鍵 一

 卓ちゃんは、美月さんが無茶しないように見張るって言って、美月さんの病室に歩いていった。わたしは、さわちゃんの家族が病院に着くまで付き添うことになった。


 静まり返った病室。ベッドに横たえられたさわちゃんは、どこまでも深く眠っている。その顔を見ていると、ものすごく怖くなってくる。


 お母さんの時も、お父さんの時も。お葬式の時の死に顔は眠っているようだった。朝だよ起きてって揺すれば、ああごめん寝過ごしたって言って起きてきそうな。そんな顔だった。もう二度と目を開けないんだって、それを理解するのが難しいくらい。でもそれは。わたしにとっては怖いことであって、悲しいことではなかった。どうしてだろう?


 お葬式の時も、気丈だって言われた。辛いだろうに健気だって言われた。でも、わたしには悲しみを我慢してる気持ちはなかった。どうしてだろう? わたしには、悲しむという感情が欠け落ちてるんだろうか? わたしには、血も涙もないんだろうか?


 さわちゃんの寝顔を見ながら、わたしはいつしか考え込んでいった。美月さんに言われたこと。わたしにとっての鍵って、なんだったんだろう? わたしの意識は生まれた川を遡るサカナのように過去を辿り、鍵を探す旅に出て行く。


◇ ◇ ◇


 催眠術は暗示。作られたまどろみの中で、出来ることを出来ない、出来ないことを出来ると暗示して、意識を屈服させる。暗示にねじ曲げられた意識は、いつでも元に戻ろうとする。それを強引に抑え込むのが、鍵の役目。普通は、暗示そのものが鍵を兼ねてる。


 催眠術に使う振り子やコインなんかは、意識を眠りの中に陥れて、暗示を強く印象づける小道具に過ぎない。それは本当は鍵じゃない。そして、暗示の効果はずーっと続くものじゃない。暗示の中身が理不尽であればあるほど、鍵は何かのはずみで外れやすくなる。


 わたしの場合はどうなんだろう?


 おしゃべりを封印したコインは、単なる小道具だ。確かに、先生の暗示はとても強力だったんだろう。でも、先生は父に言った。二、三週間で外す、と。逆に言えばその程度の持続効果しかない、間に合わせの催眠術だったはずなのに。どうして、それがこの年になるまで効き続けてしまったんだろう。


 くん。さわちゃんが、小さく鼻を鳴らした。わたしはさわちゃんの寝顔を見る。さわちゃんは意識が戻りつつあるみたいで、時々顔をしかめる。何かイヤなことを思い出しているのかな。しきりに口を動かしている。誰かに不満をぶつけるように。その様子を見ているうちに、わたしにとっての鍵の意味がおぼろげに浮かんできた。


 ああ、そうか。わたしも、さわちゃんと同じだったんだな、と。


 わたしは偉そうに、さわちゃんのエゴを非難してた。自分の都合ばかり優先して、人の気持ちも考えず、自分の心の穴を勝手に他人で埋めようとするって。でも。それは、わたしも全く同じだったんだって気がついた。


 わたしのおしゃべりが封じられたあと、その封印を外す鍵は本当はわたし自身が持ってたんだ。本当に幼い頃ならともかく、自分の意志で行動できる年齢になってからは、鍵を外すチャンスなんかいくらでもあったはずなんだ。でも、わたしはそうしなかった。わたしは逆に、鍵を自分の心の奥深くに隠してしまった。それが勝手に外れないように、細心の注意を払って。


 なぜ、そんなことをしたんだろう? 自分の心に素直になれば、すぐに分かることだった。わたしはお父さんとお母さんに、自分だけを見ていて欲しかったんだ。ずっとずっと、わたしだけを。


 お母さんは、わたしのトラブルの負い目を全部自分の中に抱え込んでしまった。自分を責めるあまり、他に何も見えなくなってしまった。お母さんがわたしのことで心を病むようになってから、お父さんはお母さんを救おうとして手を尽くした。お父さんの視線は、わたしよりお母さんに多く注がれるようになった。


 それは、愛情で結ばれた夫婦ならごく自然なこと。でも子供だったわたしには、それが理解出来なかった。わたしは、お母さんやお父さんに放置されたと思い込んでしまったんだ。お母さんやお父さんの、わたしへの愛情が減ることなんか絶対にないのに。それを我慢することが出来なかった。


 だから、わたしは仮病を使った。自分が不自由であるかのように装った。鍵なんかいつでも外せるのに。手のかかる子供を演じ続けたんだ。そうすることで、お父さんもお母さんもわたしの方を向いてくれる。辛い思いをさせてゴメンねって、わたしを慰めてくれる。いつでも抱きしめてくれる。お父さんお母さんにとがを負わせておけば、わたしは決して放り出されることはない。わたしがお父さん、お母さんの愛情を独り占めできる。


 子供って……残酷だ。わたしは、そうやって親の愛情をいつも計りにかけて、毎日試し続けたんだ。


 お母さんは、どんどんそれに耐えられなくなっていった。わたしはこんなにもあなたを愛しているのに、まだ足りないのって。お父さんも、とうとう堪えきれなくなった。おまえにもうこれ以上謝り続けることは出来ないんだ、だからって。


 わたしが慌てて鍵を外そうとした時には、もうお母さんもお父さんも死んでしまった。わたしは、その愛情を永遠に受けられなくなってしまった。だから、今度は自分への罰として、わたしは鍵を外さなかったんだ。外せなかったんじゃない。外さなかったんだ……。


 ぐっちぃのマジックでそれが外れたのは、わたし自身が変化を望んだから。背負ってきた過去を罰として持ち続けることが、辛くなってきたから。鍵は、わたしの中にあったんだ。最初から、ずっと。


「んっ……」


 ふっと。意識が追憶の水底みなぞこから病室に戻った。わたしは、まだぼんやりさわちゃんの顔を見つめていた。


 鍵で閉じ込めていたもの。それはコトバや会話だけじゃない。わたしは、大事なことにまだ目を向けてない。それを今のうちに、きちんと正視しなくちゃいけない。


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