月鏡 二

 しゃべれるようになってもそうでなくても、わたしは何も、何一つ自分のことをまじめに考えてなかったんだ。それが分かってしまった。さっき自分で言ったじゃないか。自分を小さく畳んでたって。じゃあ、元のわたしってなんだろう? 本当のわたしってなんだろう?


「それが出来て初めて、新しい自分にするのにはどうすればいいのか見えてくる。そうしたら今度はそれをもとにして、自分を変えていかないとならないの。また、次のハードルが来るのよ」


 美月さんは、わたしから視線を逸らさない。わたしの中の何かを探り当てて、隅々まで確かめようとするかのように。その視線の重さに耐えきれずに俯いたら、美月さんがすうっと横を向いた。


「過去や今の自分に捕まってるのは、卓ちゃんも同じ。卓ちゃんはそれを、自分自身でよーく分かってる」


 そっか……。


「だから卓ちゃんは自分の弱さを曝したの。越さなきゃならない、高いハードルを。自力で、自分の弱さを越えなければならないってことを。自分だけでなく、あさみちゃんにもしっかり知っておいて欲しくて」

「でも、弱みを見せ合うって、傷を舐め合うことにならないんですか?」

「自分でそれを直視できなければ、そして自分で解決しようとしなければ、昔のぐっちぃみたいになるわね。あさみちゃんも、それにキレたでしょ?」


 そう言って、わたしを見てくすりと笑った。ハイ、そうでした。人ごとじゃないですね。


「卓ちゃんは、今すごくもがいてる。そのハードルを越す自信がないから。でも、逃げていたんじゃ解決しないってことは、よく理解してるの」


 卓ちゃんが言うように、美月さんはちゃんと卓ちゃんの悩みを見抜いてたんだ。すごい、と言うより、恐ろしい。怖いと言った卓ちゃんの気持ちがよく分かる。わたしも……怖い。


 わたしから目を離した美月さんが、また横を向いた。そして嬉しそうに目を細めた。


「でも、卓ちゃんはね。もう少しでトンネルを抜ける。だから、私は心配してない」


 ずっと横座りしてた美月さんが、きちんと膝を畳んで笑顔を消した。わたしに向き直って、切れるように真剣な表情でわたしの顔を覗き込む。


「あさみちゃんは会話を取り戻したことで、自分の間合いを探してる。でもそれは、日本人が英語を勉強するみたいなもの。最初分からなくても、慣れればすぐに覚えられるわ」

「そうなんですか?」

「あさみちゃんは、小さい頃に催眠術をかけられてうまくしゃべれなくなったことにすぐ慣れたんでしょ?」

「はい」

「それとおんなじ。大したことじゃないわ。それよりも……」


 美月さんは、決してわたしから目を離さない。ひとことひとこと確かめるように。ずっしりと重い問いが投げかけられていく。


「あさみちゃんの鍵は完全に外れたのか。それは単にぐっちぃのマジックの仕業なのか。それはもう解決したことなのか。あさみちゃんにとって、本当の鍵はなんなのか」


 すうっとわたしの額に向けて、白い人差し指が伸ばされた。額に印を描くようにして、その指が動いた。


「それをね、真剣に考えなくちゃならないの。過去に何があっても、そこから目を逸らさずに。そして、自分をごまかさず、真直ぐに見つめて」


 そう言い終わると、指を引っ込めて顔を曇らせた。


「私はね、あさみちゃんが心配なの。卓ちゃんよりも、いいえ他の誰よりも、見なければならないものがはるかに重い。越さなければならないハードルがはるかに高い。でも私は、あさみちゃんならそれを乗り切れると信じてる」


 そう言った後で。美月さんはとても悲しそうな顔をして、そっと俯いた。


「私はね。鏡に映ったあなた。私にはそれが出来なかった。だから、こうして、ここにいるの」


 この言葉はなに? わたしには美月さんの言ってる意味が分からなかった。でも美月さんは、とても大事な示唆をくれた。


 わたしの会話を封じ込めた鍵。それは、あの先生のコインじゃないかもしれないってこと。じゃあ、その鍵はなに? 己をしっかり見つめ直して、真剣に鍵を探しなさい。鍵を探し当てるヒントは自分の不幸な過去の中にある。だから、そこから決して目を逸らしてはいけない。


 美月さんはゆっくりと立って、何かを乞い願うように両手を高く差し上げた。


「月から降りる階段はあるのに、月へ昇る階段はない。月の光はとても優しい。でも想いは届かない」


 静かな。厳かな。でも、とても悲しい声。


 そして。ゆっくり腕を下ろすと、諦めたように言った。


「もう寝ましょ」



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