が離れると、お互いに道の脇の草むらにダイブしてしまった。二人仲良く芝生に仰向けに寝転がった。がさがさの芝生がちくちくしたけれど、お腹をぴょんぴょんと跳ね回る感情に比べれば何でもなかった。


「ねえ。一つだけ、お友達のイロハをご教授致しますわ」

「うん……」


 寝転んだまま、お嬢様の顔を見つめる。


「お友達は、つまり繋がりですの。繋がった人たちは、同じように喜ぶし、同じように悲しむ。二人で同じように痛がったり、泣いたり、楽しんだり、笑ったりしますの」


 曇り空を吹き飛ばすように、お嬢様は笑う。

 自分は、こんな表情を向けられてよかったのか。それは新鮮な驚きだった。


「だから、あなたの抱える悩みや苦しみは、もうあなた一人のものではありません。いつでも、何でも、相談してください。私、あなたと一緒に悩んで、うんうん唸って、あなたの笑顔をもっともっと見たいですわ。友達第1号として、いつでもお待ちしております」




 家に帰ると、母はちょうど下で洗濯をしているようだった。バレないように自室に入ると、濡れた服を脱いで着替える。濡れた痕跡をなくすと、窓から外に出て、今度は「ただいま」の声と一緒に門を開けた。


「お帰り。体温計は机の上よ」


 階下から、そんな声が聞こえて来る。言われるままに視線を移せば、白い体温計が無作法に置かれていた。無機質な樹脂のそれを手にして、少女の昂ぶっていた気持ちが沈んでいくのを感じる。

 リビングの椅子に腰掛けて、ただ体温が数値として現れるのを待つ。無為な時間は、どうしようもなく長く感じてしまう。

 これが、家に帰ってきた少女の義務だった。人として生きる為に課せられた、死なない為の策。

 脇に挟んだすべすべした感触が、今までの自分の全てだった。これでしか、自分を測る事ができない。温度を持たずに生まれた自分は、どうしてか温度以外で自分を表現する術を奪われてしまった。


 だけど--と、少女はこみ上げる虚しさを、首を振って否定した。


「今日は……楽しかった、な」


 沢山びっくりしたし、戸惑うことばかりだし、とても怖かったけれど。

 今日は、沢山びっくりして、いっぱい戸惑って、とても怖がった。

 胸を満たす感情は、熱いとか、冷たいとか、全然関係なかった。

 今まで、自分は何もできないと思っていたのに。たった一日で、『友達』と『使命』を手に入れられた。

 だから、楽しかった。嬉しかった。

 そして何より、胸の内に宿る使命感が、休む暇なく自分を急き立てている。


 メアリを助ける。秘密を暴く。

 その為ならなんでもできる気がした。やろうと思えた。



 だけど、結局それは、少女の虚栄でしかなかった。

 ピピ、と音がする。脇から取り出した体温計が、横からサッと取られた。

 振り向けば、母が静かに体温計の数値に目を落としている。


「あっ--」

「……冷えてる」


 一言そう呟いて、視線を少女に移した。温度を知らない少女さえ、それが『冷徹』と呼ばれる目であることを理解できた。

 母は少女の目の前の机に手を付いて、厳しい目で少女を見据える。


「一体どこで何してきたの? 勝手な真似はしないでって、何度も言っているはずだけど」

「別に、何もしてないよ……友達と会っていただけ」

「友達? 本当に?」


 形容しがたい息苦しさが、喉元の空気を堰き止める。

 言葉に込められた感情は、少女の言葉を疑うというより、「あなたに友達がいたの?」という軽蔑に近い驚きだった。


「本当だよ。今日、友達だって言ってくれたの。その子と、えと……一緒に遊んで。それで……」


 具体的な話は、ここでは言えない。それもあって、少女の言葉は弱々しく、途中で途切れてしまう。母の厳しい視線に負けて、顔を背けてしまう。



「……その子と付き合うのはやめなさい」


 母は嘆息一つ、そう切り捨てた。


「っどうして……?」

「あなたが普通じゃないからよ」


 言葉は、胸をハンマーで叩かれたように、ずんと重くのし掛かってきた。肺にヒビが入ってしまったみたいに、少女の息が詰まる。


「あなたの体質を本当に理解できる人はいない。その子があなたに危ないことをしないという証拠はあるの? あなたを殺さないという保証は?」


 矢継ぎ早に、母の言葉が胸のヒビを広げていく。世界がどんどん遠ざかって、少女を孤独と虚しさの暗闇に置き去りにしていこうとする。

 母は少女に体温計を突きつけた。


「ほら、数字を見なさいよ。こんなに低くなっている。あなたの事なんてさっぱり理解できていないわ。自分が楽しみたいがために、あなたを連れ回そうとしているのよ」

「そんなことないよっ。あの子は、ちゃんと気遣ってくれて……!」

「それでこの結果なら、尚更認められないわ。すぐにあなたを殺すわよ。無責任なことにね」


 かぁっと、何かが眉間あたりにこみ上げてきた。それは、沸騰しそうなほどに熱い血なのかもしれなかった。熱くもない、ただぐるぐると眉間に渦巻くそれが、少女に椅子を蹴倒させて、喉から言葉になって飛び出す。


「違う……あの子は、誰よりも優しかった!」


 初めての激昂に、喉がびっくりして、しゃくりあげそうになった。いつのまにか握りしめた拳がブルブルと震えていた。

 体が沸き立つような気がした。『熱い』と形容するのだろう何かが全身を駆け巡っている。眉間のぐるぐるが、堰を切ったように流れだそうとする。




「--私よりも?」


 しかし、絶対零度の瞳が、少女の熱を全て消し去った。


「あ、ぅ……」

「ねえ、あなたが死んだら、誰が責任を取るの? ねえ、考えたことある? 私たちよ。私たち親があなたを殺したことになるの……!」


 ギリ、と母の握りこぶしが音を立てた気がした。ゆらりと直立し、一瞬で子犬のように縮こまった少女を睨みつける。

 母は悲痛な目をしていた。

 母は嘆いていた。何をだろう? 自分自身の、境遇だろうか? 自分を産んだという不幸だろうか?


「私はあなたの母親なの。あなたを生かすことが私の役割なの。好きであなたを縛るわけじゃない。あなたを死なせたくないわ。あなたが誰とも知らない『お友達』に殺されるなんて絶対に御免よ! 冗談じゃないわ!」


 それは、名前だけは『心配』という形をしていた。


「私は、あなたを心配して言っているの。勝手なことをしないでちょうだい」


 その言葉を最後に、部屋には静寂が包んだ。

 痛いほどの静寂に、母の静かな怒りだけがいつまでも残っている。



 ずるい。とてもずるい言葉だった。死んだらどうする? 誰が責任を取る? 全部、少女の外側の言葉だった。少女に訪れる危険そのものや『その後』の話でしかなくて、本当にそれは少女の心配なのかと、嫌悪感が滾る。だけどそれは真実で、外側の事だから反論できる言葉を持たない。


 結局、少女はいつも何も言えない。外側の言葉が、少女の心を突き破り、内側を傷つけていく。

 普通でないと言われ、だけども普通と比べられ、劣等感として傷を残す。

 冷えて固まった額のぐるぐるが、行き場をなくして、頭の中に一つの疑問を浮かばせた。



 --ねえ。一つだけ、教えてよ。

 その心配って、誰のなの?

 結局、私はお荷物でしかないの? あなたの責任でしかないの?

 私は、あなたの『義務』なの?



 嫌悪感が募る。例えられない怒りが湧いてくる。

 だけど、少女はそれを言葉にできなかった。くしゃくしゃに歪んだ顔を、せめて母に見せたくないとうつむかせる。


「……あなたは普通じゃないの。よく、肝に銘じなさい」


 母はそう言い残して、自室に消えていった。

 ドアが閉まり、母と自分は隔絶された。

 残されたひとりぼっちの空間で、少女は静かに、唇を噛む。


「そうだよ……普通じゃないよ」


 眉間に溜まっていたぐるぐるが、タールみたいに黒いドロドロしたものになって、口から溢れていく。


「だけど……友達は、できたんだよ」


 そうだ。自分はもう違うのだ。異端であることは、必ずしも欠陥ではなくなった。



「やらなきゃいけないことが、できたんだよ」


 一人の幽霊が、この欠陥に意味を与えてくれたのだ。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「宵待なつこ」様、感想を書いていただき本当にありがとうございます!

読んでいただけて、また楽しんでいただけて、嬉しい限りです。

結末までそう遠くはないので、これからも楽しんでいただけると幸いです

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る