【07】 氷の微笑 ― Horror Smile ―
流血するヒロタ
午前零時を回って、日付が変わってしばらく。
陰陽師(自称)の神薙に窮地を救われはしたものの、脱出方法が見つかったわけでもなく、新しい打開策が出てくることもなく、夜の闇に落ちる廃病院の最上階で、閉じた防火シャッターで厚く閉ざされた中に閉じこめられたまま、悪戯に時間はすぎていくだけだった。
その殺人鬼は、四年前のここでの犯行で、バラバラにした死体や、磔にした死体の写真を撮影して、大事に保管していたくらいだから、人を殺したり、その様を鑑賞したりするのが大好きな、頭がイカれきった、『ハンニバル』のレクター教授と同類の、最低最悪なサイコ野郎。
そんなやつだから、ボクたちをじわじわとなぶり殺そうと、どんな狂ったやり方をとろうとするか、分かったもんじゃない。
さっきボクたちを襲おうとした野犬も、その殺人鬼が送りこんだのかもしれないし、その野犬がそこから侵入してきたと思われる、天井の換気口は、転がっていた板切れなんかを適当に詰めて、とりあえずは塞いでおいたけど、それで完全に侵入を防げるというわけでもない。
痩せ細った野犬なら通れたそこを、殺人鬼が通れるとも思えないけれど、その隙間から、ナチが大量虐殺したアウシュビッツの収容所みたいに、毒ガスを流しこまれでもしたら、それこそひとたまりもない。
いや、それよりももっと簡単な方法に、火を放つという手がある。
この二枚の防火シャッターで厚く閉ざされた中で、逃げ場がない上に、電気が通っていないだけでなくて、排水もされていないわけだから、ガソリンを染み込ませた布なんかを放りこまれて火の手が上がれば、ペットボトルの水くらいじゃどうすることもできないまま、ボクたちは全員、苦しみながら焼け死ぬのを待つ以外にない。
ただ、そういう風に懸念していたけれど、まだ、あれから、特にこれといった動きはない。
それはただ、ボクたちが、光源として使っている懐中電灯の電池が切れて、頼りない仄かな月明かりで照らされるだけになった中で、まともに動きがとれなくなるのを、今か今かと待ち望んでいるのか――。
それとも、ボクたちをもっと恐怖に怯えさせて、楽しもうとしているのか――。
いずれにしろ、ボクたちには、今この現状で、やれることをやるしかできない。
どうせ殺されるとしても、やり残したことがあれば、悔やんでも悔やみきれない。
なので、できるだけのことはやっておいた。
神薙に『蜻蛉丸』の峰で叩き倒されて失神した野犬については、とりあえずまたボクたちを襲うことがないようにと、元はホームレスの死体が収められていた冷蔵庫の電源コードを抜いた状態で、ただの蓋付きの大きな檻として、その中に閉じこめておいた。少し可哀想な気もするが、仕方ないだろう。たまに、外に飛び出されないように注意しながら、扉を少しだけ開けてやれば、酸欠になることもないはずだ。
その野良犬に手痛い戒めを与えた、自称陰陽師の神薙は、隣の病棟の屋上から、こちらの病棟の通路へと飛び移って来たわけだけれど、それは、彼のようなイカれ――もとい、人助けのためなら無茶を厭わない彼にしかなしえないこと。
そのカムイの無茶にしても、L字型の折れた根本付近にある、こちらの両端がふさがれた通路へと、屋上から飛び移ったきたわけだけれど、それは屋上の鉄柵の一部が壊れていたから、助走をつけて飛び移ることができただけ。こちらの窓から、あちらに見えている方へと飛び移るには、不安定な窓のへりに立ってそうしなければならないわけで、それだと、罅が入っている様子もないあちらの窓を破ることができるかどうか以前に、距離がたりずに遥か下の固いコンクリ―トの地面に叩きつけられてしまうだけだ。
『おそらく、それは果たせないだろうな』――神薙自身も、そう語っていた。
その神薙は、今、ボクたちをこの休憩室に残して、別の部屋に行っている。
ついさっきまで、一人離れた場所で、修行僧が瞑想するように、目を閉じたまま座禅を組んで、ずっとぴくりともしないでいたんだけれど、突然、ぱちりと目を開くと、ボクの傍につかつかと寄って来て、
「今、
と尋ねられたので、腕時計で確認してから、
「十一時半を少しすぎたくらいです」
と答えると、
「そうか。ならば私は、他の部屋にも、結界を張ってくる。丑の刻が訪れる前にな」
と、休憩室を出て行った。
この休憩室には、霊験あらたかな呪符とやらが、そこら中に貼られている。街中の電話ボックスあたりで見かけるいかがわしいシールのように、やたらめったらベタベタと。神薙が、座禅を組んで瞑想を始める前に、この魑魅魍魎たちが巣くう場所で、やつらに襲われたりとり憑かれたりするのを防ぐために、結界を張る必要があるとそうしたためだ。
そして、丑の刻前にというのは、魑魅魍魎がこの世で跳梁しやすくなるという、丑三つ時になる前に、その結界を強めないといけないとか、そういうことなんだろう。
その呪符の効果についての信憑性は薄そうだけれど、その神薙は、『蜻蛉丸』と名づけられた日本刀を携えている。悪霊が出てくることはなくても、殺人鬼がいつ襲ってくるかもわからないこの状況で、その武器が、その抑止力として働いてくれることには、少なからず期待している。
他にやれることとして、先程は失敗したわけだけれど、ロケット花火はまだ十本近く残っているので、ローテーションを組んで、山道を走る車がないか見張りをつけることにした。もう午前零時をすぎているわけだから、そうそうそこを走る車が現れるとは思えないけれど、今は、それを待つ以外に、助かる道はない。
なので、今は、順番が回ってきたココナが窓際に立って、眼下に広がる、夜の闇に黒く塗り潰された森が広がる中を通る山道へと目を向けている。
その傍らでは、マキトがこちらに背を向けながら、肘をついた片手に頭をのせながら、床に横になって、すーすーと心地良さそうに寝息を立てている。昨日の祭りで、三股がばれて修羅場になった後、二人の彼女に、夜通しこっぴどく叱られていたため一睡もできなかったらしく、さすがに眠気に耐えきれなくなったようだ。ただこの状況で眠れるとは、さすがに神経が図太い。三股するだけのことはある。
それに、普通なら、この悪夢のような状況と同じ悪夢を見てしまうところだろうけど、「……むにゃむにゃ……皆で一緒に遊べばいいことだろ? ……むにゃ……」
などと、何やら美女に囲まれて奪い合いにでもあっているかのような夢を楽しげに見ている様子なので、特に心配することもなかったようだ。三股で懲りたのも、ほんの一時だけだったらしい。
そんなお幸せなマキトの寝姿を眺めていると、先程から、ごそごそとデイパックの中身を開いて漁っていたヒロタが、
「よし、それじゃあ、この場は君に任せたぞ」
と立ち上がった。見ると、一キロ入りの食塩の袋を小脇に抱えている。
「塩なんて持って、なんに使うんだ?」
怪訝に問うと、
「言っていなかったかい? 悪霊は塩を苦手とするんだ。これを、割れている窓のへりにまいておけば、そこからやつらが侵入してくるのを防げる。そうすれば、神薙師匠のありがたいお札との相乗効果で、ここは、どんなに強力な悪霊だろうと立ち入ることができない、『聖域』と化すことだろう」
雄弁に語った。神薙に変な刺激を受けたらしいけれど、悲観してしょげこんでいるよりはよっぽど良い。
なのでボクは、さらに元気づけてやろうと、
「さすがは偉大なるゴーストハンターだな」
「まあ、それほどでもあるけどな」
と謙遜することもなく、ふふんと鼻の下をゆびでこする。
ボクは思わず苦笑しつつ、
「でも、『画竜点睛を欠く』っても言うだろ? お前がどれだけ偉大なるゴーストハンターだとしても、ミスがないとは限らない。俺たちが悪霊に襲われることがないように、見落としがないように頼むよ」
「いや、心配には及ばんよ」
とその胸を、片手でドンと叩いてみせながら、
「その偉大なるゴーストハンターである俺が、だるまに目を入れ忘れるようなドジを踏むと思うかい?」
「…………」
こいつはおだてる程に調子を良くするタイプなので、話にのっかってそう言ってやったところが、どうやらその由来を勘違いしているようだ。マキトが起きていれば、『政治家の当選祝賀会かよ!』とでも鋭く突っこみを入れたところだろうけれど、ボクとしては、まあ、ヒロタだから――ということで、それはスルーすることにして、
「とにかく、その最中にもいつ悪霊が襲って来るか分からないだろうから、くれぐれも気をつけてな」
とヒロタに警戒を促しながら、室外へと送り出した。
悪霊が襲ってくることはなくても、殺人鬼の凶手が及ぶかもしれないと考えて。
そうして、頓珍漢なヒロタだけど、おかげで、緊張や不安を少しだけ和ませられつつ、横の壁際で、同じように座っているサキとは少し離れて、体育座りをしていたシュンの元へと近寄ると、
「なあ、シュン、一つ聞いてもいいか?」
とその隣に腰を据えた。
シュンは顔を向けながら、
「いいよ、なに?」
「あのさ、お前、ここであの時何が起きたのか、全然知らないんだよな?」
「うん……」
と弱々しい頷きを返すと、
「ボクはあの時、人工透析を受けなかったことで、身体の調子が悪くなって、肝試しの途中で、別の部屋で休んでいて、しばらくして、さらに症状が悪化して、気を失って倒れたんだ。次に目を覚ましたのは、そこから助け出されて運びこまれた病院の病室のベッドの上でだった」
「そうだったよな。いや、もしかしたら、ここ数年で、お前が思い出した何かがあるんじゃないかって思ってな。悪い、嫌なことを思い出さちまったな」
「ううん、ボクはあの事件のことを忘れたいわけじゃないんだ。確かに、忘れてしまった方が楽だけど、そうするのはただの逃げだ。それに、レイナさんのことは絶対に忘れたくない。レイナさんは、病弱なボクにいつも元気を分けてくれていた。彼女の存在がなかったら、ボクはとっくに、悲観して自殺していたかもしれない」
「……ねえ」
それまで、少し離れた壁際で同じように座り、両膝に、その小さな顔を埋めるようにしていたサキが、シュンにためらいがちにその声を向けた。
「あなたは、姉さんが……ほんとうに、人を殺したって思う……?」
憂うように尋ねる。
「そんなはずない。彼女のことを、殺人犯だなんて疑ってたやつらもいるみたいだけど、そんなわけがないんだ」
シュンが語気を強めて言い切る。
「でも……姉さんが残した携帯には、『うっとうしいやつらを消してやった』みたいに書かれてた……」
「彼女が、僕たちをうっとうしく思うなんてこと、あるはずないよ。ブログではいつも、ボクたちファンのコメントに丁寧に返してくれていたし、他ではどうだったか知らないけど、今の自分があるのはファンのおかげだって、僕たちのことを本当に大切に思ってくれていたんだ。そんな彼女が、僕たちのことを、『ウジ虫』呼ばわりするなんてことも、絶対にない」
「……そう……そうよね……」
サキは返すと、ふと顔を上げ、なにもない中空に目を向けるようにしたかと思うと、
「……そう……分かった……」
答えを返すように呟いてから、静かに立ち上がり、休憩室を離れて行った。
様子が少し変だったようにも思えたけれど、そう言えば、最初に会った時から、どこか普通ではなかったような気もするし、とりあえず、彼女は、殺人鬼の存在を知ってもいるわけだし、何かか起きたとしても、神薙がいるから大丈夫だろうと、後を追うのはやめておいた。
――本音を言うと、ずっと緊張や不安を抱えたまま、殺人鬼の脅威に警戒し続けて、かなり疲れを感じているから、そうするのが億劫だったというのもある。
できれば、マキトがそうしているように、少し仮眠でもとりたいところだけれど、さすがにそうするのは憚られる。殺人鬼に命を狙われているかもしれないということを知るのは、ボクとサキだけなのだ。ボクが眠ってしまうと、その殺人鬼が襲ってこようとした時に、すばやい対応ができなくなってしまう。
「ふわあ」
でも、澱のように溜まった疲労が、眠りへと誘おうと責め立て、思わず大あくびをしてしまった。
襲い来る睡魔に、涙の滲んだ重たい瞼をこすりこすりしていると、
「私も、ちょっと用事があるんだけど、付き合ってくれない?」
と、山道を走る車がないかと見張っていたココナが、ボクの傍にやって来た。
「なんの用事だ?」
「いいから、一緒に来て」
ココナは言うと、窓から見張る役目をシュンに頼んでから、ボクのTシャツの裾を掴み、半ば強引に室外へとつれだした。何度もそうされているボクのTシャツは、伸びきってだぼっとなってしまっている。
ココナは、ボクを引っ張って、しばらく進んだ洗面所の前で立ち止まった。
「なんだ、トイレか。やっぱり、怖がりココナだな」
ボクがからかうように言うと、ココナは、
「違うって」
答えながら、ボクの目をまっすぐに見た。
「……じゃあ、なんだよ」
普段おちゃらけてばかりのこいつに、いつにない真剣な眼差しを向けられて、思わず、少しどきりとしてしまった。
「……ヨウちゃん、あの時は、ありがとうね」
礼を言ったココナの顔は、うっすらと赤く染まっている。
「何のことだよ」
と顔を逸らす。
「とぼけないでよ。助けない、なんて言っておきながら、野良犬から私を守ろうとしてくれたじゃない」
「助けたのは、神薙さんだろ。言いたいことはそれだけか?」
「何よ、その言い方」
とココナはふくれっ面になると、
「せっかく素直になってあげたのに……まあ、ヨウちゃんに期待した私が馬鹿だっただけか……」
「ああ、ココナが馬鹿なだけだ」
ボクのその言葉に、ココナは、ふーと大きく溜息を吐いてから、「そのことはもういいよ」と話を区切ると、
「他にも聞いて欲しいことがあるの。ヨウは、サキちゃんが履いてるショートパンツのズボンから、携帯のストラップが出てるの、見た?」
「いや、気づかなかったな」
「そう。そのストラップなんだけど、トップの部分に小さな金属製のプレートがつけられてて、それに、『OKIMOTO』って、アルファベットで刻まれてたの」
「別に、おかしなことじゃないだろ。彼女の苗字は――」
途中まで言ってから、はたと思い当たった。
彼女は確かに、いなくなった沖本レイナの一卵性双生児の片割れで、その妹になるんだから、普通は、苗字も同じはずだけれど、シュンから聞いた話だと、彼女は、小学生の頃に両親が離婚して、姉のレイナと離れ離れになったという。そのため、彼女が名乗った、引き取った方の星川という苗字になったんだろう。
それなのに、彼女は、『OKIMOTO』という、旧姓の刻まれたストラップを持っている。
それはなぜか――。
「まだ彼女たちが離ればなれになる前からのものなんじゃないか?」
「ううん」
ココナはそれを否定する。
「それにはね、小さくだけど、『2010』って刻まれてもいたの」
おそらくそれは、今から五年前の、2010年を示しているのだろう。
彼女の両親が離婚したのは、彼女たちが小学生の頃だったと聞いた。それは、刻まれているその年代よりも前のことのはず。ということは、そのストラップは、彼女が姉の沖本レイナと離れ離れになってしまった後――苗字を星川に変えた後に作られたものだということにもなる。
「……どういうことなんだろうな……?」
通路の床に視線を落としながら、その意味を探す。
「ねえ、もしかして彼女って、ほんとに沖本レイナの――」
ココナが言いかけた時、
ガチャン!
少し離れたところにある調理室から、物音が聞こえてきた。
「なんだ……? 大河内か神薙さんか……?」
「もしかして、あの閉じこめておいた犬が、抜け出して来たんじゃ……」
その野犬に襲われそうになったココナが、怯えるように。
「冷蔵庫の蓋はちゃんと閉じてあるはずだけど、かなり古びたやつだからな……」
何にせよ、とりあえず確かめておく必要があると、ボクは、怯えるココナに、だぼっとなってしまっているTシャツの裾を掴まれながら、その調理室へと向かった。
物音がした調理室の扉は、片方が半分ほど開かれていた。
そこから室内を覗いてみると、その室内にいたのは、先程休憩所を出て行ったサキだった。
だけど、どこか様子がおかしい。
立ち尽くすサキの手には、なぜか、神薙の『蜻蛉丸』が握られている。
窓から差しこむ淡い月明かりに、怪しくその刀身を輝かせる『蜻蛉丸』を手にするサキの前には、誰かが倒れている――。
あれは、ヒロタだ。
暗がりで顔はよく見えないけれど、特徴的な巨漢と、Tシャツに短パンというその身なりから、そうだと分かる。その傍には、悪霊除けのためにまくと言っていた食塩が詰められた袋が、破けてその中身を零れさせながら転がっている。
そして、その倒れ伏すヒロタの頭からは、だらだらと赤い血が――。
その思いもよらない惨状に、ぎょっと目を剥きながら顔を突き合わせるボクたちの前で、サキは、その身動き一つせずに倒れ伏すヒロタを見下ろしながら、
「……これで……全部、終わらせられる……」
そう呟くと、薄く笑んだ。
氷のようなその微笑に、ぞわりと全身が粟立つ。
「……ココナ、逃げるぞ、ここから離れるんだ」
ボクは、怯え切った顔でボクのTシャツの裾を掴んでいたココナに囁くように言うと、その手をとり、なるだけ音を立てないようにしながら、一緒にその場を離れた。
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