【書籍版】武姫の後宮物語2 一章

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プロローグ

 ヘレナ・レイルノートはおかしい。


 少なくともヘレナに仕える部屋付き女官、アレクシア・ベルガルザードから見て、それは間違いのない事実だ。

 まずレイルノート侯爵家という、代々宮廷の臣をまとめる役割にある宮中侯を任されている名家の出身でありながら、そこに貴族らしさは欠片もない。下手をすれば一般常識すら欠如しているのではないか、とさえ思えるほどだ。


 まず、普通の令嬢は起き抜けに腕立て伏せなどしない。

 そして、普通の令嬢は続けて腹筋などしない。

 さらに、普通の令嬢はそれを繰り返したりしない。

 だというのに――それを当然のようにやっているのが、ヘレナ・レイルノートという女傑なのだ。

 

「どうした、アレクシア」


「いえ……」


 アレクシアにとって、ヘレナは幼い頃に家に何度か遊びに来てくれたという縁がある。まさか後宮勤めである自分とヘレナが、このように関わるなどとは思いもしなかったけれど。

 アレクシアの兄であるバルトロメイに連れて来られたヘレナは、よく家の庭でバルトロメイと手合わせを行っていた。幼い頃に何度かその姿を見ていたこともあり、強いことには何の疑問も抱かなかった。バルトロメイ・ベルガルザードは大陸でも最強と名高い男であり、そんなバルトロメイとヘレナは互角に戦っていたのだ。

 もっとも、一度も勝った姿は見たことがないけれど。

 だが。

 まさか後宮で、このように腕立て伏せをするのに、アレクシアを背中に乗せるほどの筋力があるとは思わなかったのだ。


「ふんっ、ふんっ」


「……」


 アレクシアは完全に足を浮かせて、全ての体重をヘレナの背中に預けている。

 だというのに腕立て伏せのペースは全く落ちることなく、延々と続けているのだ。アレクシアもその数を数えていたのだが、三百を超えたあたりで面倒になってやめた。体感では既に五百を超えているだろう。

 これほどの筋力を持つなど思いもしなかった。

 もっとも――そうでなければ、当代皇帝ファルマス・ディール=ルクレツィア・ガングレイヴから贈られた、女官五人がかりでようやく運べる大剣など振れないのだろうけれど。


 溜息を吐きながら、アレクシアは眼下で腕立て伏せを続ける主を見る。

 毎日のように鍛練しかしていないということをアレクシアは知っているが、だというのに何故か皇帝ファルマスからは直々に剣を贈られるほど寵愛されており、同じ後宮にいる他の令嬢――『月天姫げつてんき』シャルロッテ・エインズワースや『星天姫せいてんき』マリエル・リヴィエールといった面々には、蛇蝎の如く嫌われているのだ。

 それもこれも全て、ヘレナが周りに勘違いをさせるような言動をするせいだと思うのだけれど。

 

「よし、いいぞ」


「はい」


 ヘレナの言葉と共に、背中から降りる。

 ようやく解放された、という安堵と共に、ソファに座るヘレナを見てからお茶を淹れた。ポットのお湯はまだそれなりに温かいが、そろそろ次を沸かしてこなければいけないだろう、と確認。

 そして、やや温くなったお茶を差し出し、ヘレナがそれを一口飲む。


「ふぅ……やはり鍛練はいいな」


「わたしとしましては、ヘレナ様にはもう少しご令嬢としての自覚を持って欲しいのですが」


「……む?」


 そんなアレクシアの言葉に、ヘレナが首を傾げる。

 そして、唇を尖らせた。


「うーん……だが、私には分からん」


「何がですか?」


「令嬢とは何をするものなのだ?」


「それは……」


 ヘレナの疑問に、思わずアレクシアは言葉に詰まる。

 アレクシアも一応ベルガルザード子爵家の息女である。とはいえ、妾腹であり直系の令嬢というわけではない。だからこそ、最低限の礼儀作法だけ教えを受けてこのように宮廷で働いているのだ。

 しかし言われてみると、アレクシアも普段、令嬢とやらが何をしているのか知らない。


「……何をしているのでしょうね?」


「うむ。分からん」


「お茶を飲まれたり、花を愛でたり……」


「そんな時間があれば、鍛練をする方が自分のためになるだろう」


 ぐうの音も出ない正論である。

 確かに良家の令嬢が何人も集まって、「今日はお花が綺麗ですのね」と言いながらお茶を飲んだから何なのだろう。それなら、その時間で体を鍛えた方が建設的、というのは明らかに正しい。


「……まぁ、一般的なご令嬢の皆様は、基本的により良い家に嫁ぐことを目的としていますから」


「ふむ」


「良家のご令嬢となると、人間関係も大切になります。他家のご令嬢と友誼を結ぶことで、その家からの良縁などを紹介されることもあります。それに、友人が多くいた方がパーティなどに誘われることが多いので、より多い縁を結ぶことができます」


「ふーむ……」


 アレクシアの答えに、ヘレナが眉根を寄せる。

 基本的な貴族令嬢の生き方について答えたつもりだが、ヘレナにはいまいち納得がいっていないらしい。

 何をそれほど疑問に思うことがあるのだろうか。


「だが、アレクシア」


「はい」


「ここは後宮だぞ」


「……」


 後宮。

 それは、皇帝ファルマス・ディール=ルクレツィア・ガングレイヴの側室が集う場所である。つまり、全員がファルマスの妻である、という認識で間違っていない。

 良家に嫁ぐために人間関係を作る必要などないし、パーティに参加する必要もないのだ。


「まぁ……皆様、後宮に入る前にはそういう生活をされていたみたいなので、引き続き行っているのではないでしょうか?」


「ふーむ……分からんな」


「今まで社交界に関わってこなかったヘレナ様ですからね」


「まぁいい。どちらにせよ、私には関係のないことだ」


 ぐいっ、とお茶を飲み干し、ヘレナが立ち上がる。

 そして、今度は壁に立てかけてある、ファルマスから贈られた大剣を手に取った。


「それじゃ、腕立て伏せをしよう」


「……先程までやっていたと思うのですが」


「準備運動には丁度いい負荷だった。今度は負荷を増やしたい」


「……左様ですか」


 腕立て伏せ五百回が丁度いい準備運動という令嬢など、ヘレナ以外に誰もいないだろう。

 そんなヘレナの言葉に呆れながらも、微笑む。

 こういうヘレナだからこそ、アレクシアも付き合いやすいのだ。


「ではアレクシア、これを持ってくれ」


「……はい?」


「持ったら私の背中に乗ってくれ。これでいい負荷になるはずだ」


「……え」


 そんな、型破りな主はそう言って。

 五人がかりでようやく運ぶことのできる大剣を、笑顔で差し出してきた。

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