希望の光


 私が向かったのは、同じ五階にある音楽室だった。


 その音楽室の近くまで来ると、誰かがピアノを弾く音が聞こえてきた。



 私は、誰がそれを弾いているのか知っている。



 音楽室の入口の前まで来た私は、そのドアに嵌められたガラス越しに、こっそりと中の様子を覗き見た。


 窓から射し込む夕日で、茜色に染まる音楽室では、奥に置かれたグランドピアノの前に、一人の男子が座っていた。


 こちらに背中を向けて、ポロン、ポロンと悲しげでせつなくなるような、単音の旋律を奏でている男子――



 それは、貴弘。



 動かしているのは左手だけで、手袋を嵌めた右手は、ズボンのポケットに突っ込んだままだ。



 今から丁度二週間前の月曜日。


 私は、今日のように、図書委員として、一人図書室に残っていた。


 夕方になって、図書室を閉める時間になり、私は、荷物を置いている自分の教室に戻ろうとした。その時、通りがかった音楽室の前で、今日のように、一人寂しそうにピアノを弾いている貴弘を見かけた。


 いつからか知らないけれど、貴弘は、下校時間を過ぎた後、人気の無くなった校内に一人残り、この音楽室で、左手だけを使って、ピアノを弾くのが日課みたいになっているらしい。


 今も、その時と同じように、覗かせている横顔は、その、儚くて、消え入りそうな旋律と同じように、悲しげに翳っている。


 その悲しい旋律――悲しみのこもった単音が、切なげに一つずつ鳴るたびに、私が抱えている罪悪感に響き、胸が痛くなる――



 貴弘は、小学生の頃、ピアノ奏者として、大きなコンクルールで優勝してしまう程で、地元では、ちょっとした有名人だった。


 だけど、貴弘には、賞を取って、周りからチヤホヤされることなんて関係なかった。


 ただ、ピアノを弾くのが楽しくてしょうがなかったんだ。



 だけど、私は彼から、その彼の全てだったピアノを奪ってしまった……



 あの悲劇が起きたのは、五年前、私達が、まだ小学生だった頃のこと。


 その日は、私が十一歳になった誕生日の、翌日の日曜日だった。


 貴弘は前日に、ピアノのレッスンがあって、私の誕生会には出席できなかったけれど、翌日、私の家に来て、ガラス玉の中に音符の模様が入った携帯ストラップをプレゼントしてくれた。


 とても嬉しかった私は、それを、さっそく自分の携帯に取り付けた。


 そして、私達は、近くの公園まで遊びに出かけることにした。


 その途中、建設中のビルが立つ前の道端で、私は、うっかりと、側溝の溝に足をつまずかせて転んでしまった。


 その時、貴弘に貰った、携帯ストラップに付いていたガラス玉が外れて、アスファルトの上を転がり、建設現場の中へ入っていってしまった。


 足を擦りむかせて涙を流す私に、貴弘は、


「俺が取って来てやるよ」


 って優しく言って、その建設現場に入って行った。



 悲劇は、その時起こった。



 鉄骨が立ち並ぶ中に転がり込んだガラス玉に、貴弘が、腰を屈めて手を差し出した時、強い風が吹いて、頭上から、足場として組まれていた鉄パイプの一部が外れて、落下して来た。


 私が悲鳴を上げた時には、貴弘は、その鉄パイプの下敷きになっていた。


 たまたま通りがかったサラリーマンの男性が、その場に駆け付けて、鉄パイプをどけて、貴弘に声をかけたけど、頭と腕から血を流す貴弘は、瞼を閉じたまま、何も答えなかった。


 すぐに救急車が呼ばれて、貴弘は、病院に搬送された。

 頭部と右手に裂傷を負っていた貴弘だったけど、医師の適切な手術処置のおかげで、無事に一命を取り留めることができた。



 だけど、貴弘の右手は――



 美しい旋律を奏でるために、神様が与えてくれたような、その繊細な右手は――




 二度と、ピアノを弾けない右手になってしまった……




 その手術結果を聞いた私は、貴弘に面会する時、どう言って誤ったら許してもらえるか、夜通し必死になって悩んだ。



 翌日。家族以外の面会もできるようになって、私は、学校が終わってすぐに、お詫びの品を持参した母親と一緒に、貴弘の入院している病院に、お見舞いに行った。


 貴弘がいる病室の前で、貴弘の母親に会い、私の母親は、何度も頭を下げて謝った。


 その間も、私は、貴弘に会って、最初にどう声をかけたらいいか悩んでいた。


 だけど、その答えを出す前に、私の傍にやって来た貴弘の母親に、こう言われた。



「瑞貴ちゃん。悪いけど、貴弘は、もうあたなとは会いたくないそうなの。せっかくお見舞いに来てくれたわけだけど、貴弘には会わずに、帰ってくれないかしら」



 それを聞いた私は、目の前が真っ暗になるみたいだった。



 大きな大会で、びしっと着こなしたタキシード姿で、颯爽と壇上に現れて、滑らかな指さばきでピアノを弾いて、言葉では言い表せないような綺麗な旋律を紡ぎ上げる貴弘は、どこか遠い別の世界にいるみたいだった。


 そんな貴弘と、幼馴染で仲が良いことが、私は自慢だった。


 だけど、その不幸な事故があって以来、貴弘は、本当に遠い別の世界に行ってしまった。


 学校の廊下ですれ違っても、目を合わせようともしないで、私の横を通り過ぎて行く貴弘。


 何度か声をかけてみようとしたこともあった。


 だけど、遠い別の世界にいる貴弘に、その声は届かないかもしれない。


 声が届いたとしても、返って来るのは、怒りや憎しみのこもった言葉だけかもしれない。


 無視されたり、そういった言葉を向けられるのが怖くて、私は、声をかけることができなかった。


 私にできたのは、ただ顔を俯かせて、貴弘が、横を通り過ぎるのを待つだけだった。




「あなた、二年B組の鈴川瑞貴さんね?」


 私が、過去の悲しみを思い返して、暗い表情で顔を俯かせていると、後ろから声がした。


 振り向くと、音楽教師の小野田先生がそこに立っていた。



「ピアノの音に誘われて、ここに来たのかな?」


 小野寺先生が、優しげな微笑みを向けながら。


 美人で優しい小野田先生は、男女問わず、生徒から人気がある。


「え……? あ、はい……」


「ここからじゃ後ろ姿しか見えないけど、ピアノを弾いているのは、緒崎貴弘君なの。あなた、確か彼と同じクラスよね?」


「……はい、そうです。貴弘のことは良く知ってます」


「それなら当然、彼の右手の怪我のことも知ってるわよね?」


「はい……」



 それが、私のせいだとは、言えなかった。



「彼、右手は使えないけど、ピアノが弾きたかったらしくてね。自宅のピアノは壊れてしまっているから、ここのピアノを使わせてくれないか、って、一カ月ほど前にそう頼まれて、放課後に、軽音部が使ってない時なら、好きなだけ弾いていいわよ、って許可してあげたの」


「そうだったんですか……なんで貴弘は、ピアノを弾きたがったんですか?」


「彼、小学生の頃は、この街じゃ有名なピアノ奏者だったのよ。知ってた?」


「ええ……同じ小学校に通ってましたから」


「そうだったの。だけどね、残念なことに、不幸な事故に遭ったらしくて、その後遺症で、右手が自由に動かせなくなってしまったらしいの。同じ学校に通ってたなら、その事故のことも知ってるかな?」



 私は、何も答えられなかった。



 そうさせてしまったのは、他でもない、私自身なんだから……




「だけどね、彼、もしかしたら、もう一度、前みたいにピアノが弾けるようになるかもしれない、って言ってたわ」


「えっ……?」



 思いも寄らなかったことだった。



 貴弘が、もう一度、前みたいにピアノを弾けるようになる……?




「事故に遭ってからこれまでの五年間、ずっと病院でリハビリを受けていたらしいんだけど、そのかいあってか、もうかなり、右手の感覚が、元の状態まで戻ってきてるらしいのよ」


「それ、ほんとですか? だったら、貴弘は、前みたいにまた、右手でもピアノが弾けるようになるんですね? あのとびきり上手な演奏が、また聴けるようになるんですね?」

思わず小野田先生に詰め寄りながら尋ねていた。


「う~ん、どうかしら……この五年間、彼は、怪我をした右手では、ピアノに触れたことさえないらしいから、右手の感覚が完全に戻ったとしても、ピアノ奏者としての感覚

が戻るのには、かなりの時間がかかるんじゃないかな」



 小野田先生の言葉は、もう私の耳には入っていなかった。


 できれば、その場で飛び上がって喜びたいくらいだった。


 貴弘が、また前みたいにピアノを弾けるようになるかもしれない。


 五年前とは比べられないくらい、演奏が下手になってたってかまわない。


 そうなれば、私が、この五年間の間、ずっと抱えていた罪の重さも、少しは軽くなってくれる。


 そして、もしかしたら、そのことがきっかけで、貴弘と仲直りができて、また、昔みたいに、普通に話すことができるようになるかもしれない。


 神様に感謝したかった。


 悲劇が起きることを、防ぐことはできなかったけど、そんな私達のことを憐れんで、こうして救いを与えてくれたんだ。


 神様は、貴弘に、美しい旋律を奏でるための、繊細な指を与えてくれた。


 そんな神様が、私達の運命を弄ぶようなことをするはずがないよね。



 ううん、それだけじゃない。


 それが叶ったのは、貴弘の頑張りがあったから。


 もう一度、大好きなピアノを弾くために、その一心で、苦しいリハビリを頑張ったから。


 その努力を、神様はちゃんと見てくれていて、救いを与えようとしてくれたんだ。


 医師からは、前みたいにピアノが弾けるようにまで回復するのは難しい、と言われていた、貴弘の、大怪我した右手に残った後遺症。


 一度は諦めていたのに、まさかそれが、もうほとんど治りかけているなんて。


 これまで、過去の過ちを悔やみ、罪の重さにばかり苦しめられていた私の心に、それを消し去ってくれる、明るい希望の光が射してきていた。



 薄らとだけど、確実に。



 私は、嬉しさに胸を弾ませながら、小野田先生と別れて、自分の教室に戻り、鞄を取って校内を出た。


 長い時間待たせて、今頃麻衣は、カフェでぷんぷんしている頃だろうけど、そこに向かう私の足取りは軽やかだった


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