二章⑧ 犠牲

 一体、どれだけの虚無を撃ち殺したのか。空になった弾倉を捨て、新しいものに取り替える。胃からせり上がる酸と鉄錆の味が気持ち悪い。

 赤黒い唾を吐き捨て、思わず舌打ちする。


「くそ……あの女、どこに行きやがった!?」


 突然視界が漆黒に支配されたかと思うと、夥しい量の虚無がフロストを襲った。村中の明かりが消えたことにより、虚無が興奮したのだろう。

 そのどれもが雑魚であったが、視界を奪われた状態では流石に苦戦した。身体中が痛い。どこを怪我しているのかもうわからないが、手足が動く程度には無事であるらしいことは幸いだった。だが、いつの間にかキュリを見失ってしまった。

 暗闇に慣れた目で辺りを見渡し、スノーモービルの元まで歩み寄り手探りでライトを点ける。足元には一面を覆う虚無の死骸。前方を照らす明かりの中、きらりと光る何かを雪と亡骸の中から見つけた。


「ああ……あった」


 近寄り、足で邪魔な塊を退けてブランシュを拾い上げる。威力と共に反動も大きいブランシュを撃てる程、右腕の感覚は戻っていない。それでも、フロストは愛銃をホルスターに収めた。

 肩から落ちるマフラーを払い、フロストは息を吐いた。少し疲れた。だが、このまま休むことなど出来ない。キュリを探さなければ。

 一体どこに行ったのだろうか。


「逃げたのか……ふざけやがって」


 絶対に許さない。キュリの持っていた金色のリヴォルヴァーは、間違いなくヒョウのものだ。虚無が持っていていいものではない。

 必ず取り戻す。感覚の鈍い右手を握り締め、誓う。その時、ふと視界の端で光が揺れた。


「……何だ?」


 スノーモービルのライトとは随分違う、ゆらゆらと不安定に踊る紅い光。それはまるで生き物のように大きく、高く昇っていく。僅かに鼻につくのは、何かが焦げたような辛い臭い。


「――ッ、やられた!!」


 スノーモービルに飛び乗り、フロストは急ぎ村へ戻る。どうして気が付かなかった。確かに虚無は仲間を殺されたという憎悪と、自分も殺されるかもしれないという危機感からフロストを集中的に襲う。しかし、どうして考えなかった。

 ――雑魚を囮にして、フロストの意識を村から遠ざけることが狙いだったのではないか。そして非力な村人を襲い、あの紅蓮の炎で全てを焼き尽くすことがヤツらの目的であったとしたら?


「くそ……何で気が付かなかった!?」


 屈辱と後悔。虚無に、ではなく自分自身に。気が付けた筈なのに、今更悔いても遅いというのに。自分へのいら立ちに、気が狂いそうだった。

 それでも、その悲鳴は聴こえた。慌ててハンドルを切り、声の主を探す。いや、悲鳴なんか既にそこら中から上がっていた。

 そして、至る所に漆黒の獣が犇めいていた。屋根の上によじ登り、煙突をがりがりと齧る熊。締め切られた扉に体当たりを繰り返す巨大な牛。ひび割れた窓を興味深そうに覗きこむ、双子の猫。まるで悪夢のような景色に、フロストの目が驚愕と絶望に見開かれる。


「なっ、なんだよこれ……なんで――」

「きゃあああぁあ!!」


 騒音を切り裂く女の悲鳴。見れば、フロストの身の丈ほどもあるタコの形をした虚無が、長い脚で少年の足を捕え、自分の方に引き摺りこもうとしていた。少年は村の子供の一人で、濃い茶髪が特徴的なヴィサだった。

 まだ若い母親のエーヴィ・ハハリが必死に我が子のヴィサを取り返そうと手を伸ばすが、それもタコの脚で軽くあしらわれていた。


「やだよお!! たすけて、たすけてよママぁ!」

「やめて!! その子だけは、お願いだからその子だけは返して!」


 エーヴィが懇願するも、虚無はけたけたと不気味に嗤うだけ。そして普通のタコではあり得ない、大きく丸い頭をばっくりと割り開き、唾液で濡れそぼった歯列を覗かせた。その大口なら、子供なんかひと思いに飲みこめるだろう。

 フロストは背中のネラに手を伸ばすが、引き抜くことが出来なかった。ヴィサと虚無の距離が近すぎる。自分の腕を信用していないわけではない。少々距離はあるが、この距離でタコの頭を吹き飛ばす自信はある。

 虚無は泣き叫ぶ獲物に夢中で、まだフロストの様子に気が付いていない。でも、もしも銃を抜いて構える段階で気がつかれたら?

 そして、ヴィサを盾にされたら。先に待つ最悪の未来が、フロストの心に絡みつく。今まで数多の虚無を始末してきたが、こんな状況に陥ったことなんか一度も無い。


「……やるしかねぇか」


 ネラではなく、ブランシュを引き抜くと同時にスノーモービルから飛び降りる。地面を蹴り、天に向けて引き金を絞る。響き渡る爆音に、虚無がフロストの存在に気が付いた。

 自分を捕えようとする腕を避け、ヴィサと虚無の間に身体を割り込ませる。


「フロスト!?」


 エーヴィが驚いた様子でフロストの名前を叫ぶ。止めなさい、と言われた気がするが聞いてやるつもりはない。

 ヴィサに絡まる脚を踏みつけ、動きを止める。痛みに、それとも拘束から逃れようとするだけなのかはわからないが、もがく漆黒の脚は想像以上に力が強い。フロストは振り払われないよう全体重を足にかけ、タコの脚に銃口を押し付けた。


「さっさと、離せ!!」


 判断は正しかった。太く柔軟な脚は、並みの弾丸では歯が立たなかっただろう。でも、ブランシュはオートマチックの中でも最大の威力を誇る。そして零距離ならば、必ず当たる。

 爆裂する脚。タコの悲鳴がフロストに殴りかかる。千切れた脚からヴィサを解放してやると、エーヴィの方へ突き飛ばしてやった。


「ママぁ、ママあぁ!」

「良かった……本当に、良かった」


 わんわんと泣きじゃくる親子。フロストも二人の様子に安堵し、息を吐いた。そこに、隙が出来てしまった。

 漆黒の脚が、今度はフロストの右腕に絡まる。


「ッ、しまった――!!」


 ぶんっ、と空気を切る音。為す術もなくフロストはタコの脚に持ち上げられ、そのまま地面に叩き付けられた。


「ぐっ、ああぁあ!!」


 口中に満ちる、鉄錆の味。背中から打ち付けられたことと、積雪によって多少は抑えられたが、フロストの体力を削ぎ落とすには充分な衝撃だった。


「フロスト、フロスト大丈夫!?」


 我が子を抱き上げながら、エーヴィが叫ぶ。答えてやる余裕は、残念ながら無い。脚はまだ、フロストを捕らえて離そうとしない。

 再び持ち上げられて、ぎょろりとした血色が睨む。恨みに満ちた獣の声。ばっくりと開く口は、まるで満開の花弁のよう。

 カビ臭い息に、呼吸が出来ず激しく咳き込み涙が滲む。それでも考えなくては。これからどうすればいい? どうすれば、自分は虚無を倒せる? ブランシュはこの手にあるが、ネラを抜く隙を見つけられるかはわからない。

 思い付いた方法は、一つだけだった。


「はっ、このタコ野郎……そんなに欲しいなら、くれてやるよ!!」


 引っ張られるがままに、フロストは自らの右腕を虚無の口の中にねじ込んだ。背後から親子二人分の悲鳴が聞こえた。端から見れば、気が触れた行動にしか見えない。

 事実、半分はヤケクソ。そして、残りの半分で賭けに出た。


「ッ――――!!」

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