第6話 脱出

「・・・朝か」


 椅子の上で仰け反るように天井を見上げながら、トリアンは何とか暗殺を防げたという安堵感を声にして呟いた。


 3日間、文字通りに一睡もしていない。


(熱い飲み物が欲しい・・)


 窓辺に立って夜明けの空を赤紫に染め上げる日の光を眺めながら、ふと視線を中庭に向けた。

 ゴルダーンが立っていた。


(ぶふぁぁぁ・・)


 爽やかな朝が台無しである。やりかけた深呼吸がおかしなことになった。

 よりによって、歩く災厄が中庭からトリアンの部屋を見上げていた。

 3日間、ゴルダーンの訓練を生き延びた。

 今日は出立の日である。

 キャルミアという長兄のありがたい横槍で、トリアンが屋敷を脱出する日が早まったのだ。今日の正午には、屋敷の敷地から外へ出られる記念すべき日なのだ。


(あの鬼爺ぃ・・まだやる気か)


 トリアンはとぼとぼとメイド達の部屋の扉へ向かうと、こつこつとノックをした。

 大貴族の子息たるもの、挑まれて逃げるという選択肢は無い。

 すぐに慌ただしく身支度をする音がして、そっと扉が開かれた。

 夜着に薄い毛布を羽織った姿のジーナが顔を覗かせた。


「ゴルダーンと訓練だ。訓練着を頼む」


 トリアンは苦々しく告げた。油断すると涙がこぼれそうだ。


「か、畏まりました」


「ジーナ、これを」


 後ろに居たランが畳まれた衣服を手渡したらしく、ジーナがそのままの格好で畳まれた訓練着を抱えて出てきた。

 トリアンはシャツとズボンを脱いで寝台へ放り、受け取った地の厚いズボンを履いた。


「今日は、ずいぶんとお早いのですね」


 ジーナが訊いてくる。


「年寄りは朝が早い」


 トリアンは愚痴った。

 背にある保護胴衣の留め具をジーナに頼みつつ上着を手に取った。昨日裂けた所も、すでに縫い繕われてある。


「行ってくる」


「ご武運を」


 お辞儀をして見送るジーナに、


「おれに運などあるか」


 トリアンは苦く吐き捨てながら軽く手を振って廊下へ出た。

 丸一日、鬱ぎ込んでいたジーナも昨日の午後には口をきくようになり、母親のランとの会話ではわずかに笑みをこぼしていたようだ。


「トリアン様・・」


 階段を降りる途中で、下から来るマリナと鉢合わせになった。


「庭だな?」


「はい、ゴルダーン様がお待ちになっております」


「湯の用意をしてくれ。正午の出立前に入っておきたい」


「手配しておきます」


 お辞儀をするマリナを後目に、トリアンは廊下の途中にある扉から中庭に出た。

 ほぼ同時に、斜め上から袈裟に振り下ろされた鉄棒を躱して前に出る。蹴り足の膝頭を手の平で押しながら体を入れ替えて中庭の中央へと身軽く着地した。

 奇襲、不意打ち何でもありである。


「まだ武器を貰って無いが?」


 一応、クレームは入れておく。


「敵は、貴方が武器を手にするまで待ってくれません」


 無愛想に吐き捨てる老人を見ながら、


(そうかよ)


 トリアンはふんと鼻を鳴らした。

 ズンッ・・と地響きを立てて鉄棒が眼の前に落とされた。


(いや・・音がおかしいだろ?いったい、何キロあるんだ?)


 老人の巨躯に力が満ちるのを見ながら、ゆったりとした動作で地面に転がった鉄棒を拾い上げる。毎日、確実に棒が重くなっていた。


(・・これ、50キロ・・いや、もっとあるんじゃないか?)


 この棒に比べたら初日の棒など爪楊枝だ。


「腰がふらついておりますな・・そのような情けない事で、武門の誉れ高い当家の家名を背負っていけるとお思いですかな?」


(いや、自分の体重より重い棒を・・・片手で持ち上げてるんだがな)


「外では誰も貴方を助けてはくれませぬ。自らを救うは、自らのみ!」


(・・外どころか内でも味方は居ないがな)


「では、参りますぞ!」


「来い、下郎」


 トリアンは、空いている左手の掌を上に向けて指先で手招きした。

 半拍後、トリアンの右上で鉄棒と鉄棒が衝突した。

 あっさり打ち負けて逸れた鉄棒が地面を叩く。

 それでも半歩前に出て、地面を叩いた反動で棒を跳ね上げ下から上へ。突き出す。

 鉄棒を両手で振り下ろそうとしたゴルダーンが、首を捻って突きを躱しながら、片手で鉄棒を振り下ろした。

 密着して回り込むように逃れるトリアンを、ゴルダーンの拳が襲う。


(剣技か・・拳技か・・どっちかにしろ)


 心で叫びながら、かざした鉄棒でゴルダーンの拳を受けながら距離を取る。

 トリアンは前に出た。

 半端な距離では、ゴルダーンに一方的に攻められて終わる。

 もしかしたら、今日は本当に終わらせるつもりかもしれない。

 横薙ぎに鉄棒を振るゴルダーンの握り指を狙って棒を突き出し、ゴルダーンが棒の軌道を変えて根元で突きを受けるところを、トリアンが絡めるように棒を回して腕を狙って棒を振り下ろす。

 自分の身体能力が怖くなる。

 あれほど重たく感じた鉄棒を、今は軽々と振るえていた。

 ゴルダーンが棒を引いて躱しながら振りかぶる。

 腕を狙ったトリアンの棒がそのまま膝頭めがけて振られた。

 ガツンッ・・と硬質な手ごたえと共に鉄棒が跳ね上げられる。


(・・あ、ありえない!)


 鉄棒によるトリアン渾身の一撃を、ゴルダーンが膝で蹴り上げたのだ。


(阿呆か・・こいつ)


 姿勢を乱したトリアンめがけて、棍棒が振り下ろされ、回避した所へ連続した突きが襲った。


(うっ・・だっ・・おぅっ)


 表情を変えないまま、多彩な悲鳴を胸中であげながら、トリアンは懸命に回避を続けた。完全に流れを持って行かれてしまった。

 再び、空を飛んだ。

 視界が高速でぶれて走馬燈すら見えない。

 トリアンは、大の字に手足を広げて、漫画のような形で館の石壁に顔面から衝突していた。


(大工どもっ、壁は石じゃなくて・・煉瓦にしろ!)


 朦朧としたのも一瞬、両手両足を突っ張って壁から脱すると、追撃してきたゴルダーンの鉄棒を回避した。

 そこが何の部屋なのか知らないが、ゴルダーンの一撃で、石館の壁が大きく陥没して内側に爆散し、大穴が空いてしまった。

 巨大な鉄球をフルスイングしても、ああはならない。


(こいつ、おかしいだろっ!・・・人間じゃないだろ?)


 胸中で盛大に叫びながら、トリアンは鉄棒を大上段に構えた。

 呼吸も乱さず、表情も変えない。

 この無表情こそが、トリアン最高のスキルかもしれない。

 ゴルダーンが構えもせず、鉄棒をだらりと右手に握って歩き寄ってくる。


(突撃っ!)


 トリアンは真っ向から打ち込んだ。

 小枝でも払うかのように、ゴルダーンによって打ち払われた。続けて、暴風のようなゴルダーンの鉄棒が襲いかかる。上から横から、斜め下から跳ね上がり、上から下へ振ってくる。力任せだが、すべてが風鳴りさせている。

 金属音と火花が連続して弾け、今度はゴルダーンの蹴りによってトリアンが空を飛んだ。


(・・・ちっ)


 半分意識が飛んでいた。

 蹴りを受けた腕ごと、へし折るように頭部を蹴り飛ばされたのだ。

 トリアンは空中でゴルダーンへ視線を向けた。


(あっ!?)


 ゴルダーンが鉄棒を振りかぶって、もの凄い勢いで距離を詰めてきていた。

 物悲しい殴打音が鳴って、辛うじて棒で受けたトリアンが空中から地面へ叩き伏せられた。


(これ、スキル効いてるのか?硬軟自在は?耐性は?)


 胸中で悲鳴をあげながらトリアンは転がり回った。

 さらに、ゴルダーンが蹴りにいく。

 しかし、倒れたトリアンを蹴ったはずの足は空振りしていた。

 地面すれすれに身を伏せ、蹴りを躱しながら、トリアンがゴルダーンの軸足めがけて鉄棒を振り抜いた。


 ゴッ・・


 怖いくらいに強烈な手応えがあった。それだけだった。


(だろう・・なっ!)


 トリアンは襲ってきた鉄棒を回避して脇へ逃れ出た。

 鉄棒の一撃がまるっきり効かない。


(化け物め・・)


 胸中で仰け反りながら、トリアンは再び鉄棒を上段に構えた。

 ゴルダーンの口元に、例の笑みが浮かんでいる。夢に出そうなやつである。


「今のは、なかなか良かったですぞ」


「ふん・・下郎に褒められて喜べるか」


 トリアンはつまらなそうに鼻を鳴らし、じわりと腰を沈めた。


「続けたいところですが・・時間のようですな」


 ゴルダーンが館を仰ぎ見た。


「ん?」


 トリアンは老人の視線を追って館を見上げた。


(あいつらか・・)


 そこに、カルーサス家の当主と世継ぎのキャルミアが並んで見下ろしていた。

 トリアンは鉄棒を下ろして、丁重にお辞儀をした。


「出立の時刻が迫っております。ほどほどになさりませ」


 グラウスが近づいて来た。


「そこのデカいのに言え」


 トリアンは悠然と立ち去って行くゴルダーンに向けて顎先をしゃくって見せた。


「マリナから湯の仕度が出来たと伝言です。それから、こちらは御母堂より預かった御手紙と餞別の品で御座います。お心の病で、少し体調をお崩しになっておられますため、お見送りは難しいかと存じます」


 グラウスが大きな革の旅行鞄のような物を置いた。


「足は何だ?」


「当家の馬車でリアティへ行き、そこで飛行船に乗り換えて頂きます。ダルザンの駐機場に獣・・・あちらの方々が出迎えに来ていると連絡が御座いました」


「・・そうか」


「ご準備が終わるまで、馬車は待たせておきます。では・・ご自愛下さい」


 グラウスが小さく頭を下げて去って行った。

 トリアンは、ちらと館を見上げた。

 もう、二人の姿は無かった。

 トリアンは母親から贈られた荷物を見た。危険探知マーカは光らなかった。


(心の病だと?ここにいる奴らはみんな頭の病だろ?)


 荷物を手にトリアンは別の扉から廊下へ入った。

 そこで、ジーナが待っていた。


「お怪我は?」


「無い」


 ぶすりと不機嫌に答える。例によって照れ隠しだ。


「お、お拭きいたします」


 声も震えていれば、手も震えているといった感じながら、ジーナが濡れた布でトリアンの顔の汚れを拭ってくれた。


「湯は?」


「湯殿ではなく、お部屋に桶が用意されております」


「・・そうか」


 最後に湯船に浸かりたかったが、湯で体を拭うだけになりそうだ。

 部屋の前に、侍女頭のマリナがランと共に待っていた。


「荷物の準備に、ランとジーナをお借りしたいのですが、よろしいでしょうか?」


「ああ、構わん」


 トリアンは頷いた。

 "私物"ということで筋を通したというところか。

 部屋に入ると、念のため危険探知のマーカが灯るところは無いか見回してから、寝台に着替えが置かれているのを確かめ、隅に置かれた湯桶に近づいた。手早く裸になり、湯に浸した布で体を拭いてゆく。

 あちこち痛む。


(いよいよ外へ出るのか)


 トリアンは、顔をしかめながら体を拭き終えると用意の衣服を身に着けた。


「なんだ・・これ?」


 思わず声が出た。


(・・たしか、二郎とやらの記憶にあった・・作務衣だったか?)


 トリアンは用意の衣服を広げたところで、しばし硬直した。


(まあ、良いが・・)


 ズボンをはいて腰を紐で絞り、細かい鎖を縫い込んだ内着の上に、袖無しの上衣を羽織って紐で留める。腰に黒い細帯を巻いた。上衣の内側にポケットがあり、小物入れになっているようだ。筒状の裾を絞って履いた半長靴の内へ入れる。


(これで良いのか?)


 ずいぶんと軽装で動きやすいのは良いが、どっかの村の住人といった質素さである。

 その時、廊下でノックする音が聞こえた。


「入れ」


 声を掛けると、マリナとジーナが部屋に入ってきた、


「その着衣は先方より贈られて参りました品で・・」


 トリアンが訊くより早く、マリナが説明した。


「・・そうか」


「お着替えは馬車に積み込みました。その・・キャルミア様からお急ぎになるよう・・」


「ああ、すぐに出て行くさ」


 トリアンは二の腕を晒した何とも庶民的な頼りない姿で廊下を歩いて階下へ降りた。

 いつもの中庭側では無く、玄関かと思ったのだが、どうやら裏門側だったらしい。大きな玄関扉を横目に、裏口に向かって回廊を歩かされて裏門に続く扉へ到着した。

 二人の女中が待っていた。


(さて・・)


 ここまでは、どこにも危険探知マーカは灯っていない。

 扉の上下左右、向こう側にも無いようだ。

 ちらと、後ろに続く、マリナとジーナを見る。

 まさかとは思うが、念には念だ。

 二人が襲ってくる可能性もゼロじゃない。

 トリアンは、女中が開けるのを待って扉から出た。

 馬車は黒塗りでは無く、普通の荷馬車に幌をかけたものだった。当然、どこにも家紋は入っていない。


「御者は?」


 トリアンは、誰にとも無く訊いた。


「ランが出来ます」


 背後でマリナが告げる。御者の1人も付けて貰えないらしい。


「そうか」


 トリアンは真っ直ぐに前を向いたまま馬車に近づいた。

 幌の紐を確かめていたランが小走りに迎えに来た。


「行けそうか?」


「大丈夫です」


 ランがしっかりとした表情で頷いた。


「お母様、先に手綱を取ります」


 ジーナが声を掛けながら御者台へ上がる。母親のランだけでなく、娘のジーナも経験がありそうだ。

 トリアンは半身に屋敷を振り返った。

 すばやく視線を巡らせるが、危険探知マーカは無い。


(嫌な感じはあるんだが・・)


 考えすぎだろうか。

 トリアンはお辞儀するマリナを一瞥して、荷台へ跳び上がった。

 荷台に幌を掛けただけの馬車だ。御者台は丸見えである。

 ジーナの横に、ランが座った。


「では、出発いたします」


 振り返ったジーナに、


「ああ」


 トリアンはいくぶん目元を和ませて頷いた。

 鋭く手綱が鳴って、車軸をきしませながら馬車が走り始めた。

 

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