第21話 雪寄せ

 姉の家の両側は、屋根から滑り落ちた雪と、日々の積もり積もった雪で覆われていた。昨日、龍三が姉の家に着いてみると、積もりに積もって狭くなった玄関の雪の壁の奥から、懐かしい雪掻きのような音がしていた。老いた姉夫婦が作業できるわけもなく、除雪作業員でも来てるのかと、龍三は玄関に旅行バッグを置き、覆われた雪を越えて向こうを覗いた。するとそこには、久しぶりに会う姉が七十の老体を奮い立たせて、重い鶴嘴を不器用に振り下し、氷のように固まった積雪を砕いている姿が見えたではないか。龍三は意外な再会に面喰った。


「もうやめなよ、あぶないから!」

「あれ、着いたかい」

「雪がひどいから中に入りなよ。オレが代わりにやるから」

「お茶でも入れるから、あんたも家に入りなさい」

「いや、暗くなる前に少しでもやっておくよ。一晩でまた雪が固くなるから」


 龍三は取り敢えず、玄関脇だけでも雪寄せしようと、着いて早々作業を始めた。掘り進むと、積雪は殆ど氷状になっていた。どうりで姉は、スコップでは歯が立たずに鶴嘴を持ち出したようだ。兎に角、砕いては裏の田んぼに雪を運ぶ作業を繰り返した。豪雪地帯の集落は隣家が近いと毎年、雪の処分場所に困る。結局、暗黙の了解で隣接する他人の田んぼに捨てることになる。一冬で隣接する田んぼの除雪の範囲がかなり広範囲になるため、『これが春になって自分の土地になったら有難いんだがね』というのが合言葉のようなジョークになっていた。作業の途中で、姉夫婦が心配して頻繁に外に出て来るので、その度に作業を中断してお茶タイムになった。


 やっと目途が付いた雪寄せ二日目の夜、久々の田舎料理だった。姉夫婦が春から秋にかけて収穫した山の恵みのタケノコやきのこなどの山菜や、ハタハタの自家製こうじ漬け、そして定番のきりたんぽ鍋が深夜のテーブルの上に所狭しと並んでいた。姉夫婦にとって龍三はいつまでも子どもなのだろうが、龍三も年を取った。こんなに食べられるはずもない。龍三はその体格の割に小食なのは周辺のみが知るところだが、姉夫婦の精一杯の愛情がテーブルの上に盛られていた。龍三はその気持ちに少しでも応えようと、久しぶりに大食い選手権のような闘争心で立ち向かった。食の歯ごたえが耳に振動し、幼い頃の思い出が脳裏を駆け巡った。

 決して良い想い出だけではない。貧しいが故の理不尽は日常茶飯事だった。それから見れば、2ちゃんねるでの誹謗中傷など無視すれば済むことだったが、それを無視できない原点がこの土地にあった。 “間引き ” の慣習である。農作業に於いて間引きを怠ると、植物はやせ細り、作物として使い物にならなくなる。食い扶持を減らすために生まれた子供を何らかの形で処分する家庭内生存本能の悍ましい歴史は、龍三の生まれ育った鬼ノ子村では長い間根付いていた慣習である。この土地で育った多くの人間はそうした深層心理を携えていた。龍三にとって、己の結界に土足で入りこもうとする相手は全て “間引き ”の対象である。況してや、生まれ育った土地で、或いは、土地の人間に “無礼 ”な振る舞いを働けばどうなるのか…女部田はその結界を冒していた。


 龍三は三日目の午前4時ごろ、目が覚めた。まだ夜が明けていなかったが、雪が止んでいる。姉夫婦を起こさないように外に出て、静かに作業を再開した。一時間少し経ったろうか、東の空が徐々に明るくなってきた。日の出はグンと冷え込むが、作業で汗びっしょりだ。除雪で平らに慣らした田んぼがちょっとした舞台の広さぐらいになって作業がし易くなってきた。雪の足場を固めながら “小舞台 ”から大幅にせり出した “大舞台 ”になっていく。姉が朝ごはんだと呼びに来た。


「何時に起きた?」

「ああ、ちょっと前に」

「ちょっと前に起きてこんなには出来ないでしょ? あまり無理しないでよね」

「今日中には片付けたいなと思って…」

「全部やらなくてもいいから、兎に角、朝ごはんにしよ」


 龍三は昨日の大食い選手権で全く腹が空いていなかったが、汗で着替えもしなければならないと思い、姉の指示に従った。

 朝食は何年振りだろうと思った。龍三は上京してからいつしか朝食の習慣はなくなっていた。おふくろの味の象徴とされる “味噌汁 ”は、塩辛くて嫌いだったし、定番の鮭も昔の味はかなりの塩辛さだった…というより、ほぼ塩といっていいほどに塩辛い。そのイメージがあるので、懐かしい田舎の朝食には期待できなかった。龍三は、着替えてそっと外に出ようとすると、姉に呼び止められた。


「朝ごはん、食べなさい!」


 龍三は素直にテーブルに着くと、味噌汁と塩鮭の二大メインメニューがしっかり揃っていた。大食い選手権の続きである。まず味噌汁にチャレンジしてみた。一口啜って時代が変わったと思った。薄口でダシが利いて凄く美味しかった。次は塩鮭だ。極小さめの一切れを箸でつまんで口元に持ってくると、鮭の甘い香りがした。食べると全く塩辛くない美味しい鮭の味がした。結局、一番の難敵はご飯だった。やっと一杯押し込んだのに、姉が強引に二杯目を装った。岩手の椀子そばかと思ったが拒否できなかった。


「その体格で一杯じゃ力が出ないでしょ」


 今、食べ過ぎで吐きそうで力が出ない…と龍三は言いたかった。作業を再開して何度か逆流性食道炎の態を耐えながら、西の冬空に陽が傾き始めた頃、破けた手のひらの豆をテーピングして一休みしていると、姉が友達のご婦人を連れて作業を見せにやって来た。


「向かいのおばあちゃんが作業を見たいって」

「こんにちは、いつも姉がお世話になってます」

「いえいえ、こちらこそ。弟さんの話はいつも聞かされてます。まあまあ、わざわざ東京から雪寄せに来てくれたんだってね」

「弟が三日掛かりだ」

「今年の正月は、あんたのうちに、東京から神様がやって来たね」


 ご婦人はそう言ってにこにこと姉宅にお茶飲み話に入って行った。神様ならいいが、疲労困憊で仏様になりそうな龍三は、前日の疲れが取れない純然たる高齢者の仲間入りを果たしたことを、懐かしい雪寄せで再確認していた。


 龍三が雪国に暮らしたのは成人前までだ。毎朝の雪寄せは経験しているが、当時は家族全員が動けた。老夫婦の場合、必ずしも毎朝の作業ができるとは限らない。しかし、一日でも除雪を滞らせると、翌日の作業は倍になってしまう。それが何日も続けば、姉夫婦のように手の付けられない状況になる。役所からの助成金は出るが、それも数回分の除雪費。しかも完璧に作業をしてもらえるわけではない。来る作業員によって出来不出来がある。どうしても自分の家のようには丁寧にやってもらえない。先のことを考えた除雪をしてもらえるとも限らない。来る作業員も高齢者が多いのだ。その結果、姉夫婦宅のように、どこにも雪を寄せる場所がなくなるような作業のまま、終えられてしまうことも多々あるのだ。


 龍三はその日の夜、帰郷して初めて温かいお湯に浸かった。食事サイクルが東京の住まいのようには行かず、龍三は前以て姉には、夕飯には稲庭うどんの笊をリクエストしていたのが胃休めになった。添えられた天ぷらの具の中にある “カジカ ”は絶品だった。地方によっては、ゴリ、ドンコと呼ばれることもあるようだが、カジカはカサゴ目カジカ科に属する淡水魚で、龍三は幼い頃、鬼ノ子村の川で箱メガネを覗きながらヤスで突いたものである。義兄が夏場に獲ったものを腸を抜いて冷凍してくれていたのだろう。


 夕食の席で義兄の良一が朝刊の記事の話題を出した。


打当うっとうって、龍三の生まれた近くじゃないか?」

「そうです」

「死体が発見されたってよ」

「どの辺で?」


 良一は龍三に記事の載っている新聞を渡した。小さな記事だったが、死亡した人物の名前が誰有ろう女部田真とあった。


「埼玉の人みたいだね」


 義兄の質問に、龍三は無関心げに頷いた。


「熊にやられたみたいだね」


 龍三は話題を変えた。


「明日、葬式に行こうと思う」

「その新聞の死んだ人のかい?」

「いや、知っている俳優さんが亡くなったんだ」

「どこの?」

「合川の…」

「そしたら明日帰るのかい?」

「そうだね。雪寄せも済んだし、葬式に出て、その足で帰ろうかと思う」

「ゆっくりできなかったね」

「雪寄せ出来たからゆっくりしたよ」

「あんたはいつも台風だね」


 滞在四日目の早朝、龍三は姉の家を出た。青い空が広がっていた。内陸線の駅まで徒歩で向かった。駅舎に入り切符を買って振り向くと、意外な人物が立っていた。


「松橋さん!」


 成沢である。


「どうしてここに?」

「成沢さんこそ、どうしてここに?」

「駅前の宿に三日ほど泊まってたんです」

「三日間もどうして?」

「峰岸さんの告別式に…」

「それで三日間も…」

「病院で峰岸さんの死を…ご家族に看取られたことがせめてもの…」

「…そうでしたか」

「イベントは打ち切りになって、急遽懇親会の二次会になりましたが、そこで抜け出して峰岸さんの病院へ行ったんです」

「イベントのほうは大丈夫でした?」

「現場を放棄するんですかと言われましたよ。これから私も2ちゃんねるで叩かれるかもしれませんね」


 成沢は吐き捨てるように笑った。


「それは不可能ですよ」

「・・・・・?」

「見ませんでした、今朝の朝刊を?」

「見てません…どういうことですか?」

「彼は死にました」

「え?」

「熊にやられたようですね」

「熊に!」


 狭い駅舎の改札に駅員が立った。


「乗りましょうか」


 二人は無言で内陸線の車窓を眺めていた。成沢はぽつりと龍三に聞いた。


「松橋さんは、どうして俳優を志したんですか?」

「この土地を離れたくはなかったよ」

「・・・・・?」

「寄せられたんだ…家を。この内陸線の軌道敷設範囲に入ったんでね」

「すると内陸線が敷かれなければ…」

「どうだろう…敷かれなくても引っ越したかもしれないけどね。同じ時期に父が他界したんだ」

「そうでしたか…もし、お父様がご健在で、内陸線にも寄せられなかったら、ここで何をしていました?」

「大工だね。父が大工だったんだ」

「そうだったんですか!」

「兼業農家だったんだ。大工はいいけど農業は苦手だ。私はミミズとか蛇が苦手なんだ」


 成沢は大声で笑った。自分の笑い声で、このところ暫く笑っていないことにも気付いた。車窓は、凡そ人の姿もないひっそりとした冬の田園風景が流れた。時折、どこにでもいるカラスが餌を探してか徘徊している。


「生まれる場所は選べないけど、死ぬ場所は選べると思ってました。でも、選べないかもしれないですね」

「峰岸さんはご家族に看取られて幸せだったんじゃありませんか?」

「その時、傍らに誰がいてくれるかは…運ですよね」

「成沢さんは誰に居てほしいですか?」

「やっぱり、妻でしょうか」

「私もそう思います。もし夫婦がお互いそう思っているとすれば、先に死んだもん勝ちですね」

「寂しい話ですね」


 お互いに笑った。


「先日、松橋さんにお会いした時に仰ってましたよね。最悪の事態を考えてと…イベントに来てこんな最悪な事態になるなんて考えてもみませんでしたが、仰るとおりでした。もし来なかったら後悔してました」


 車内アナウンスが阿仁前田駅到着を告げた。


「そう言えばお聞きしなかったんですが、松橋さんもここでいいんですよね」

「ええ、参列させていただきます」


 阿仁前田の駅前に喪服の男性が立っていた。二人は葬儀会社の案内板を横目に雪道を歩き始めた。200mほど先に十数人の列が見えた。後ろを見ると、数名の参列者らしき人たちが歩いていた。


「成沢さん、先に行ってくれないかな」


 成沢は、龍三が特撮ファンの存在に拒否反応を抱いているということをすぐに察知した。自分と一緒では何かと不都合だと思ったのだろうと、成沢は頷き歩を速めて龍三から距離を取った。列の最後尾に着いた成沢を、数人の特撮ファンらがすぐに気付いた。龍三は一旦歩を止めた。後ろから来た参列者らしき人がひとりふたりと追い越して行った。暫くして龍三は再び歩き始めた。ゆっくりと歩いていると、追い越していく数人のうちのひとりが振り向いて龍三に声を掛けて来た。


「あの、失礼ですが…アニアイザーの松橋龍三さんじゃありませんか?」


 連れ立っていた仲間も振り向いて好奇の目になった。龍三は静かに答えた。


「違います…よく似ていると言われますが、違います」

「あ…失礼しました」


 一同は疑いの空気で先を歩いて行った。龍三はゆっくりと最後尾に辿り着いた。成沢は既にご焼香を済ませて戻って来た。周囲には数人の特撮ファンが取り巻いていた。成沢はすれ違いざま龍三に黙礼したが、龍三は反応しなかった。


 龍三が焼香を済ませて阿仁前田駅に着いたのは午前9時前だった。駅舎への階段を上ろうとしたら、丁度タクシーが乗客を降ろしたところだったので、龍三は乗ることにした。恐らく、駅舎内では成沢の周りにはあの数人の特撮ファンがいるだろう。数駅先の阿仁合始発の急行に間に合えば、彼らと会うことはない…そう思ってタクシーに乗ってから成沢に電話を入れた。


「さっきはありがとう。私はこのまま別ルートで帰ります。機会があればまた東京で会いましょう」

「分かりました」


 成沢は、今こうして告別式帰りの特撮ファンらに囲まれて媚を売っている自分が、仕方ないにせよ、龍三の徹底ぶりが羨ましくなった。早くひとりになりたいと思った。


 龍三の乗ったタクシーは阿仁合始発の内陸線・急行もりよし1号に間に合った。龍三は売店で500mlのミネラルウォーターを買って乗車すると、一気に飲み干した。内陸線は間もなく発車した。しばしひとりになって、加速していく車両に安堵を覚えた。未だに帰巣本能があるのだろうか…何か理由を作っては生まれ故郷に来てしまう。帰郷すればしたで、姉のところでゆっくりするわけでもなく、早く用事を済ませて東京に帰ることばかり考えている自分がよく分からなかった。自分の故郷は一体どこなんだろうとさえ思った。白い車窓にデビュー当時の頃の情景が浮かんできた。


 龍三は両親の貧困時代の生まれである。母親は鬼ノ子村では富豪の出だったが、家督で婿取りの運命に馴染めなかった。家を出て遠くで新しい生活基盤を築き、自分の選んだ男性と所帯を持ち故郷に戻って来た。しかし、実家は既に絶えていた。鬼ノ子村で一歩から生活を立て直し、やっと根を下した頃に龍三が生まれた。龍三が小学5年生の頃、父親が他界。丁度、内陸線敷設で立ち退きを余儀なくされて以来、龍三は母親と共に引き潮に浚われるように流され始めていった。


 龍三が上京を決意したのは、母親と二人暮らしで育ち、職に就いて半年程経った頃だ。流されっぱなしの自分の人生に耐えられなくなった。その後一年掛けて蓄えた貯蓄を当座の生活費として母親に渡し、片道切符でひとり上京して母親と東京暮らしをするために必死で働いた。

 ある日、知り合った友人に誘われ、彼の活動しているアマチュア劇団を見学した。そこには趣味で活動していた芸能事務所のマネージャーがいた。それが龍三の芸能界に入るきっかけとなった。ところが、ジリ貧の龍三のもとに突然母親が上京してきた。それ以後、龍三が母親とどうやって暮らしを続けられたか思い出せない紗の掛かった時代が続くことになる。


 芸能界は鳴かず飛ばず。母親に貧乏を強要しながら叶うはずもない夢を追う事に、後ろめたさを覚えながらのバイト生活の中、龍三に転機が訪れた。特撮ヒーロー番組のレギュラーが決まった。ハニーフェイスのヒーロー達が肩を並べる中で、龍三は強面の所謂そのスジ系のキャラなので、子供達に人気を得られるはずもない自分が、どうして選ばれたのか分からなかった。未来の見えない母親との二人暮しの中で、やっと舞い込んだ軌跡だった。


 この仕事が舞い込む少し前に、龍三は大手映画制作会社二社の劇場版野球映画の主役を続け様に降ろされていた。一本は、既に主役が決まっていた映画の追加オーデションで、監督の抜擢で龍三に主役がチェンジされた。ところが、制作発表の取材で報道陣が詰め掛ける中、野球界のお偉いさんの一声で降ろされてしまった。手のひらを返したようにさっさと撤収する報道陣を見て、龍三は笑いが止まらなかった。はっきりした世界だなと感心した。もう一本は同じ野球漫画の実写版化で三人の主役のひとりに決まったが、競合会社の同じ野球映画に出演しているという理由で即日主役を降ろされた。その映画会社に呼ばれてマネージャーと一緒に行くと、数人の重役さんが待っていた。


「今回の件で、今後うちの会社の作品に出ないというならそれでもいい。しかし、今回の件を理解してくれれば、うちも今後、君に対し何らかの力にはなれると思う」


 龍三はそう言われたがよく意味が解らなかった。結局、龍三に残ったのは小さな役と、行った事のない宮崎へのロケ。龍三はそれで大満足だった。宮崎の撮影から帰ってきて間もなく決まったのが件の特撮ヒーロー番組のレギュラーだった。どうせまた何かの理由で降ろされるだろうと、龍三は然程喜びもなかった。 制作発表の撮影会でも冷めていた。どっかのお偉いさんが来て報道陣が撤収したアノ日に心は飛んでいた。明日からアルバイト先に出ないと首になってしまう…そんな事を考えている間に撮影会は終わっていた。

 最初に渡された2冊の台本…第1話と第2話。自分の役がいっぱい出ている…この役は最終的に誰がやるんだろうなどと考えていた。第2話は龍三の役のメインの話になっている。龍三はきっと何かの間違いだと思っていた。撮影会から帰宅して母親に台本を見せた。号泣する母親を見て龍三も釣られて泣いた…随分、苦労を掛けてしまった…その時初めて、 今回の出演の話が現実だったらいいのになと龍三は思った。


 龍三は母親が42歳の時に生まれた高齢出産児の末っ子だ。田舎者なので兄弟も沢山居るが、母親は長年住み慣れた故里を離れて末っ子の龍三を追って上京したのだ。2冊の台本が、母親の目にどんなふうに映ったのかは、龍三が親になった今、よく理解できた。長兄の扶養を受けれず、まだ一人前になれない龍三にその負担を掛ける事に、きっと肩身の狭い思いだったろう。嬉しいだけの単純な涙ではなかったに違いないと思えた。


 龍三は居直った。どうせサンドバッグの人生は若いうちだ。 今のうちに打たれ強くなるしかないと、降板の覚悟はいつも出来ていた。レギュラーの最初の撮影は、番組のオープニングと エンディングの撮影。未経験の殺陣などすぐに覚えられない。どぎまぎしながらも、龍三は途中から結構楽しくなってきた。お偉いさんに番組を降ろされるまで兎に角撮影を楽しんで帰ろうと思いつつ夢中になっていった。


 撮影は極めて順調に進んだ。クランクイン以来、龍三は日に日に自分の中でプロ意識が芽生えて行った。それは撮影2日目にくじいた両足のお陰である。オープニングの飛び降りるシーンの時に両足に嫌な衝撃を受けた。その日の撮影を何とか終えて電車で帰る途中に痛みがひどくなった。家に着く頃には足を引き摺る状態だったが、病院は既に閉まっている時間だ。帰宅して急いで冷やし、眠れないまま一夜を過ごした。うとうとして痛みで目が覚めるともう朝だ。 出掛ける時間までそれ程時間もない。しかし、立てない。恐る恐る見ると足首がパンパンに腫れ上がって紫色になっている。正念場だな…やって来たのはお偉いさんじゃなくて良かったと龍三は思った。思ったより早かったが、いたずら好きな神様がやって来たんだ。これなら自分次第でどうにかなると龍三は思った。しかし、この状況をスタッフに連絡したら間違いなくレギュラー降板で俳優交代になるだろう…兎に角這ってでも現場までは行こうと、龍三は足首の湿布の上から包帯をきつく巻いて何とか立った。歩ける…そう言い聞かせて掴まりながらゆっくりと駅まで歩いた。電車に乗って移動している間に少し痛みが取れてきた気もする。今日は両足首の捻挫を隠し通すという一世一代の大芝居が待っている。怪我がばれなかったら一生俳優の仕事を続けようと龍三は自分に賭けをした。


 その日の撮影の事は殆ど記憶にない。気が付いたら帰りの電車の中だった。帰宅したが両足首の感覚がなかった。手当てをするのが怖かったが思い切って包帯を解いた。皮膚の内出血が更に広がっていた。氷を入れたバケツに足を突っ込んで、痛みを忘れるために台本の世界に飛び込んだが、20分程で今度は冷氷の痛さに我慢できなくなって思わずバケツから足を抜いた。そんな繰り返しが一ヶ月程続いたある日、龍三にとって親孝行できる作品となる台本と出会った。その作品が後日、劇場公開になったのだ。

 かつて龍三は、劇場に母親を連れて行って、自分の出演する映画を見せたいと思っていた。当時60代半ばに老いて、住み慣れた故郷を離れ、末息子を追って上京して来た母親は、根っからの田舎者で趣味も何もない上、乗り物酔いがひどいので何処にも連れて行けなかった。そんな母親を、上演している映画館までどうやって連れて行こうかと龍三は考えた。電車で乗り継いでも家から一時間半は掛かる。乗り物酔いで映画鑑賞どころではないだろう。結局、早朝に自宅を出て映画館までの最短距離を歩く事になった。映画館に到着したのは結局昼だった。出演者たちは先に着いて予約した指定席で待っていた。龍三の母親は彼らに対し、頭が地べたに着くほどお辞儀をした。疲れてるだろうに…と思った。無謀な計画だったかもしれない…などと後悔も過ぎったが、龍三の母親は最後まで食い入るように見入っていた。ありがとう母さん、親孝行をさせてくれて…と龍三は心の底から感謝した。映画を見終わって食事でもとなるところだが、出演者たちとは映画館で別れた。母親は日暮れ前に家に着きたいから、食事は帰ってからにしたいという。帰途は結構な車の量だったので、出来るだけ本道から一本それた道を選んだ。あと半分ほどまで来た所で少し休もうかという事になった。田舎育ちなので結構足腰は強いなと思ったが、やはり寄る年波には勝てないなと、丁度小さな公園があったので、二人で空いている古びた木のベンチに座って一息つく事にした。母親は何やら持っていた小さな袋からごそごそと取り出して龍三に渡した。


「腹減ったべ…」


 銀紙に包んだ “おにぎり ”だった。龍三の母親のおにぎりは、海苔で厳重に包んだ爆弾のようなおにぎりだ。小学校の頃、遠足になるとリュックの中には必ずこの爆弾おにぎりが入っていた。噛んでも包んだ海苔で中々ちぎれないくらいの頑丈なおにぎりで龍三は育った。懐かしいおにぎりだった。父親の他界した頃の母親はまだ50代だった。しかし、再婚せずに棘の道を選んだ。龍三はその事に感謝している。公園での爆弾おにぎりは冷たくなっていたが、暖かかった。


「おにぎり、固ぐなったな」


 龍三は幼い頃を思い出して必死に堪えているものがあったので、軽く微笑むのがやっとだった。爆弾おにぎりを食べ終わる頃、散歩のお年寄りが公園に入って来た。


「さ、行ぐべ。暗ぐなるがら」


 二人はまた歩き出した。


 結婚した龍三の第一子が生まれたのは母親が他界した二年後だった。少しでも収入を安定させようと俳優業を一時離れてイベント司会の仕事を始めた。それまで芸能界が社会の第一線だと思っていたのは龍三の大きな勘違いだった。龍三が司会業に入ったのは、丁度時代が日本に外資系のPCが参入する頃で、パーティの大掛かりなデモンストレーションが徐々に縮小されることで円高の影響を肌で感じたり、証券会社の初の倒産も、度重なるスピーチの予定者変更などで、報道される数ヶ月前に知ることができた。まさかパーティ司会業で社会情勢の風を第一線で察知する事が出来るとは思ってもみなかった。第一線の企業戦士の婚のほんの一ページに携わるちっぽけな自分は一体世の中のどの位置にいるのだろうと思った。芸能界という仮想世界で生きている自分が実に軽い存在に思えて仕方がなかった。第一子の娘はそんな父親の背中でも、誇らしげに、嬉しそうに見ている。娘の小学校三年生の頃だったか…


「お父さん、私、100点取れるかもしれない気がする」

「全部答を書けたんだね!」

「全部は書けなかった」

「・・・・・」


 その会話は龍三にとってその後の人生哲学となった。第二子の息子が3歳の頃だったか…就寝時、妻は化粧を落とすタイミングで、龍三の寝床に入って来た息子に声を掛けた。


「お母さんは顔を落としてから寝るから、先にお父さんとねんねしてね」

「うん、おやすみなさい」


 朝になって龍三の息子はむっくり起き上がった。


「お母さん、お顔拾った?」

「・・・・・」


 一晩、心配していたのかと、龍三は息子がいとおしくなった。この言葉も龍三にとってその後の人生哲学となった。一心さは強い。迷った時は童心に帰ることだ。童心と稚拙は違う。稚拙に無駄な時間を費やすべきではない。親になって龍三はそう思うようになった。


 龍三は書いた脚本を幼い我が子に読んで聞かせた。彼らが興味を示さない部分は、本番での観客の反応も悪かったからだ。子供たちが好反応をするまで書き直した。執筆作業をしていると、キーボードと腕の隙間から顔を出し、抱っこしたり、肩に乗ったりしながら、お話できた?と催促された。本舞台の時も公開稽古の時も必ず妻と一緒に来てくれた。 子供は親の背中を見て育つというがそれは真実だった。親がしっかり手を掛けなければ、子供の成長に重大な被害が及ぶ可能性がある。親を恨む人の生き様には、何かが欠落している事が多い。親は子供のSOSに出来るだけ早く気付かなければならない。そうでなければ、社会を歪曲した視点でしか見れなくなり、第三者に対しても歪曲した形で牙が向けられて、豪い迷惑な怪物が育つ事になる。


 突然、龍三は四国公演でキャラバンのドアに指を挟んだ。びっくりして飛び上がった。内陸線が揺れて夢から覚めた。いつの間にか居眠りをしてしまったようだ。指を挟んだ夢の続きは知っていた。あの時は、応急処置の止血だけして舞台に立ち、公演が終わった夜に宿の近くの病院で数針縫った。帰京してしばらくは指の神経が麻痺したままだったが、ある日、彼女とのデイトの時に急に神経が通ったことがあった。その彼女が今の龍三の妻である。窓外に目をやると、雪に覆われた両親の墓地が見えて来た。龍三は何気に呟いた。


「着いたよ…ただいま」


 自分がどんな終わり方をするかなんて分からないが、生きてる間はあの両親の眠る墓が本当の自分の帰るべき実家であり、いつか無事に “最後のただいま ”を言ってあのお墓に入れたら、それが自分にとって一番の幸せなんだろうなと龍三は思った。


〈最終話「コレヨリノチノ世ニ生マレテ良イ音ヲキケ」につづく〉

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る