間章

宵の月 弐

 あの騒動のあと、さわちゃんはぴたっと顔を出さなくなった。言っちゃ悪いけど、わたしはものすごくほっとした。


 さわちゃんは、すさまじいジコチューなんだ。わたしは愛されて当然なのって。そんなプライドの高さがあっちこっちからはみ出てて、すっごい鼻につく。でも、そのプライドを支える中身が何もない。空っぽだ。


 誰と付き合ってても、自分しか見ないさわちゃん。さわちゃんは、オトコに自分を映してるだけよ。だから半端なオトコしか選ばない。オトコの姿がはっきり見える大きなスクリーンには、自分以外のものが映っちゃうからイヤなんでしょ。オトコに執着するのも、相手が好きだからじゃない。自分を否定されたくないから。自分がかわいいからだ。


 そんなんじゃあ、振られるのなんか当たり前。


 自分と他人の評価がとんでもなくズレてて、しかもズレてるってことにまるで気づいてない。自分の中身をちゃんと見ようと、確かめようとしない。もちろん反省も、手直しもしない。だから、同じ失敗を懲りずに繰り返すんだよ。


 今回の卓ちゃんとのトラブルで懲りて、少しでいいからズレてるってことを覚ってくれればなー。


 あとは、ぐっちぃかあ。相手すんのが、めんどくさー。よくもまあ、あれだけ同じネタで、ずーっと飽きずに愚痴れるもんだわ。ホント呆れちゃう。


 最近は美月さんもぐっちぃを持て余してきたから、最初に目があった人が相手するのが三人の間の暗黙の取り決め。わたしたち、動物園の飼育係じゃないんだけどなー。


◇ ◇ ◇


 さすがに三ヶ月も経てば、バーテンの仕事にも慣れる。


 それは美月さんからお給料をもらうための仕事。わたしは、そう割り切ってる。だからバーテンという仕事を極めるつもりはない。でも、美月さんは仕事に対する要求がとても厳しい。わたしの手抜きは、あとできっちり指摘される。


 報酬の額に関係なく、請けた仕事は責任を持ってやり遂げなさい。それが社会人として最低限の礼儀であり、義務よ。……がっちり叱られちゃう。


 美月さんに何かを指摘される度に、わたしは自分が本当に子供だなあと思っちゃう。それは、わたしの社会訓練が全然足りないからじゃない。ココロが未熟だからだ。でもココロは、体を鍛えるようにして強くすることはできない。わたしのココロがまともになるまでには、まだまだ時間がかかりそう。


 うん。わたしは、仕事をするってことをすごく甘く見ていたのかもしれない。伯父の家を出た時に、わたしはどんなことでもこなせると思ってたけど、とんでもない。働いて給料をもらうのは、そんなに簡単なことじゃない。それが分かっただけでも、半月での経験は値千金だ。


 美月さんは、わたしを何度も戒める。


「あさみちゃんにはね、この仕事をする上ですっごく大事なところが欠けてるの。それに早く気がついて欲しいんだけどなあ」


 でも、美月さんは答えは言わない。それが美月さんのやり方だから。そうして、日一日と、わたしの宿題は増え続ける。


◇ ◇ ◇


 卓ちゃんは、仕事のスタイルが変わってきた。


 最初は明らかにバイトそのものだった。料理はすごく手慣れてたけど、それはやっつけだった。あくまでも短時間で割のいいバイト、そういう感覚だった。少なくとも、わたしにはそう見えた。


 それに、無口でぶっきらぼう。最初卓ちゃんがまとっていた空気は、オレに構わないでくれよっていう、無言の圧力。でも最近になって、それがきれいさっぱり消えた。卓ちゃんは、機嫌よく流しに向かうようになった。鼻歌混じりで包丁を握るようになった。料理する時に、何かを楽しもうとするようになってきてる。それがなぜかは分からないけど。


 相変わらず口数は少ないし、態度も素っ気ない。でも、わたしたちやお客さんの目を見るようになった。それと、誰にでも笑顔を向けるようになった。


 卓ちゃんと筆談した時の、卓ちゃんのコトバ。オレたちはまだ捕まってる、って。卓ちゃんはそこから逃れられたんだろうか? わたしはどうなんだろう?


 分からない。まだ何も。でも。わたしも卓ちゃんも、変わってきている。まるで、月が形を変えるように。


◇ ◇ ◇


 わたしは卓ちゃんからもらったパソコンを、ネットにつなげられるようにした。これまでは図書館に出向かないと得られなかった情報が、居ながらにして見られるのは嬉しいなあ。


 でも、本当はきちんとステップを踏んで勉強したい。先々、高卒検定試験のことも考えよう。


◇ ◇ ◇


 生活に余裕が出てくると、今まで店晒しにしていたいろんなナゾが、改めて気になるようになる。


 この店の稼ぎ。美月さんは最初に貧相な店って言ったけど、そんな生易しいもんじゃない。わたしと卓ちゃんの給料を出したら、どう考えたって一銭も残らないどころか大赤字のはずなのに。どうやってお金を工面してるんだろ? 美月さんて、実は大金持ちとか。ないな。あの殺風景だもんね。


 文三さん。最近、本当に見なくなっちゃった。美月さんはダンナって言ったけど。ホントかなあ? 仮面夫婦とか? 分からない。


 それと。相変わらず読めない美月さんの年齢と言動。常人離れした読心術と勘の良さ。徹底した感情抑制。最初に会った時に、美月さんを単なる人のいいオバさんだと思ったけど、そんなわけないじゃん。伯父の家での幽閉生活で、わたしがどれくらい社会とか世間からズレちゃったのか、改めて分かっちゃった。


◇ ◇ ◇


 さあ、店が開く時間だ。わたしは、バーカウンターの中でグラスを磨く。卓ちゃんが、鼻歌を歌いながら小鉢の仕込みをしてる。今日は何かな? あとでこっそりつまみに行こうっと。すっごくおいしいんだもん。


 美月さんは。いつものようにカウンターにそっと手を置いて。少し顔を上げて、薄く目を開けて。そこにあるはずのない月を見ている。


 近付く密かな足音。扉の窓に人影が映り、静かに扉が引き開けられた。美月さんの柔らかい声がふわりと投げかけられる。


「いらっしゃいませー」


 今晩最初のお客さんが……来た。


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