「ふぅぅぅぅぅぅぅっ」

 肩までお湯に浸かって、優香はようやく力を抜いた。ぐぐぐっと体を伸ばすと体の節々がジーンとして心地よい。

「やっぱ、ウチのお風呂は最高ね……」

「うん……。私たちはもう感覚麻痺してますけど、初めて特寮に来てここに入った時は、温泉が寮まで引かれていることに驚きました……」

 特寮の本館に隣接する形でつながっている、浴場というよりも浴館というべきこの建物は、わざわざ源泉から特寮まで引かれたパイプによって、温泉となっている。正確には、生徒居住区である海道町に、四箇所ある学生完全無料の皇営銭湯のためのラインを少し分けてもらっているのだ。しかし、それを考慮したとしてもこの温泉は破格の待遇である。

「それにしても今日は疲れました……」

「友希は夕方、図書館に行ってたんだよね? 真也とどこで会ったの?」

「ふぅ〜……、図書館」

 優香の質問に友希が眠そうに答える。女子二人は、そんな特寮の温泉風呂の和風サイドに仲良く入っていた。浴場は二人には広すぎる。

 湯船、それも背もたれが絶妙な傾きで、かつ反っていて、足も自然に伸びるように作られた石のベッドのような寝風呂に、優香と友希は並んで入っていた。そこから見える天井は、ガラス張りの窓になっていて、春の夜空が一望できる。ちなみにマジックミラーなので空撮、もとい盗撮される心配はない。立ち上る湯気で曇らぬように、窓は定期的にワイパーのようなものでぬぐわれていた。

『二人とも湯加減はどう?』

「ん〜……、いい感じだよ真也。いつも通りと言えば、そうなんだけどね」

『温泉がいつもになる日が来るんですかね……?』

 優香の返事に真也は素朴な疑問をていする。

「まぁ、街道に住んでる学生の中には毎日、皇営温泉に通ってる人もいるみたいだし、気にすることもないよ」

「真也さんはまだ初日ですもんね……。きっと、そのうち慣れますよ」

 真也の問いに優香と友希が交互に答える。

 本日は女子風呂のはずの和風サイドに何故か真也の声が響いていた。しかし、彼の姿はどこにもない。それに、彼の声がすることに、優香も友希も何の疑問も抱いていないようだった。

 実際、真也は女子風呂と壁を隔てた男子風呂に入っている。二つの風呂場を隔てる壁は天井までは届いておらず、大声を出せば会話も可能だろうが、真也の声量は通常の会話と変わらない。なら、なぜ会話が可能なのかというと、二人は真也と通信機を使って会話していたからだった。もちろん映像はともなっていないが、真也にとっては水音一つすら刺激だろう。

『ハックショーン』

「……真也、大丈夫?」

『あ、うん。お湯に入ってジーンってしただけ』

「そう、ならいいけど」

 優香は寝転がって、ガラスの天井から星空を見上げた。天神地区では夜間の電気の使用が制限されている。そのため、都会である割には星がよく見えるのだ。

『ところで、特寮の他の方々について聞いておきたいんですが、本人がいるときに、本人から自己紹介される方がいいですかね?』

「いえ、みなさん特に気にしないと思いますよ。もし良ければ私たちがお教えしますけど?」

 真也の質問に友希が答える。

『…………あ、コクン。……じゃない、お願いします』

 友希の提案に真也は頷いて、しかし、互いの顔が見えないことを思い出し、

「まず、特寮の住人は現在八人で、中学生は三人います。今年度からの高校生である私たちの年代が残りの五人で、私と優香ちゃんと真也さん以外に三人います。ちなみに、その三人は全員が男子ですよ」

『ふむふむ……、なるほどです』

 真也が友希の説明に頷く。

「……説明か、まずは輝かな。漢字は輝くのかがやで氏神輝うじがみひかる。氏神家の次男で私たちに匹敵するほどの魔術師ね。輝は魔導工学を専攻しているから、私たち、魔導総合とは別クラスだけどね」

『…………』

 真也は魔導工学という言葉から、つい彼の義兄を連想して、首を振ってそのイメージを打ち消す。真也は魔導関係の理論、そしてその先にある工学系の勉強も苦手としているのだ。

 高レベルの魔術師でも、真也のようなタイプは決して少なくない。これは魔術がいかに感覚的な技術であるかを示していると言える。魔術の核となる精神が物理次元の外側に属するものであるから、魔術師の多くは感覚的に魔術を使用するのだ。これは、演算などの物理科学チックな部分を全て人工知能に押し付けたゆえの弊害へいがいとも言える。

 もっとも、真也の場合は小学生低学年の頃から毎日、魔導オタクの義兄に蘊蓄を聞かされ続けたせいで魔導理論が苦手になったのだが。

「次は颯太くんですね。颯爽さっそう、のサツに太い、で、四方院颯太しほういんそうたと書きます」

 思考の迷宮に踏み入りかけた真也の意識を友希の声が引き戻す。

「颯太は変人だけど、悪いやつじゃないわ。ただ、ちょっと……アレなだけ。物質概念化と細かい補助系の魔術が得意で、魔術を使った戦闘なら校内一かも。

 颯太も魔導総合学部なんだけど、入試の日に体調を崩したせいで、入試の順位は低くて……。私たちとは別のクラスなの」

『残念でしたね……』

 真也は、何がちょっとアレなのか気になったが、尋ねること自体が颯太への無礼に当たる気がして聞けなかった。優香の物言いひどいと思うが、言い返せないのも真也が颯太を知らないからだ。真也は、優香が特定の誰かを嫌って言うわけではなく、サッパリとした性格なのだろうと考えた。

「確かに颯太くんは、脳筋、ド根性、体育会系、熱血教師などの言葉が似合いますね。確かにアレなんですけど、いい人なことに間違いはないですから」

『…………ップハァァ』

 「アレ」というワードに意識領域の大半を持っていかれそうになって、真也は湯に顔をつけた。しばらく潜ってから顔を上げると上手い具合に好奇心が収まる。優香と友希は真也の奇声の理由が気になったが男子が風呂場で何をしているのか聞くのもアレなので自重した。

「高校生の最後は翔朧かけるさんですね」

『かけるさん?』

「そう。朝倉翔朧あさくらかける。朝日の朝に、倉庫のソウ。飛翔のショウに、朧月おぼろづきの朧でカケルって読むの。変な名前でしょう?」

『確かに。っていや、そんなことないですよ?』

 優香の声に思わず同意してしまってから、真也は慌てて取り繕う。初対面どころか、会ったこともない人の名前を非難するのは、どう考えてもよろしくない。

「疑問系になってるぞ〜。で、翔朧は位相震からの唯一の生還者なんだ。たしか、生年は2065年だったけ?」

「えぇ、確かそうだったと思います。正確な年までは覚えていませんが……」

 優香の確認に友希は曖昧に答える。しかし、少なくとも翔朧が今から百年に近いほど昔に生まれた人間であることは確かなようだった。

 現代では吸血鬼や自然化のせいで百年以上前に生まれた人間が今もピンピンしていることが珍しくない。いや、稀ではあるのだが、伝説になるほどに珍しくはなくなっているのだ。

 しかし、翔朧のケースは本当に特殊な例だった。

『えと……つまり翔朧さんは本当なら今、八十五歳?』

「だいたいそうなるわね」

 真也が出した計算の解を優香が肯定する。真也は翔朧の心情を想像して、とても想像出来る代物でないことを理解した。

「翔朧さんは九年前、天神島の海岸に打ち上げられているところを発見されたんです。そして、意識を取り戻した彼の証言と、政府の捜査によって2077年の崩壊の最中に発生した位相震の被害者だと判明したそうです。

 特寮の寮生には事情を知る許可が出ていますが部外秘なので決して漏らさないようにしてくださいね」

 友希が詳しい事情を説明する。

『もちろん、喋ったりはしませんが、先に言ってください……』

「ごめん」

「すみません」

 真也はまず、約束をしてから、不満を言った。さすがにまずかったと思ったらしく、女子二人は殊勝に謝罪する。

 位相震、というのは、崩壊時に世界各地で何人かの人間が不自然に行方不明になった現象のことだ。位相震は、AZの生成による時空間の歪みに巻き込まれた人間が、位相のどこかへ移動したことで発生した現象だと考えられている。

 しかし、AZを通してつながった下層世界・上層世界へ行って、帰ってきた人物・団体も彼らを発見することはできていない。

 ちなみに、AZとは「Annihilationアナイレイション Zoneゾーン」の略称で、日本語の消滅地帯のことである。これは、崩壊時に隕石メサイアとその破片の落着地点付近の一帯に、世界の滅亡を止めるために原初の七雄によって作られた。AZは高次元面で切断された三次元空間で、その内部は二つの異世界とつながる特異点領域となっている。

 位相震については、さらにその中で、本来観測し得ない平行世界に飛ばされたから行方不明になった、というのが定説だ。

 現在までに、その被害者が発見されたという話は公にされていない。つまり、翔朧は、その帰還者ということになる。何故日本が翔朧の存在を秘匿しているのかはわからない。しかし、それはまさに、特寮の入寮条件の一つである、国家レベルでの保護が必要な人物という項目に該当している。翔朧も真也と同じ一般人ではあるが、まともに特寮生をやっている人物のようだった。

「翔朧は位相震にまき込まれた間、ずっとあちらの世界の二人の人間と旅していて、少女とともに脱出したと言っているらしいけど、少女の方は行方不明なの」

 優香の説明は続くが、真也は答える言葉を持たなかった。翔朧の経歴がぶっ飛びすぎていて頭がついていかないのだ。

「まぁ、そこまで気にしなくていいと思うよ。自然体で接した方が翔朧も心地いいだろうし」

『は、はい。努力します』

 優香の忠告に真也は頷いた。

『ありがとうございました。そろそろ体を洗いに行くので切りますね』

「りょーかい」

「ではまた後で」

『はい』

 そして女子風呂から真也の声が消えた。優香と友希は通信に使っていた、水に浮かぶ球状のバス用端末の表面をタップして、真也との通信を切る。

 優香は隣でうつぶせせになって膝から先の脚をパタパタしてる友希に尋ねた。

「友希、真也さんのことどう思う?」

「う〜ん。少なくとも悪い人ではないと思いますよ」

 ありふれた返事に項垂うなだれる優香。優香は仰向あおむけに夜空を見上げる形で湯船にかっていた。

「回答が平均的すぎて参考にならない……」

 優香は友希の意見を一蹴する。

「真面目に答えたのに……」

「あ、ごめんごめん。悪かったって、ね?」

 不貞寝のフリをする友希に、優香は慌てて謝った。

「で、私が聞きたかったのは真也の態度とか、印象のことよりも、特寮に来た理由だよ!」

「それ、考えないといけませんか……? 正直、眠くて……」

 友希は不貞寝のフリをやめて本当に寝ようとする。優香は友希の肩を揺さぶった。しばらく優香が揺さぶると、友希は笑いながら目を開ける。どうやら、今度のも寝たフリだったらしい。

「眠い、眠いって年寄りくさいよ? どうしたのホント」

「この歳になりますと、もう、ほんの少し動いただけでドッと疲れてしまいます……」

「ホントに年寄りじゃねぇかっ! ……って、面白い、今の?」

 優香はツッコミを入れてから、そのノリノリさに自分で引く。友希は石の枕を平手でバンバンと叩いて笑っていた。

「くく、ふふふ、さすが関西人ですね! (私なんかとはキレが違います……)」

 友希は笑いながら、後半声を抑えてつぶやく。優香は友希のつぶやきには気づかず、ノリを続けた

「もう六年以上、天神在住やっちゅうねんっ! って、ハッ……関西人のさがが」

 友希の笑い声は友希の声帯の限界を超えて、人間の聴覚には聞き取れない高さの音を発生させる段階に移行していた。友希は笑い上戸じょうごのようだ。優香もなんだかんだ言ってノリノリでツッコミを入れている。友希は体制を仰向けにしてお腹を抱えて笑っていた。

 しばらく、似たようなやりとりを続けて、落ち着いた二人は揃って首をかしげた。

「ところで私達なんの話してたっけ?」

「優果さん、ボケてます? 漫才のネタを考えてたんでしょう?」

 まだ先ほどのノリから脱却できていない友希がボケる。

「いや、真面目にね……。っていうか、ネタを考えるどころか実演してたしね……」

「えーと、うーんと……、なんでしたっけ?」

 友希は優香の返答が意外と真面目なトーンだったので、少し考えた。

「お笑い、変、友希変、友希は変、友希イコール変、そうだ、真也についてじゃない?」

「優香ちゃん? わざとですよね。そうなんですよね? 本当は最初から覚えてたんですよね?」

 しかし、先ほどのノリを脱却できていないのは友希だけではなかった。友希は慌てて優香の本心を確認する。

「そのことなんだけどさ、おかしいと思わない?」

「スルーですか……」

 友希は項垂れた後に優香の問いの意味を考えたが、漠然としすぎていて全く理解できなかった。顔を上げた友希の頭上に疑問符が浮かぶ。

 もちろん友希の魔術が現実に友希の心情を投影した、とかいうことではなく単なる比喩だ。

「あ……、特寮に入れたことよ。いくら地区府のミスで、地区長、が理事長様に頼んでも特寮に入れるものなのかな?」

「さぁ? お偉いさんのことは知りません…………」

 優香の問いを受けて、友希は急に無愛想になる。

「? どうしたのむくれちゃって……」

「知らない」

 優香は、ツーンとそっぽを向く友希への追求を諦めて話を進めることにした。

「特寮の住人は基本皇族の関係者だし、翔朧かけるみたいに経歴が他国にばれたら、事件の詳細を聞くために各国に引っ張り凧にされる、とかいう超特殊事情を持つ人でもないはずよね? 寮がダブルブッキングしただけでしょ?」

「はい。そう聞いていますし、真也さんもそう言っていました」

 友希は、優香の言葉を聞き流すためではなく、考えを整理するために丁寧に肯定する。優香はそれに頷いて、先を続けた。

「言われてみれば、地区府がミスしたせいで入れなくなったという寮は、海道町かいどうちょうの学生寮マンションですよね?」 

「聞いてはないけど、そうだと思う」

 友希の問いを優香は曖昧に肯定する。友希はそれを確認して話を続けた。

「たとえ、ミスで入寮手続きができていなかったとしても、地区府が少し働けば今日中には新しい部屋を取れたはずです……。

 さすがに、海道町の全部の寮が満員になることはないでしょうし……。もし今日中が無理でも、今夜だけ特寮に泊めれば明日からは寮に移れたんじゃないでしょうか?」

 天神島の学生の生活区である海道町には、莫大な数を誇る天大と付属校の生徒たちを収容するために、そこそこ高いマンションが立ち並んでいる。

 いくら宇宙、太陽系連盟たいようけいれんめいの広大な勢力圏内全体から天大とその付属校に通うために、学生が一人暮らししに来るとはいえ、天大にも付属校にも定員がある。いくら普通の学校機関の十数倍もの学生をようするといっても、その人数の上限は決まっているわけだ。

 つまり、もともと彼らが暮らせるように設計されている海道町で、すべての寮が満員になることはあり得ないのはずなのである。

「友希の言う通りね……。どういうことなんだろ? 真也はあまり気にしてないみたいだったけど……」

「でも、これ以上推測するなら、真也さんに直接聞いた方が早いんじゃないですか?」

 さらに推論を重ねようとする優香に、友希が正論を突き刺した。優香は苦笑いしてそれに答える。

「真也が知ってるかわからないし、そもそも何か秘密があったらギクシャクするでしょ」

 しかし、その答えで友希は好奇心を失ったようだった。友希は元の面倒臭いモードに戻って、全身を使って怠さを表現している。

「そうかも、ですぅ〜」

「そうなの! だから聞けないよ。でも気になるから推測するの!」

 優香は適当な友希の返事に少し怒って、語尾を強め、友希を睨む。

 顔を横に向けた優香が見たのは、気持ちよさそうな友希の寝顔だった。

「ZZZ」

「寝るな!」

 それはどうやら今度こそ本当に寝ているようだった。

 


 そして、風呂上りに真也は二人にベッドルームに案内されて眠りにつく。

 天神真也の引越し劇はこうして幕を閉じたのだった。

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