第五章

翳る月

 今日も、いつもと同じように店が開いた。美月さんの穏やかな微笑みが、戸口近くのカウンターの向こうで客を出迎える。


 美月さんは高熱を出して倒れてから、まだ回復し切れてねー感じがする。まだ無理しねー方がいいと思うんだけどな。ちょっと心配。でも、店開けるって言い出したら絶対に引かねーから、しょうがねーもんなあ。


 オレは小鉢に料理を盛り合わせ、ラップをかけて冷蔵庫にしまった。ふふっ。今日はちょっと試作品があっから、あとでみんなに試食してもらうことにしよう。反応が楽しみだなあ。旨いって言ってくれっかなあ。


 あさみちゃんはバーカウンターの向こうで、いつものように静かにグラスを磨いてる。オレの視線に気付いたら、なにって感じで、少し首を傾げてこっちを見た。うーん。最近、仕草がちょっと美月さんに似てきたね。


 あさみちゃんは、一時の張りつめたような緊張感が取れた。最初の頃のような、柔らかい雰囲気に戻った。でも。どっかこれまでと違う。んんー、どこが……違うんだろ? そうだ。すげー寂しそーなんだよな。理由は分かんねーけど。


 文三さんがいねーことにも、すっかり慣れちまった。美月さんとの間で何があったんか分かんねーけど、それはオレらが立ち入るこっちゃないし。


 いつものように御堂さんが来て、美月さんと二言三言月世界の会話をして、カクテルを少し舐めて、帰った。御堂さんも、来る時と帰る時とで表情がまるっきり違うんだよね。帰りは、必ず満足げな笑顔になるんだ。ほんとに、ここに来るのを楽しみにしてんだろーなあ。


 入れ替わるようにして、迫田さんが、えれー大荷物を持って入ってきた。なんだろな、あのでかい風呂敷包み? 美月さんにビールを頼んで、目を瞑って、手を動かしながら何か鼻歌を歌ってる。楽しいからってんじゃなくて、何か自分の中でセカイ創ってる感じ。オレらは全くここにいねーみたいだ。ちょっと面白いかも。


 お、ぐっちぃ登場。今日は何かマジックが見れっかな? 手に酒瓶の入ったビニール袋をぶら下げてる。ぐっちぃは、もう愚痴をこぼさねー。フツーの明るいサラリーマンだから、違う呼び方を考えねーとな。ぐっちぃ自身は、別にいいよって言ってたけどさ。


 ぐっちぃの後ろには、さわちゃんがいた。さわちゃんは、酔っぱらって絡みに来てた頃とは、別人みてーに大人しくなっちまった。でも、それはいいことばっかじゃねー。まるっきり生気がないんだよね。どう見てもリハビリ中だよなー。退院してからも、しばらくは精神的に不安定な時期が続いたみたいだし。今は少し落ち着いたって言ってたけど、まだ自分のことを冷静に見る余裕はないように見える。


 さわちゃんなりに精一杯の努力はしてる。それは分かるんだけど。でも、ふらふらしてる。迷ってる感じ。


 それと、ぐっちぃとさわちゃん。この二人、さわちゃんの自殺騒動のあとで何かあったんか、なんとなくいい雰囲気を感じる。でも、まだ突っ込んだ関係ってなわけでもないみてーだな。ぐっちぃはマジメな顔で、さわちゃんと話し込んでる。


 あれ、珍しいなー。今日は常連さんがみんな揃ってる。


◇ ◇ ◇


 そうだよ。オレはそんな時が来るなんて、これっぽっちも思ってなかったんだ。オレだけじゃない、そこにいた誰もが。


 不思議な、穏やかな、暖かい、幸福な、この空間。美月さんの微笑みに淡く照らされて、静かに自分の心を見つめる時間が、永遠に続くような気がしてた。


 でも。その時は突然にやってきた。


 オレは流しを片付けてた。その水音で、異変の気配に、そして物音に気づくのが少し遅れた。


 どさり。


 ん? なにかな、と思って横を見ると、いつもの場所に美月さんがいねー!


「美月さん! 美月さんっ! どうした? 大丈夫か!?」


 オレが慌てて駆け寄ると、床に倒れていた美月さんは顔面蒼白の状態だった。辛うじて薄目を開けると、喘ぎながら切れ切れに、オレに言った。


「居間に……寝かせて……くれる? 医者は……呼ばないで……絶対に! 少し……休ませ……て。大丈夫……だから」


 大丈夫なわきゃねーだろっ! いつものオレだったら、美月さんが何を言おうが、即座に救急車を呼んだだろう。でも、そん時オレは、美月さんの意思を絶対に裏切っちゃいけねーって気がしたンだ。訳もなく……。


 あさみちゃんも、みんなも駆け寄ってくる。迫田さんが病院に連れていこうと、携帯で救急に連絡しようとした。ほとんど意識を失ってた美月さんが、最後の気力を振り絞るようにして迫田さんに叫んだ。


「余計なことしないでーっ!」


 まるで血を吐くような。悲しい制止。


 オレは美月さんを抱え上げて居間に上がった。あさみちゃんが急いで布団を敷く。

オレがそこに美月さんを横たえた。美月さんを囲むようにしてみんなが座る。そして代わる代わる、心配そうに美月さんの顔を覗き込んだ。


 美月さんは眠った。苦しげな表情じゃない。寝息も穏やかだ。痛みや熱があるわけではなさそうだ。でも。顔に血の気がない。蝋人形のようだ。


 みんな押し黙ったまま、美月さんを見つめてた。ずっと……。


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