7-5

 僕は、あの朝のことを、本当に細かく覚えている。

 石田と泣きあって、抱きあって、分かりあった後の自宅。家に帰ったぼくは真っ先に靴置場に父さんの靴があるかどうか探した。靴は無かった。靴置場が雨や泥で汚れた跡も無かった。帰って来てないんだな。そう思った。

 リビングの扉を開けると、母さんが朝ご飯を作っていた。「おかえり」。母さんはウィンナーを炒めながら、ぼくの方を向かずにそう言った。鼻歌を歌って上機嫌。父さんがいる日の朝より、優しくて、穏やかで、温かい朝だと思った。

 もう、ダメなんだ。分かっていたけれど、覚悟していたけれど、それをより深く分からされる朝だった。

「母さん」

 ぼくは母さんを呼んだ。母さんは「なあに」と朗らかな声で答えながら振り向く。母さんの笑顔はぼくから一度言葉を奪った。油の跳ねる軽い音がパチパチ響く中、ぼくは足を踏ん張って、声を張り上げた。

「父さんと、さよならしよう」

 本気の会話は戦い。ぼくはまだ、一番戦わなくてはならない相手と戦っていない。

 母さんと、ちゃんと話をしていない。

「――なに、言ってるの?」

 母さんから笑顔が消えた。エプロンをして、ウィンナーを転がす長い菜箸を構えながら、呆然とぼくを見ている。

「言った通りだよ。分かるでしょ。このまま続けたっていいことなんてないよ。だから父さんとさよならするんだ。ぼくは、母さんについて行くから」

「……どうしたの? 秘密基地のおじいちゃんに、何か言われた?」

「違う。これはぼくの考えだ。父さんはもうぼくたちのことなんか、どうでもよくなっちゃってる。一緒にいる意味がないんだ」

 ぼくは母さんを見据える。母さんは、逃げるように顔を逸らす。

「そんなこと、ないわよ。最近は、ちゃんと帰って来てくれてたでしょ」

「でもまたすぐ帰ってこなくなった。母さんは全部やり直したいのかもしれないけど、父さんは全部止めちゃいたいんだ。無理なんだよ。止めてもいいって思われちゃったら、もう無理なんだ。だから――」

「あんたがそんなこと考えなくていい!」

 母さんが叫んだ。そして全てを封殺しようと、ぼくを威圧的な目で睨みつける。でもぼくは負けない。母さんと戦って、分かり合わなくてはならない。

「ぼくは、父さんと一緒にいる時の母さんは、好きじゃない」

 母さんの目が泳いだ。ぼくはその揺らぎに付け込むように、畳みかける。

「不機嫌で、イライラしてて、怒りやすくて、父さんと一緒にいる母さんとは話したくない。ぼくの好きな母さんと全然違う。父さんと一緒にいる母さんを見てると、どんどん、母さんのことが嫌いになっていっちゃう。ぼくはそんなの、イヤだ。母さんが母さんで無くなっちゃうのは、イヤなんだ」

 ボロボロの花瓶。

 ヒビだらけで、今にも割れそうで、見ていて誰も幸せにならないボロボロの花瓶。ぼくたちの花瓶は何度も割れかけた。だけどぼくを接着剤にして、何度もくっついた。そしてずっと、ぼくを、父さんを、母さんを、みんなを不幸にし続けている。

 だから、ぼくが壊す。

 ぼくが――「花瓶を割る人」になる。

「ぼくね、昨日、死にかけたんだ」

 なるべく軽く言ったつもりだった。だけど母さんは今まで見たこともないぐらいに大きく目を見開いた。その大げさな反応は、今は困るけれど、やっぱり嬉しい。

「色々あって、それは後で話すけど、とにかく死にかけた。その時にぼく、『助けて、母さん』って思ったんだ。その直前に気をつけろよって、秘密基地のじいちゃんが言ってくれてたのに、じいちゃんじゃなくて母さんが出て来た。父さんでも無かった。それで、分かったんだ」

 ぼくは、自分の胸に開いた手をやった。薄いシャツの下で、どくん、どくんと、いつもより激しく高鳴っているのが分かる。生きているのが、分かる。

「ぼくは、父さんがいなくても生きていける」

 口にした瞬間、目の奥にじんわりと熱い塊が押し寄せて来るのが分かった。まずい。ぼくは語る速度を早める。

「じいちゃんがいなくても生きていける。秘密基地がなくなっても生きていける。星空が見えなくなっても、好きな女の子とつきあえなくても、学校が変わっても、ゲーム機がなくなっても、生きていける。でも――」

 もう、我慢できない。決壊した涙腺から水滴が零れ落ちる。言葉が一旦、途切れる。そしてぼくはどうにかこうにか、続きを口にした。

「でもぼくは、母さんがいないと、生きていけないんだ」

 ダメだ。これ以上は喋れない。ぼくは次から次へと溢れ出る涙を腕で拭いながら、ひっくひっくとしゃくりあげる。ぼくの一番大切な戦いは、終わった。

 視界が滲む。涙を流すだけの機械になったように、身動きが取れなくなる。世界中に一人きり、取り残されたような気分。何も考えることなんて出来ない。ただ、ただ、得体の知れない不安に襲われて、赤ん坊のようにぼくは泣き続ける。

 菜箸が、フローリング床にカラカラと落ちる音が聞こえた。

「……ごめんね」

 全身を包む温かくて柔らかい感触。母さんがぼくを抱きしめる。強く、強く、折れそうなぐらいに抱きしめながら、震える涙声で謝り続ける。

「ごめんねえ、ごめんねえ」

 ぼくも、母さんの背中に手を回した。母さんがそうして欲しいからじゃなくて、自分がそうしたいから、そうした。ウィンナーが焦げて真っ黒になるまで、そうし続けた。

 ぼくは大丈夫。

 なんとなく、そう思った。

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