二章⑩ 敗北


 突如、頭上から落ちる甘ったるい猫なで声。大人達は何事かとざわついたが、フロストは呼吸さえ出来なくなった。

 タイミングを図ったかのように、キュリが宙から舞い降りる。たおやかな腕には、両手首を背中で縛られたミカが荷物のように脇に抱えられていた。


「ちょっと、ちょっとぉお!! 離してってば、離しなさいよおお!」

「全く、餌を待つ小鳥のようにやかましい小娘だこと。ほら、貴方もご覧なさい……貴方の言っていた戦士の坊やの姿を。綺麗よフロスト……本当に、紅が良く似合うわ」


 見惚れてしまいますわ。うっとりと、キュリが笑う。フロストの名前が出た途端、ミカの動きがぴたりと大人しくなる。

 そして、おずおずと向けられる視線。いつも見上げられている筈の瞳から見下ろされて。今にも泣き出しそうな顔で名前を呼ばれて。

 屈辱だった。でもそれ以上に、情けなかった。


「ねぇ、フロスト。この娘……貴方の幼なじみなのでしょう? 生意気だから、貴方の目の前で殺してあげようと思ったのですが……そんな愛らしい姿を見たら、もっともっと虐めて差し上げたくなったわ」


 くすり。美しい氷の微笑み。キュリはミカを立たせ、肩を前から押さえ込むと、彼女のこめかみに金色の銃口を突き付けた。

 目の前の景色に戦慄する。一際大きな悲鳴が上がり、トニがミカとキュリを交互に見て、叫んだ。


「ミカ!! ……あ、あんた何者だ!? どうしてこんなことをする!」

「わたくしはキュリ。そこに居るフロストにたくさんの仲間を殺された、虚無ですわ」

「虚無……う、嘘だろ?」


 こんな虚無が居るのか。村人達が思い思いの言葉を発し、ついにはキュリの持つ拳銃に視線が集まる。彼等に見分けがつくかどうかはわからないが、金色のリヴォルヴァーなどそれだけで目立つ上に珍しい品だ。加えて、フロストが自らぶちまけた事実。

 あれはヒョウの銃であり、それが今にもミカの頭を撃ち抜こうとしているのだ。悪夢のようであるが、これは紛れもなく現実である。

 フロストは恐怖した。キュリに対する怒りよりも、ミカがヒョウの銃で殺されることが何よりも恐くなったのだ。ブランシュは撃てる状態ではない。ネラはまだ背中のホルスターに収めてあるが、それを抜く気力は残っていない。


「最初はまず、戦士から片付ける予定でしたの。戦士を無くし、恐怖に震える貴方達を一人ずつ殺して差し上げようと思っていたのですが……フロストがあまりに可愛らしいので。では、こうしましょうか」


 押し付けられる銃口に、ミカが小さく呻く。


「わたくしと、この方達の前で跪きなさい。そして虚無に謝罪し、わたくしに許しを請うの」

「なっ……そんな」

「ふふふ……あはははは! 貴方達の希望であり、わたくし達を散々いたぶってくれた戦士が虚無に屈する姿。如何です? 滑稽でしょう!?」


 キュリの哄笑が、フロストを更なる窮地へと追い込む。村の笑い者になるどころの話ではない。戦士とは、常に虚無にとって恐怖の対象でなければならない。一度でも屈した姿を見せれば、弱みにつけ込まれ虚無にとって格好の餌となる。

 もう二度と、戦士として戦うことは叶わない。ヒョウの銃を奪い返すなんてもってのほか。下手をすれば、このまま最悪の形で命を落とすことになるかもしれない。

 それでも、ミカの命と天秤にかけるまでもない。


「……わかった」


 大人達が驚いたようにフロストを見る。突き刺さる視線が痛い。こんな屈辱を受けるくらいなら、今すぐにネラを抜いて自分の頭をブチ抜いた方がずっとマシだ。でも、それは逃げでしかない。

 ならば、せめてミカだけでも助けたい。フロストが覚悟を決め、望み通り跪いてやろうかと地面に手をついた。でも、フロストに出来たのはそこまでだった。

 突如、キュリがぎゃっと短い悲鳴を上げる。


「くっ、この……小娘!!」

「きゃああ!」


 驚いて見てみれば、ミカが自分を押さえるキュリの腕に噛み付いていた。不意の痛撃に美貌を歪め、ミカを放る。腕を縛られているからか、まともな受け身もとれずに倒れ込んだにも関わらず、ミカはしてやったりの顔でにやりと笑う。

 力一杯に食い込んだ歯は、黒子一つ無かった真珠の肌に見事な歯形を残した。穿たれた肌に、キュリが更に悲鳴じみた声を上げる。


「いやあぁあ!! わっ、わたくしの肌が……よくも、よくもやってくれたわねぇ!?」

「ふーんだ! フロストとアンナさんにひどいケガさせて、村をメチャクチャにしてくれたお返しだもん。言っておくけど、フロストはあんたなんかに負けたりしないんだから!!」


 べぇっと舌を出して、挑発するミカ。大切な身体を傷付けられて激昂するキュリを前に、少しも臆する素振りは無い。


「フロストはこの村一番の戦士で、あんたなんかよりずっとずっと強いんだからね! ケガさえしてなければ、あんたなんかとっくにけちょんけちょんにされてるんだから!!」

「ふんっ、何も知らない小娘が何を偉そうに――」

「あんたこそ何も知らないくせに! ていうか、そもそもその姿何なの!? 化粧は濃いし、露出多すぎて逆に下品だから。セクシー路線狙ってるんだか何なんだか知らないけど、趣味悪い。はっきり言ってドン引きよ!」

「なっ!?」

「ていうか、あんたが持ってるその銃はヒョウさんの銃でしょう!? あんたなんかが持ってて良いものじゃないの、だからとっとと返しなさいよこの――」


 オバサン!! ぜぇぜぇと息を荒げながら、それでも満足げにミカが鼻を鳴らす。一方的な言葉の弾幕に、フロストは呆然とした。

 つくづく、女とは恐い生き物だ。重々しい沈黙が場を制す。不安そうに辺りを見回す村人達。やがて、キュリが静かに口を開いた。


「……うふふ。このわたくしが、オバサン? 悪趣味? 初めて言われましたわ、そんな言葉。トナカイの小娘ごときが、わたくしを侮辱するなんて。……上等じゃないの、このクソガキが!!」


 キュリがミカに銃を向け、蓮根型の弾倉をかちかちと回す。マズい。ミカは背中で両腕を拘束されていて、上手く立ち上がることが出来ない。

 一か八か。フロストは背中に手を伸ばし、ネラを引き抜き撃つ。だが、ブレる視界と力の入らない腕では、思うように撃つことなんて出来なかった。

 狙いを大きく外れ、キュリの足元を掠める弾丸を軽々と避け、浮遊したままフロストを睨み付ける。


「フロスト、わたくしから貴方に贈り物を差し上げるわ。そしてこの小娘の死という絶望に、打ちひしがれる貴方を見せてちょうだい!!」

「や、やめろ――」


 銃声が、フロストの声を掻き消した。大人達がミカを助けようと駆け寄るも、轟く爆音に怯え惑い、立ち止まってしまう。

 旋回する弾丸が地面に突き刺さり、衝撃により細かく分裂した弾丸が辺りに飛び散る。獲物の骨肉を切り刻む散弾が、縦横無尽に人々を襲う。


「いっ、いやあぁあ!」


 肩を強ばらせ、ぎゅっと目を瞑るミカ。逃げることも許されない彼女に、数発の弾丸が顔面を食い潰さんと飛びかかる。


「――ミカ!!」


 立ち尽くす大人達を押し退けて、フロストがミカを呼ぶ。残された気力で立ち上がり、声を頼りに手を伸ばす。

 必死だった。かろうじて感覚の残る左手で、細い腕を探し出して。そのまま掴み、自分の元に引き寄せる。

 一発の弾丸が、ミカの黒髪を数本攫うだけで、彼女にそれ以上の怪我を負わすことは無かった。

 バランスを崩して、倒れ込むミカをなんとか受け止め支える。


「フロスト!!」


 驚きと、どことなく嬉しそうな表情でミカがフロストを見上げる。

 しかし、そこまでだった。


「ッ――――」


 まるで糸が切れた操り人形のように、フロストはその場に崩れ落ちた。

 どうやら、ここまでらしい。


「あれ? フロスト……フロスト!?」


 ミカがどれだけ呼ぼうとも、フロストはもう指先すらも動かせなかった。右腕からは絶えず血が流れ続けていて、痛みすらも感じることが出来ない。

 フロストが勝負に出た、一か八かの賭け。結果は、勝ちとは言えないが決して負けたとも思えないものだった。


「くっ……一体、どこまでわたくしをコケにしたら気が済みますの? 貴方達は、本当に馬鹿な生き物ですね」


 キュリが脇腹を押さえながら、苦々しく言った。ドレスをしとどに濡らす、真っ黒な液体。フロストは一発も撃っていない。撃てる状況ではないからだ。

 普段のフロストなら、考えられない行動だった。でも、勝算があるとすればこれだけだったのだ。ネラを引き抜いた時、キュリに命中させられる可能性などゼロに近い。そんなことは百も承知で、それでもフロストはあえて撃った。信じていたから。

 自分の師であるあの女が、自慢の彼氏で此方を見ていることを。此方からは見えないが、スコープを通した真っ直ぐな視線は間違いではなかった。

 音の無い弾丸が、キュリの横腹を削ぎ落とした。闇に隠れた暗殺の一撃。結果としては痛手を負わせられたようだが、致命傷にはならなかった。ミカが言っていたように、アンナも何かしらの怪我を負ったのだろうか。


「くう……出来るなら、今すぐこの村を焼き払ってしまいたい。でも、全然それでは足りませんわ。それに、スイの仇を取るには……もっと、もっと惨たらしいシナリオが必要よ、そうでしょう?」


 ねえ、フロスト。キュリが言った。


「そのままくたばられては、何の面白みもありませんわ。それにこの銃、どうやら貴方にとって思い入れがあるようですね。フロスト、三日間だけ貴方に時間を差し上げます。その間は、この村に虚無を入れないようにしてあげましょう。そして今から三日後の夜、一人で南の雪原までいらっしゃい」

「よ、夜に一人でだなんて!?」

「外野は黙りなさい。……そこで、わたくしと勝負をしましょう? 貴方が勝てば、この銃を返して差し上げます。でも、もしわたくしが勝ったら……うふふ、今は言わないでおきますわね」


 真っ赤な唇を指先で撫でながら、キュリが嗤う。


「言っておきますけど、軍を呼ぼうなんて考えないことがよろしくてよ? そんなことをしたら、貴方達全員、わたくしの可愛い子達の餌にして差し上げますから。大丈夫よ、だってこの村の戦士は優秀なのでしょう? きゃははは! フロストの骸を見てもなお、そんな強がりが言えるのかしら、楽しみだわ」


 ふわりと宙に浮きあがり、闇に溶け込むようにしてキュリの姿が消え去った。辺りに広がる、不気味な沈黙。


 最悪。胸中だけで悪態を吐いて、フロストはそのまま意識を手放した。

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