謝罪
翌日。
伊賀先輩の約束通り、今日はセイタン部の全員が集まる日だ。今回は私と明里のクラスではなく、蜷川がいるクラスに集まるよう昼休みに連絡があり、私と明里はそこへ向かっている。
集合場所、二年三組の前まで辿り着くと私と明里はドアを開けて中に入った。そこにはすでに伊賀先輩とりっちゃんがおり、蜷川は背中を向けて座っている。
いつも通りならここで明里なり伊賀先輩が挨拶を交わし、そこから会話が始まるのだが、教室に入っても誰一人声を出す者はいない。いらっしゃい、とも伊賀先輩は口に出さず、ただこちらを見ている。その後ろではりっちゃんが隠れるように先輩に身を寄せ、明里も黙ったままだ。
重い空気……というわけではない。嫌悪や拒否による沈黙ではないことは雰囲気から察することができる。先輩とりっちゃんの目からもそれは理解できた。彼女達は待っているのだ。私の第一声を。私がどんな態度に出るのか。
私は一度深呼吸した後、歩を進める。その先には蜷川だ。彼の背後に立つと、私は昨日から決めていた言葉を口にする。
「……ごめんなさい」
私は深く頭を下げながら、蜷川に謝った。
「それは何に対しての謝罪だ?」
少し遅れて、蜷川が重い口を開くように背中を向けたままゆっくり問い掛けてきた。
「それは……声優をバカにしたことに……」
「ほう。だが、なぜ謝る気になった。お前は声優が嫌いなんだろう? だったら謝る必要はないんじゃないのか?」
「だって……」
声優をバカにしたことはあなたの母親もバカにしたことになる。そう言おうとしたが踏み留まった。私には知られたくない内容だろうし、本人からしても触れて欲しくない内容だろう。だから昨日伊賀先輩は二人っきりで話をしたはずだ。
「俺の母親の事を聞いたからか?」
「……うん……あれ?」
ちょっと待て。なぜそれを知ってる?
「昨日、静から聞いた。全く、人の家庭を勝手に喋りやがって」
「大丈夫よ。由衣ちゃんは面白半分に広めるような、そんな子じゃないから。でしょ?」
今日初めて伊賀先輩が私に声を掛ける。そこには笑顔が浮かんでいた。
あれ? 先輩、秘密じゃないの?
軽く肩透かしを食らいながら、蜷川が私に背中を向けたまま続ける。
「お前はたしかに声優をバカにした。だが、それと俺の母親とは関係ないだろ。お前が俺の母親を知ったのは事の後だ。静にも言われたろうが、お前がそこに負い目を感じることはない。だったら謝る必要も――」
「ち、違う!」
私は声を張り上げて否定した。
「たしかに、私があなたの母親が声優をやっていたと伊賀先輩に聞いたのは昨日。あなたと言い合った時も名指しでバカにしたわけでもない。ただ……」
「ただ?」
「……ただ、声優という仕事の凄さを知ったから、純粋に謝りたかったのよ」
蜷川以外の三人は口を挟まず耳を傾けている。
「ほう。声優嫌いのお前が声優の凄さをどう知ったんだ?」
「昨日、パソコンでアニメを観てみたの。私が観たのは、なんかバブルという女神とかピクミンという爆裂とかダグラスというクルセイダーとか、ファンタジーみたいなアニメ。タイトルは祝福が云々とか」
「……色々と突っ込みたい所満載だが、まあいい。それで、観た感想は?」
「ぶっちゃけ、よく分かんなかった」
「コルァァ! 声優の凄さが分かったんじゃないのかよ!」
「は、話を最後まで聞いてよ!」
突っ込みを入れながらも、いまだに蜷川はこちらに振り向きもしない。私の顔を見たくないぐらい相当怒っているのだろう。
「アニメを観るなんて数年ぶり。しかも、私は今までアニメとか声優を嫌ってた。ほんの数個アニメを観ただけじゃ声優の違いとか魅力なんて分からない。だから……」
「だから?」
「音を消したの。最初は普通に観て、その後音を消してもう一度観てみた」
無音の映像を流し、声のあるものと無いものを見比べてみたのだ。声優が発する台詞が流れる映像にどれほど意味を成しているのか、そんなことを考えながら一度目を観て、音を消した二回目と比べる。私なりの工夫で声優を知ろうとしたのだ。
「率直に言って、すごいと思った。映像だけでも緊迫した雰囲気を感じたけど、声が入ったことでより窮地に立たされている感があったの。笑いを引き起こさせる場面でも、間というか、会話のやり取りが自然だった。無音で観たのと想像より遥か上だったわ。台本通りに声優さんは喋ってるだろうけど、ただ喋ってるだけじゃない。台詞の一つ一つに強弱を付けて、その場の雰囲気がまるでリアルに思えるように声で演じているな、って思ったの。本当にそんな場面を経験したんじゃないの? って思うぐらい声はピッタリ嵌まっていたわ」
キャラクター達のいるその世界や情景をより視聴者に伝えようと声優達はスタジオで励んでいたに違いない。映像だけではなく、声でも魅力を伝える。そうでなければ、アニメ嫌いの私がこんな考えは浮かばないだろう。
蜷川、元は蜷川の母親の台詞だが、声の強弱で的確に相手に伝える。何をバカな、と最初は思っていたが、声一つでここまで伝えられる事に私は驚きながらも感動したのだ。私は前にお遊びで声優をやっているって言ってしまった。しかし、お遊び感覚ではここまで如実に表現できないはずだ。
「私は今まで、声優とかアニメを表面的でしか向かい合っていなかった。そこに携わる人達がどういう思いで制作をしているかなんて考えたこともなかった。だけど、声優やアニメ制作に全身全霊を掛けて取り組んでいる人がいる。あなたのお母さんのように。それを私は蔑んだ。自分で言うのも嫌だけど、最低の行為だわ。だから……」
私はもう一度、先程よりも頭を下げる。
「声優をバカにして、すいませんでした」
頭を下げながら目を瞑る。
心からの謝罪。嘘偽りのない、私の本心による謝罪だ。あれほど怒らせたのだから許してもらえないかもしれない。だが、謝らずにはいられなかった。果たして蜷川はどう受け止めてくれるのか。長い沈黙が教室を包み込み、それが不安をより募らせている。
「……分かった。もういい」
蜷川が口を開く。それは私の謝罪を受け入れてくれる内容だった。
「……許して、くれるの?」
「お前が声優という仕事にきちんと向き合ったからな。声優は誇り高き職業。声優は神にも等しい崇高な存在だ。それを理解してもらえただけで十分だ」
そこまで言ったつもりはないんだが、まあ許してもらえたようなので何も言わないことにする。ただ、一つだけ気になることがあった。
「じゃあ、許してくれたならせめてこっちを向いてくれないかしら? ずっと背中を向けられてるとなんか嫌なんだけど」
「気にするな。別に大した意味はない」
「いや、意味とか聞いてないから。ただ振り向いてくれ、って言ってるのよ。顔を見せてよ」
「気にするな」
「いや、だから――」
「しつこい。話は終わったんだろ? だったら今日はもうお開きにしようぜ」
何だこいつ? 何でこんなに私に顔を見せようとしないの? まさかとは思うが、私に謝られて照れている?
そう思うと、ちょっと好奇心が沸き出した。一体蜷川はどんな顔をしているのか、と。
私は足音を忍ばせつつ、素早く蜷川の前に移動し顔を拝見。すると……。
「……何、その顔? パンパンに腫れてるじゃない」
そう。蜷川の顔は赤くなっていたのだが、まるで蜂に刺されたかのように腫れ上がっていたのだ。赤みの具合から熱が溜まっているのが目視でも判断できる。
「おいこら、人の顔を勝手に見るな」
「いやいや、何それ? 何でそんなことになってるのよ」
「ああ、それ私」
手を上げて自分が原因であると主張したのは伊賀先輩だ。
「何したんですか?」
「往復ビンタ」
「……ビンタ?」
「そっ。手を出さなかったとはいえ、女の子に掴み掛かるのはよろしくない、と軽く説教しといたわ。こう、パパパパパパパッ、パアァン、って感じで」
いやいや……軽く? 音の数的にも軽くを越えています。蜷川の頬は相当腫れ上がっていますよ? 一体何回往復したんですか?
「軽く? どこがだよ。腰入れて力の限り振りまくってただろうが。デンプシーロール並みに」
「ちょっと最近運動不足だったから、身体全体動かした方がいいかな、と」
「だったら走ったりしろよ! 運動不足解消に人殴るとか聞いたことねえぞ!」
わいわいと二人が言い合い、りっちゃんがオロオロと交互に見やる。いつのまにか普段通りの風景が広がり、私は自然と笑みが溢れていた。
「さて、とりあえず祐一の件は置いといて」
「待て、終わってないぞ。まだ俺は――」
「由衣ちゃん、これからどうする?」
伊賀先輩が私に振り向き尋ねてきた。その意味は言うまでもない。その質問に私は姿勢を正し、改めてお願いする。
「お願いします。引き続き私の疑いを晴らしてください」
「……って言ってるけど、どうする祐一?」
「やるに決まってるだろ。一度受けた依頼はきちんとこなす」
「決まりね。じゃあ、早速今後の活動を話し合おうか」
そう言うと、蜷川、伊賀先輩、りっちゃんが机を集め始める。いつも思うが、このメンバーは切り替えというか決断が早い。
私も遅れながら机を運ぼうと動き始めるが、明里が呆けたように立ち尽くしている姿が目に入り、近くに寄って声を掛ける。
「明里、どうしたの?」
「ねえ、由衣……」
明里は声を潜ませ、真剣な表情でこう言い放った。
「蜷川君のお母さんの事知ってるってことは、挨拶に行ったの? つまり、そういうことだよね? 真っ先に挨拶行くとか由衣って行動早いね」
次の瞬間、教室に私が明里の頭をグーで殴る音が響いた。
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