ヨモツヘグイ 終

 ペろり、と。


 久しぶりの『食事』を終えた春明は、その余韻を味わうように舌なめずりをした。満ち足りた腹を撫でさする。


「満腹ってわけにはいかないが……ま、腹八分目ってとこかな。これで当分は持ちそうだ」


 彼にとって黄泉戸喫とは諸刃の剣だ。食わねば飢えるが、食ったら食ったで異形化が進んでしまう。


 かつて春明は妖の血肉を喰った。それは彼の命を繋ぐためにやむを得ない行為ではあったが、黄泉戸喫の代償はしっかりと残った。常世のものでない異形を口にした彼は、以来定期的に妖を喰わねば生きていけない身体となってしまったのである。


 だがそのさじ加減が難しい。食えば飢餓は癒されるが、同時に食えば食う程にその身は人から遠ざかる。ゆえに、普段の彼は本家からの命令によってを厳密に管理されていた。餓死までには至らないが、それでも永遠に満足感は得られない。辛うじて生存のみが可能な範囲。


 必要最低限は摂取しているし、そもそも『人間として』の栄養素だけなら普段の食事でも事足りるのだが、それでも癒えない飢餓を永遠に抱えたままでいるのはつらい。正直とてもつらい。空腹のあまり夜中にうっかり目が覚めて、買い置きしてあるスナック菓子を食べ始めてしまうくらいしんどい。


 だから春明にとって、実のところ今回の件は渡りに船だった。


 しがない兼業陰陽師である彼の元には、基本的に間宮宗家という伝手を通してしか陰陽師としての仕事は来ない。しかし依頼元が実家なため、仕事自体に成功してもうっかり獲物をちょろまかしてつまみ食いすることも出来ない。


 その点、今回の話は理想的だった。


 依頼人は国家権力たる霊課異係。内容はプライベートなこととはいえ依頼主が依頼主だけあって、民間である間宮家との絡みはないし、宗家からも下手に口出しを出来ない。


 おまけに、小夜香は見るからに『事情』を抱えた子供だった。見鬼眼持ちでなくとも、一目で分かる溢れかえるような加護。本人自身も見鬼眼持ちで保護者がいない。


 兄に問い合わせたときは『何もない』と言われたが、実際のところ背景に裏があるのは見え見えだった。


 しかも、その事情とやらに『周囲は一切関知しない』のである。兄はそう断言した。小夜香を保護する上でイレギュラーがあった場合、責任は全て母親の彩華の管轄になる。なので、好きにしていい、と。その言葉を聞いた時、春明は当然の如く『食っていい』のだなと解釈した。それ以外に解釈のしようもなかった。


 だから彼は、二つ返事で小夜香の世話を引き受けた。


 もちろん、それだけが理由の全てではないけれど。 


 最初は、打算も計算もあった。


 それでもあの子が、自分にとって必要以上に可愛くなってしまったのは、まったく予想外だったけど。


「いやぁ、実に久しぶりの栄養摂取だった。特にここ最近はロクなもん食ってなかったから、そろそろ本気で餓死するかと思ったわ。さーて。食事も無事終わったことだし、そろそろ影の中に戻ってくれませんかね識さんや。お前が実体化してると、俺の偽人化がすげー勢いで進んじゃうから」


 振り返って式神に命じるが、彼女は影の中に戻る気配を見せなかった。


「……んだよ。ああ、それとも。その姿の時は『真祖葛葉』とでも呼んだ方がいいのか?」


 主君からの問いに、かつて葛野御前くずのはごぜんと呼ばれていた大妖はそっと黄金の眼を伏せた。長いまつ毛が陰を作る。


「……後悔しておいでですか?」


 彼女は静かに問いかけた。


「後悔しておいでですか? 主殿。あの時……私の肉を喰らったことを。結果として、そのような不自由な身体になってしまわれたことを」


 伏せたままの瞳から、はらはらと涙が零れ落ちる。けぶるようなまつ毛を濡らし、すべらかな頬を伝い、ぽたぽたと床に落ちた。


「私は……私は、こんなつもりはありませんでした。ただ、あなたを助けようと。幼いあなたを救いたくて、ただそれだけでした。あなたをこんな風に変えてしまうつもりなど……にしてしまうつもりなど、私にはなかった」


 艶やかな紅色の唇が、わななきながら言葉を紡ぐ。それは紛れもない後悔であり、懺悔の言葉だった。


「違うよ識。そうじゃない――」


 思いがけない狐の告白に、焦ったのはむしろ春明のほうだった。慌てて否定する。


「そうじゃない。そんなことはない。あの時、お前は俺に命をくれた。お前がいてくれたから、俺は今日まで生きてこれた。それを感謝こそすれ、恨むなんてあるもんか」


 かつて。そんなに遠くもない昔。閉じ込められて育った一人の子供がいた。


 子供の名前は間宮春明。陰陽師の家に生まれたその少年は、類まれなる見鬼眼の才能ゆえに始祖の再来ともてはやされ、依童として大切に育てられていた。


 強い霊能・霊視を持つ存在は異形との相性がいい。とりわけ自我の薄い子供であればなおさら。彼は異形を降ろす依り代として、あるいはていのいい生贄として、多くの式神に傅かれて育った。


 そんな地獄のように平和な日々は、ある日唐突に終わりを告げた。


 春明に降りたモノが暴走したのだ。


 器として育てられた少年の身体は、降霊用にカスタマイズされている。低位であれば神ですら降ろすことの出来る器は、陰陽師を家業とする間宮家にとって欠かせない便利な道具だった。大人たちは必至で壊れた器を直そうとしたが無駄だった。


 壊れた道具を惜しみながら、大人たちは春明の命を諦めた。打ち捨てられた哀れな子供を、しかし見捨てなかったモノがいた。


 それが識――あるいは真祖葛葉御前の名を持つ大陰陽師、安倍晴明の実母たる大妖である。


 我が子である晴明がこの世を去ったのちも、寿命を持たぬ妖である彼女はずっと子孫を見守っていた。そうして、瀕死となった末裔の子を哀れと思った。


 子供が始祖の再来と呼ばれていたからではない。実母であった彼女にとって、その少年は息子とはまったく似ていなかった。特出していた見鬼眼の才能ですら、息子の半分にも及ばなかっただろう。だからこそ、狐にとって少年は愛しい存在だった。


 自分の血を殆ど受け継いでいないからこそ。


 かつて愛した人間の男の血を、より色濃く受け継いでいたからこそ。


 狐は少年を愛おしく思い、瀕死の彼に己の血肉を分け与えることで生き長らえさせた。


「望むのであれば。その傷を癒し、我がそなたの命を救おう。そなたがまだ、生きたいと願うのであれば」


 少年は答えた。


「わ、た、し、の、ね、が、い、は……」


 、と。


 道具として育てられ、極限にまで擦り減った少年が抱いた望みとは、復讐でも憎悪でもなく、生物としてもっとも原始的なものだった。


 


 憑依した高位の霊体に霊基をずたずたに破壊され、枯渇死寸前にまで追いつめられた少年の、それが末期の望みだった。


 この飢餓を癒す糧を。

 この空の器を満たすものをどうか。


 狐は望みに答えた。



 ――計算外があったとしたら二つ。



 ウロでありウツロでありウツワでもあった少年に、自分の血肉が必要以上に馴染んでしまったこと。



 それによって、愛すべき少年がヒトでなくなってしまったこと。



 *****

 


「依童として育てられた俺は、もともと中身が空っぽだった。どんな霊も抵抗なく馴染めるようにそうカスタマイズされた。ましてやお前はうちの真祖。血の元型アーキタイプともいえるお前の血肉であれば、この身体が適応するのは必然だ」


 あるいは彼が依童でさえなければ、また結果は違ったかもしれない。


 だが乾いた大地に雨が染み込むように。無色透明な水を一滴の絵の具が染めるように。新たに獲得した真祖の血肉は、壊れかけていた少年を再構成した。


 生まれたての雛が、どんなにカタチが違っていても初めて見たものを親と思い込むように。


 生まれて初めて『他者』から与えられたその性質は、半ば生物の本能として彼の霊基そのものに刻み込まれた。


 少年が初めて触れた優しさは狐の母性であり、少年が初めて獲得した形質は獣の獣性であった。


 ヒトとしての肉体と、妖としての中身。


 結果として、春明は人でなくなった。


「どっちにしろ、あの時お前が九尾のうちの一本を分けてくれなかったら、俺は霊力切れのまま枯渇死してたよ。実家の老害ども、完全に俺のことなんか諦めてたからな。むしろ血肉を分けてくれたのがお前だったからこそ、見鬼眼の性能がバージョンアップされたわけだし。そのオプションがなかったら、俺なんてとっくに処分されてたっつーの」


 実際は、そこまで簡単な話ではなかった。


 突然不自然に直った春明を大人たちは訝しみ――の変質に気づくと激怒した。陰陽師の名門たる間宮の血筋から異形と化した子供が出るなど恥だと言って。しかし一方で、彼らにとって春明の存在は切り捨てるにはあまりにも惜しいものだった。特に、真祖の血を得て新たなるステージに到達した招眼は、間宮家として喉から手が出るほど欲しいものだった。


 結局、春明は辛うじて処分を免除され、今後は本家の管理と監視をうけることを条件に、半ば追放という形で家を追い出された。彼自身は知らないことだがその際、秋貴の必死の嘆願があったことも処分を免れた一因だった。当時筆頭宗主候補でもあった秋貴は、それまでの自分の功績全てと引き換えに弟の助命を懇願した。恥も外聞もなく、どうか弟を殺さないでくれと泣きながら周囲に土下座した。結果として願いは叶い、秋貴は宗主としての未来を絶たれ、弟と共に在野の陰陽師として生きていくことになった。それでもちゃっかり花形職の霊課に就職しやがってるあたりが、彼の彼たる由縁なのだが。


 それは春明も知らない事実。


 きっとこれからも知る事のない事実。


 監禁されていた弟が処刑寸前となるまで助けられなかった兄からの、ささやかな罪滅ぼし。


「ぶっちゃけさぁ、俺としては別にどっちでもいーんですよ。人間とか妖とか。そんなもんは所詮、ってだけの話だろ? 人間だって同じ哺乳類なのに豚や牛を食べるじゃん。それと一緒」


 そう。黄泉戸喫によってこの身が人間でなくなったなど、彼にとってはその程度のことなのだ。


「お前が人間であることを望むなら、俺は人間として生きていく。お前が気にしないっていうなら、別に人間のフリなんて今日で辞めたっていいんだ。俺にとっての認識なんてその程度のモンなんすよ。そんなことより、次回のガチャピックアップにどんなキャラが来るかのほうがずっと大事」


 そんなことよりもずっと。


 大妖であるお前が獣のカタチになってまで、式神に甘んじる方が辛いだろうに。


 俺を人として保つために、自分を獣にまで落としたお前のほうがずっと。


「……ですがあなたはサヤカ嬢の作った料理を、美味しいと思ったのでしょう?」


 妖の肉ではなく、人間の食事を美味しいと感じたのでしょう?と。


 どこか悲しげな式神に、だから春明は笑って肯定した。


「そうだよ。だから大丈夫だ」


 あの子の手料理を美味しいと思える限り。


 人が自分のために作ってくれた食事を美味しいと味わえる限り、自分はきっと大丈夫。だから。


「だからそろそろ戻ってくれよ織。お前が本来の姿でいたいってなら別にそれでもいいけどさ。このままだと俺、本気で人間じゃいられなくなる」


 彼らの主従関係は、一介の陰陽師と式神のそれとは程遠い。どちらかというと、共生関係に近い。


 妖を食らった春明は既に身体の半分が妖の血肉で出来ている。その上、彼が食ったのはただの妖ではない。最高位の大妖であり、彼にとっては祖にもあたる極上の妖狐の肉だ。織は春明の式神となった。


 式神と陰陽師は魂の緒で共に結ばれている。織は彼と契約を結び、その上で自分の持つあらゆる権能を剥ぎ落とし、無力で手先が器用なだけの狐にまで存在を降下させることで、。いわゆる見立ての呪術である。使という逆転の発想。


 識の形代が壊されたことによって、その戒めの殆どが無効化されてしまったけれど。


 しかし大妖である織の顕現は、それだけでガンガン霊力を消費する。一点特化の天才型とはいえ、へっぽこ陰陽師の名は伊達ではない。平均値でみれば春明の能力は陰陽師としてせいぜい中の下あたり。織のような大妖の使役は、彼には少々荷が重すぎる。


 困ったように首を傾げる主君の姿に、従僕たる大妖はほんの少しだけいたずらを思いついた。この姿になることは滅多にない。きっと、これからも先も殆どないだろう。だからほんの少しだけ。


「……分かりました。ですがその前に、一つだけお願いを聞いて貰えますか?」

「ガチャ禁止令でなければなんなりと」


「それに関してはもう諦めました」

「諦められてたんだ……」


 諦められていた。

 そろそろ俺の生活、本格的に大丈夫かなって思った。


「ガチャに関しては生活費に手を付けない限り黙認しますから……最後に一度だけ、また昔のように呼んでくれませんか?」

「はぁっ!?」


 下手をすればガチャ禁止令よりよほど難易度の高い『お願い』に、春明が裏返った声をあげた。だらだらと冷や汗を流しながら、


「む、昔みたいにってお前……なんだってまた、いまさらそんなことを……!」


 あからさまに動揺する青年を、狐は拗ねた素振りで軽く睨みつける。


「だって、この姿に戻るのは滅多にないではありませんか。いま影に返ったら、次に現れるときはまた狐に戻るのですから、せめて最後に一度くらいはそう呼んでくれてもよいでしょう? 獣の姿のときにそう呼ばれるのも不自然ですし」


 ね? と重ねて頼み込むと、春明はあー、だのうー、だの呻きながらあちこちに視線を彷徨わせ、やがて苦渋を噛みしめるように一度ぎゅっときつく目を閉じてから、観念したように囁いた。


「……俺のことは、大丈夫だから。もう、心配しなくていいよ。


 その言葉に。


 狐が蕩けんばかりの慈愛に満ちた表情を浮かべる。彼女は細い手を伸ばし、そのふくよかな胸の中に青年の顔を閉じ込めるように、狂おしいほどの優しさでもって、春明を抱きしめた。


「ぎゃー!?」


「はい。よくできました」


「ぎゃー! ぎゃーぎゃー! ぎゃあああああああああああ!?」


 一応薄っすら血が繋がっているとはいえ他人の、しかも傍目には絶世の美女の巨乳に顔を埋めることになった、いい年こいて未だ独身で彼女のいない青年の、かなり切羽詰まったくぐもった悲鳴が聞こえた気がしたが、そんなものは気にしなかった。




 気の済むまで存分に、母は我が子を抱きしめた。

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