8-5-3

 助手席に乗ると、母さんが「ちゃんとお話出来た?」と話しかけて来た。ぼくは声のトーンを無理やり上げて、「うん」と音を絞り出す。

「母さんのお礼も伝えてくれた?」

「うん。ちゃんと伝えたよ」

「そう。ありがとう」

 母さんがじいちゃんのアパートを切なげに見やりながら、しみじみと呟いた。

「あんたより、母さんの方がお世話になったかもね。母さんと父さんが滅茶苦茶な時、その代わりみたいなことをやってくれたんだから」

 違うよ、母さん。じいちゃんはぼくを死んだ子どもの代わりになんてしていなかった。ぼくの親の代わりをやる気もなかった。ただぼくの先生をやろうとしていて、そしてその想いを今日、踏みにじった。

 だけど、何も教わらなかったわけじゃない。

「……そうだね。大事なこと、いっぱい教えてもらったよ」

 ぼくはじいちゃんみたいにはならない。なってはいけない。だけどじいちゃんの全部が間違っていたわけではない。ああなりたい、ああはなりたくない。どっちもある。だからじいちゃんは、やっぱりぼくの先生だ。

 ぼくがシートベルトを締めると、母さんはすぐに車を出発させた。走る車の中で前だけを見つめ続ける母さん。ぼくはズボンのポケットをまさぐり、プテラノドンのキーホルダーを取り出して手のひらに乗せた。そして勢いよく流れる景色をぼんやり眺めながら、ぼくは考える。

 ――こいつも、捨てちゃおうかな。

 窓を開けて、そこからポイッと捨ててしまおうか。家の鍵も、秘密基地の鍵も、もう無くなった。過去に縛られないために、新しい世界に踏み出すために、二つの鍵をまとめていたこいつも、この街に置いて行こうか。

 左手のひとさし指を窓の開閉ボタンの上に乗せる。もう少し力を込めれば、ウィーンと窓が開いて、むわっとした真夏の風が車の中に入って来る。そしてぼくはプテラノドンを風に乗せて飛ばすみたいに、そこからキーホルダーを投げ捨てることが出来る。

 ほんの少し、ボタンを押してみた。ガッと短い機械音がする。車の窓が目には見えないぐらいだけ開いた音。そしてぼくは――

 窓を元に戻して、キーホルダーを再びポケットにしまった。

 ――いいや。止めよう。プテラノドンに、罪はない。

「母さん」

 運転中の母さんに話しかける。「なに?」。ちょっと大変そうな感じ。

「ぼく、友達出来るかな」

 少しだけ、無言。やがて母さんは、優しい声でぼくに告げた。

「出来るよ、きっと」

 車が、真夏の太陽に向かって走る。刺すような光が眩しくて、ぼくは目を閉じる。そしてぼくは温められた瞼の裏側に、この街で関わった全ての人たちを思い浮かべる。

 ――みんな。

 一筋の涙が頬を伝って落ちる。街に別れを告げるように零れる。ぼくはそれを拭わす、陽光が乾かしてくれるのに任せ、眠るように目を瞑り続けた。

 ――さよなら。


 それからぼくは、僕になるまで、あの街に戻ってはいない。

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