激情

 居眠りしているディアナをそのままにし、ステファニーはフラフラとした足取りで部屋を出る。

静かに扉を閉めたのは、ディアナへの気遣いではない。

”彼女”から見て、ディアナは無関係で問い質す人物ではない。と、いう認識なだけである。

状況が変われば叩き起こすだろうが、今のところはするまでもない。それだけの理由だ。


 今のステファニーの精神は完全にあの女性が成り代わっており、思考も動作も完全に少女のそれではなかった。

ゆっくりと階段を降りると、丁度よく地下から上がってきたアンソニーと鉢合わせた。手にはスコップを持ち、首にはタオルを掛けた姿だ。

何も知らないアンソニーは、高熱に苦しむステファニーがフラフラと階段を降りてきたように見える。

実際はそうではないと知らずに。

「ステフ、ベッドから出てきたらダメじゃないか!」

アンソニーはスコップを放り投げて駆け寄る。

手を引いて部屋に戻そうとする手を払いのけ、ステファニーは語った。


「お前は、のだろう。ならば私に構うな」


その声を聞き、アンソニーの顔は固まった。

ステファニーから発せられた声は、聞き慣れたものではなかったのだ。

あの夜に聞いた悍ましい声、そのものだった。

そんな反応を面白がって、更に言葉を続ける。


「大切な”妹”を護れなかったなぁ、あれほど息巻いていたのに。哀れよなぁ」


 ステファニーの可愛らしい顔が、ニタニタと気味の悪い笑みを浮かべている。

それを見てわなわなと震え、怒りを露わにした。

「何故だ、何故ステフに憑いた!」

眉間に皺を寄せ、普段のアンソニーからは考えられない程の怒りに満ちた顔だ。

そのままステファニーの襟首を掴みかかりそうな勢いだったが、自制出来ているらしく手は伸ばさずに拳を固めていた。

「はは、この小娘の体であればお前は何も邪魔しないだろう?出来ないのだろう?

 そんな事をすれば、私の可愛い息子が怒るからなぁ」

挑発するように笑い顔を近づけ、卑しい表情とは反対に大きな瞳を爛々と輝かせていた。

そして悠々と階段を降り、玄関の前で立ち止まる。

不審に思ったアンソニーは尋ねた。

「どうした、それ以上動けないのか?」

いつもならステファニーに対してする事のない表情と口振り、彼女のがステファニーではないと分かってこの態度だ。

それを面白がってか、少しだけ笑ってからは無表情になった。

「よくもまぁ、減らず口を……。この体がどれほどの体力を持っているか知っているだろう?」

そしてまた語る。


「ここで待っているのだ。我が恩讐を遂げる時を」


 そう言って扉をじっと見つめた。

普段のステファニーでは考えられない姿勢の良さ、声の鋭さ、豊富な語彙に驚きを隠せないアンソニー。

何時の日にかステファニーがこんな成長を遂げるのだろうか、そんな事も考えていた。

 とにかくステファニーがステファニーになるまで、彼女がステファニーから離れるまで、アンソニーはその場から離れられないと決めた。


 暫くして、食堂の方からスザンナが出てきて、玄関に棒立ちのステファニーを見てひどく驚いた。

「ステファニー様!?お身体は大丈夫なのですか?」

ステファニーの横に膝をつき、熱を測ろうと額に手を当てようとしたが、スザンナの手はアンソニーと同様に弾かれた。

「寄るな、スザンナよ。お前はのだろう」

その声を聞いたスザンナは恐怖に顔を崩壊させた。

「え、う、嘘。うそでしょ。そんな、ありえない!!」

と、言いながら後ずさりした。

屋敷の住人に心配させないよう取り繕っていた顔は崩れ、そこには汗と涙で顔を濡らし、目の焦点も口を閉じる事も忘れたようだ。

ただあの夜に聞いた声を再び聞いただけなのに。

「嘘。ス、ステファ、ァ、ニーさ、様に。う、ああ……ぁぁあああぁああああぁ!!」

手で顔を覆い、指の隙間から漏れる絶望の声から、スザンナの表情も心境も全て伝わった。

崩れた侍女の姿を見て”ステファニー”は高らかに笑い、その声を聞いて更にスザンナは発狂する。

この状況でさえ、アンソニーはスザンナに同情すらせずに、ステファニーからあの”悪霊”を引き剥がす方法を考え続けていた。


 当然ながら、玄関ホールでこんな騒ぎがあれば執事が飛んで来る。

使いに出したスザンナが何時まで待っても戻らない事もあり、食堂から駆け足でマットが飛び出してきた。

しかし、足元にしゃがみ込んで泣き叫ぶスザンナを見て、足をピタリと止めた。

階段ではこれを静観するアンソニー。そして、ただ真っ直ぐと玄関の扉を見続けるステファニー。

 この状況で混乱の源となっているのは、どう見てもステファニーだ。

マットはステファニーの横に恭しくしゃがみ、優しく声を掛ける。

「ステファニー様。お身体はもう大丈夫なのですか?」

と、声を掛けられたステファニーはにっこりと笑い、こう答えた。

「平気よ!ありがとう、マット」

それはステファニーによるものだった。

この変貌の仕方にアンソニーとスザンナは驚きを隠せなかった。

先程までの言動を知らないマットは、元気になったステファニーが何かいたずらでもしたのだろう。と、だけ思う事にした。

「左様でございますか、それは良かったです」

それだけ言って、また厨房へ戻って行った。

マットの後ろ姿を笑顔で見送った後、くるりとアンソニーの方を向いた。

「見てたでしょう、。私、ちゃんとここにいるのよ」

表情も発せられる声も、ステファニーのものだ。

思いも寄らない実情でアンソニーは驚き、それと同時に後悔した。

彼が謝罪の言葉を口にする前に、ステファニーは更に話す。

「あのね、私ね、夢の中でおばあちゃんとお話したのよ。会いたい人がいるから、私に手伝ってほしいって。

 会わせてくれないと凄く困るっていうの。だから、私はちょっとだけお休みするのよ」

そう言って無邪気に笑う姿は、アンソニーの胸を深く苦しめた。


≪護らなくてはいけない人が、護られる事を放棄した。≫


例え完璧な策を練っていたとしても、そうなった人間を護れはしないのだと痛いほど身に染みたのだ。

胸を押さえ、熱くなる眼を懸命に堪えながらアンソニーは階段にしゃがみ込んだ。

その姿を見る間もなく、ステファニーの面影は消えた。

あの”問ひかけ”へと切り替わったのだろう。可愛らしい顔は消え、邪悪な微笑みへと変わった。


「本当に、純粋無垢で無知な娘よな。利用している私が言うのは妙だが、憐れに思う。

 尤も、今は”私”が話している時はあの子には見えておらぬから、先の失言の事は気にするな」


と、慰めるように言うものの、それは見せかけだけの同情だった。

慈悲などない、残忍な顔がそこにはあった。


「しかし、これで分かっただろう?お前は所詮、この小娘の肉壁以外にすらなり得ないのだと。

 この世の全てから小娘を護る事はお前には不可能だという事を!」


 そして、先程の声でまた頭を覆い、絞り出す様な嗚咽を漏らすスザンナに向き直った。

その顔には表情などなく、光も射さない冷酷な瞳がすべてを物語っていた。


コツ、コツ。


と、一歩ずつ進む毎にスザンナは自分の体を強く抱き、小さく震えていた。

哀れな侍女は、こうして震える事しか出来ないのだ。

ステファニーが床に縮こまるスザンナに向かって声を掛けようとした瞬間。

玄関の扉が勢いよく開いた。

ダスティンが扉を開け、後ろからヒューに抱えられて老人が連れて来られたのだ。

その姿にステファニーは、にんまりと笑った。

その瞳に映るのは父ではなく、憎き復讐相手だった事は誰も知らない。


 ステファニーは笑ったまま、ダスティンを迎えた。

「パパ、おかえりなさい!」

そう言ってぴょんと抱き着いた。

それに少しだけ穏やかになったダスティンはステファニーの頭を撫で、優しい声で語りかける。

「ただいま、ステフ。熱は良くなったようだね」

「えぇ、もちろん。そのお爺さんは誰?」

「あぁ、彼はね、パパに会いに来たんだよ」

と、ダスティンが言ったのを聞き、ステファニーは表情を無くした。

「何を言ってるの?このお爺さんはおばあちゃんに会いに来たんだよ?」

そんな愛娘を見て、驚かないほど鈍い親ではない。

そこで、中の様子を見たヒューが呟いた。

「おいおい、こりゃあ一体どうなってる?」

 ヒューに言われてようやく辺りを見ると、食堂前の扉でうずくまって震えるスザンナ、階段に座り込み頭を抱えるアンソニー。

ステファニーの世話係として雇っていた2人に異常が見られるこの状況、いくら親バカと言えども原因はステファニーだと気づけた。

 ダスティンは目線を娘に合わせ、優しい口調で話しかける。

「ステファニー、これは一体どうしたんだい?いじわるしちゃダメだろう?」

それに対して、ステファニーはまた笑い出した。

その声はステファニーのものであり、あの”声”のものでもあった。

「おかしいわ、全部知ってるくせに。だからその男を連れて来たくせに」

嘲笑うように言う娘の言葉も、その顔もダスティンには理解出来なかった。

「ステフ、一体―――?」

と言いかけたが、ステファニーが声を被せて揉み消した。

その声は完全に”母”なる者の声だった。


「ダスティン、お前には分かっている筈だ。その男をこの母に突き出す為に連れてきたのだと」


 まるで催眠を掛けるように語るその姿は、この場にいる誰も見た事がないステファニーの姿だった。

しかし、縛られた老人は皺枯れた声を上げる。


「お告げの声だ!あの小娘こそがお告げの声の主なのだ!!」


普通ならその言葉に耳を疑う筈なのだが、目の前のステファニーを見ていると、どうしても冗談には聞こえないのだ。

ダスティンは導かれるまま、ステファニーが望む言葉を口にする。


「そうだよ、お母様。この男はお母様に捧げる為に連れてきたんだ」


と、言いながら老人をステファニーの前に転がす。

抵抗する気もない老人は、されるがままに床にその身を打ち付ける。

それを見たステファニーはほくそ笑んだ。

「良い子、良い子ね」

そして老人の腹を蹴飛ばした。

ガハッ、という声と共に唾が床に撒かれた。

それから数回、テンポ良く老人の骨と皮しかない体を蹴った。

あまりにも突拍子もない行動に、ヒューは驚きの声を上げる。

「ステフ!何故蹴ったんだ!?彼は何もしてないだろう!!」

その声を聞いたステファニーは、ピタリと蹴るのをやめてヒューの方を見た。

「何故?どうしてあなたに彼が無実だと言い切れるの?」

憐れむような瞳でヒューをじっと睨み、また勢いよく蹴飛ばした。

ここでようやく彼女がステファニーではない、あの少女ではないと分かったヒューはその場を離れた。

その為、彼はこの後に起こる惨劇を見ずに済んだ。


 未だに催眠が掛かったままなのか、ステファニーが老人を踏みつけるのをただ茫然と眺めていた。

アンソニーもスザンナも、気が抜けたように座って項垂れるしかなかった。

玄関ホールにはステファニーの笑い声と老人が呻く声。そして飛び散る液体と何かが壊れる音が鳴るだけだった。

 ふと思い立ったのか、ステファニーは蹴るのを止めて老人にしゃがんだ。

ほとんど虫の息に近いその老人の顔は、目から溢れる涙と口から垂れる血混じりの唾液でぐちゃぐちゃになっていた。

その様子を暫くじっと眺め、そして言葉を発した。

「お前、どうやって死にたい?」

その言葉に老人は反応し、バタバタともがき始めた。

まるで羽を捥がれた羽虫の様で、その姿はステファニーにとって”滑稽”だったのだろう。くくく、と短く笑い、老人の胸ぐらを掴んでまた問い質す。

今度は違う聞き方で。

「どんな死に方をしたくない?」

そして、息も絶え絶えになりながら老人は返す。

「あ、あなた、に。こ、殺される、う。こ、と」

それからこう続ける。

「わ、私は……あな、たの。お父。さ、様に殺、ろされ……ゴフッ」

と、言いながら細い腕をステファニーに伸ばす。


 この老人は知らないのだ。

目の前にいるのが、若き頃の自分が殺めた麗人である事。

その快感を忘れられずにまた殺めた娘の母である事。

自分を復讐するのだと思っていた男は微塵も思っておらず、警察に突き出す為にここまで連れてきた事。

そして、自分を蹴りつける少女の中にいる復讐鬼こそが、自分に”お告げ”したのだという事も。


 老人の命乞いを続ける手を足で蹴散らし、ステファニーは歩きだした。

その先には、アンソニーが放り捨てたスコップが。


この時に”問ひかけ”はまず老人に尋ねた。


「どうやって死にたいか」


それに対して老人は≪あなたに殺される事≫と答えた。


次に”問ひかけ”はこう尋ねた。


「どんな死に方をしたくないか」


それに老人は≪あなたのお父様に殺され……≫と曖昧な事を言った。


しかし、この場合の回答としては≪殺されたくない≫と答えるのが適切だろう。

それによって、この老人の末路は老人によって決められた。


     ≪私≫が≪わたし≫の手を汚して終わらせるのだ。


 小さな手でスコップを握り、ガリガリと床に引き摺りながら運ぶ。

その音は身動きの取れない老人を怖がらせ、絶望させるのには十分すぎるものだった。

ニタニタと声もなく笑う少女は、まさに”鬼”の様な顔をしていた。

爛々と輝く瞳には、間もなく命が終わるのを待つしか出来ない、哀れで無様な人間しか映っていない。 

 己の身を焦がす程の狂気を、可愛い我が子の未来を踏み躙った老人にぶつける為、重いスコップを固く握っている。

老人の目の前で立ち止まり、歪んだ顔を覗き込む。

まるで蟻の巣を見つめる子供のように。

そして一度、老人に向かって微笑んだと思えば、冷たい表情へと変わってこう告げた。


「それじゃあ、さようなら」


と、言い切った後、ステファニーは立ち上がってスコップを振り下ろした。

土を掘る部分の全面を使って顔面を強打させたのだ。


脆い老人の骨など簡単に砕け、最初の一撃では呻き声を上げられた。


しかし、その一撃から休む間もなく次なる攻撃も。


そしてまた一撃。


 数を重ねる度に老人から出る声は小さくなっていき、スコップが真っ赤に変わる頃には何も言わなくなっていた。

ただただ、ひき肉を潰す様な音が玄関ホールに響くだけとなった。

 ふと手を止めた時には、ステファニーの白い寝間着は赤く穢れた血を吸って重くなっていた。

それを見て満足気に笑うと、ダスティンの方を見て言った。

「あぁ、愛しき我が子!これで私の恩讐の日々は報われた!」

両手を高い天井に掲げ、楽しそうに笑う。

スコップが落ち、カランカラン、という音と笑い声とが反響する。

その姿はまるで悪魔のようだったが、何故かこの時のダスティンにはとても美しく見えた。

何も言えぬまま、ステファニーの笑う姿を見ているだけだったのだ。

そして放心しているアンソニーとスザンナに声を掛ける。

「残念だったなぁ、青年!そこに蹲る憐れな娘も!

 お前たちは無垢な少女が手を汚すのを止められなかった!

 それがお前たちの罪なのだと思い知れ!!そして残りの人生で悔いろ!」

と、残忍な言葉を投げつけた。


 それで満足したのか、表情がころりと変わった。

凶悪な顔はそこにはなく、白い寝間着が似合うただの少女がそこにはいた。

何も知らない、最期に見た光景は優しい兄に笑いかけた瞬間。

そこから突然、非道な現実へ引き戻されたのだ。

 ステファニーは自分の手に、服に、べっとりと付けられた血を見て「ヒィッ」と小さく悲鳴を上げる。

そして後ろに下がろうとする前に、ダスティンに抱きしめられる。

「いいかい?今見たものは忘れるんだ」

ステファニーの頭を優しく撫でながら、更に言葉を続けた。

「これはステフのせいじゃないんだよ、ステフは悪くないんだよ」

その声は甘く、そして呪いじみていた。


 ディアナは目が覚めると寝台にステファニーがいなかったので、2階から慌てて駆けてきた。当然、玄関ホールの惨状に驚いた。

転がる血まみれのぼろ布と、泣きじゃくる娘と窘める夫、階段と床に座り込む2人も含めて、何がどうしたか分からなかった。

しかし、愛娘が泣いているのだ。そこへ一目散に駆け寄った。

「あなた、何がどうしたの?」

しゃくりを上げる娘を撫でながら、ディアナに言った。

「ステフは悪くない、全ては悪霊が悪いんだよ」

ディアナは事の顛末を何も知らないが、ダスティンのいう事をただ信じた。

「あぁ、なんてこと。可哀そうなステフ」

と、泣き出しそうな顔で言いながら、ステフを優しく抱きかかえた。

そしてダスティンはディアナの肩を引き寄せ、こう言った。


「帰ろう、私たちの家へ」


それにディアナはこくりと頷いた。

ダスティンは愛する妻子を車に乗せて、放心状態からやっと覚醒したアンソニーと従者たちに命じた。

「あの死体を片付けなさい」

その顔は厳格な主人たる冷静さがあり、瞳には先程まで妻子に向けていたとは思えない冷たさがあった。


 こうして一家は逃げるように屋敷を去っていった。

あの”問ひかけ”たちも、復讐を遂げた為かいつの間にか消えていた。

それによって、屋敷には穏やかな時がまた訪れる。その筈だった。

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