2-2

 ぼくの世界がひっくり返ったあの日について語る前に、僕は、四年生からぼくのクラスにやって来た転校生について、語らなくてはならない。

 鋭い目つきが特徴的な男の子。名前は石田隆聖。ランドセルを持たずに手提げ鞄で学校に通っていたことと、いつも靴がボロボロだったことが、印象に強く残っている。

 朝の会で石田が担任の先生に紹介されていた時、ぼくは、ほとんど石田のことを気にしていなかった。ちょうどその前日の夜、父さんと母さんが喧嘩していたからだ。心の中にモヤモヤが溜まっていて、それどころでは無かった。

 ただ「苦手なタイプだな」とは思った。無愛想でムスッとしていたからだと思う。ぼくは内気なので、相手から話しかけて来るタイプじゃないと、上手く交流できない。

 そして印象通り、石田はみんなと仲良くしようとするタイプじゃなかった。それどころか、明らかにみんなを避けていた。何を話しかけても反応は適当。給食や掃除みたいにみんなと一緒に何かをする時も一言も喋らない。体育はぜんぶ見学だ。

 そんな石田は当たり前だけどすぐに孤立。クラスで一番お喋りな渡辺も、すぐに「あいつはダメ」とさじを投げた。そして石田はみんなにとって、仲良くしたいクラスメイトから、観察したい不思議な生き物に変わった。

 石田のへんてこな行動が話題になったのは、転校から一週間ぐらいのことだ。

 小学校には緊急連絡用の公衆電話が一つ、職員室の近くに置かれている。石田が昼休みに毎日、そこで誰かに電話をしているらしい。しかも一言も喋らないまますぐに電話を切ってしまうとのことだ。

 その噂、ぼくは疑っていた。だって、変。毎日学校から電話をかけるのも変だけど、喋らないで切るなんて、すごく変。ぜんぶ嘘でも全く驚かない。

 だけどあの日、見てしまった。

 昼休み、給食中の放送を終えて、職員室に放送室の鍵を置きに行った時、公衆電話の前に石田がいた。石田は十円玉で電話をかけて、すぐに何も喋らないで切った。そして下駄箱に向かい、外に出る。

 昼休みに外で遊ぶのはおかしくないけれど、普通、外で遊ぶ子は友達と一緒に遊ぶ。どういうことだろう。ぼくは興味を覚えて、こっそりと後をついて行った。そして石田は学校の校門に向かって――

 そのまま、学校から出て行こうとした。

 昼休み中に勝手に帰ってしまう。そんなの、ぼくの常識にはない。ぼくがあんぐりと口を開けて見ていると、視線を感じたのか石田がくるりと振り返った。そしてぼくにツカツカと近寄り、乱暴に話しかけて来る。

「なに?」

 特に用事はない。だけどこのまま見過ごすのも、共犯みたいでイヤな感じ。

「帰るの?」

「そうだけど」

「ダメだよ。勝手に帰っちゃ。先生に怒られるよ」

 ぼくはその時、自分が間違ったことを言っているつもりはなかった。僕から見ても間違っていないと思う。自然で正しい意見だ。

 だから次の石田の行動は、全く読めなかった。

 石田はまず、左腕をぼくの右肩に回した。いきなり向かい合って肩を組まれて、ぼくは戸惑う。だけど石田は肩を組んだのではなく、背中を抑えて、これから加える力の逃げ道を無くしただけだった。

「うぜえよ」

 ボソッと暗く沈んだ声。の後、へその上に走る凄まじい衝撃。殴られた。それが分かった瞬間、呼吸が出来なくなった。

 身体中がバラバラになるようなダメージに、ぼくは膝から崩れ落ちる。殴られたところを抑え、涙目になりながらゲホゲホむせ返る。そして石田はそんなぼくを見て、真っ黒な目を歪めてニィと笑った。

「苦しいだろ。そこを殴られるとそうなるんだ」

 僕はそこがみぞおちと呼ばれる人体急所だと知っているけれど、ぼくは知らない。でもそんな場所を思いっきり殴る石田が恨めしくて、うずくまりながら睨みつけた。

「やんのかよ」

 石田が一歩、ぼくに近寄る。ぼくはお腹を抑えたまま、ビクリと背中を震わせた。

「びびってんじゃねーよ。弱虫」

 悔しい。何か言い返したい。ぼくはぜえぜえ呼吸を整えながら、弱弱しく問いかける。

「なんで、帰るの」

 変な質問。だけど苦しさで頭がぐるぐるして、そんな言葉しか出てこない。そして石田はすっと雲一つない青空を指さし、へらへら笑いながら言い放った。

「雨、降りそうだから」

 どこがだよ。言い返すより前に石田はぼくから離れて、校門を出て行った。


     ◆


 ぼくはその頃、イヤなことがあった後はいつも秘密基地に行っていた。

 父さんと母さんが喧嘩したり、先生に怒られたり、クラスメイトとギスギスしたり。そんなことがあって気持ちの悪い感情が溜まっている時は、秘密基地に行く。すると嘘みたいにすっきりするのだ。

 だから石田に殴られた日も、ぼくは秘密基地へ行った。

 とらじろうをダシに佐伯さんを誘おうかとも思ったけれど、出来なかった。まだポケモン買ってないみたいだし、後でいいよね。そんな風に自分に言い訳をする。ぼくはシャイな男なのだ。僕もだけど。

 秘密基地に着いたぼくは、まずいつものように縁側の雨戸を開けた。これをしないと家の中が暗くてしょうがない。そうしているうちにとらじろうが出てくるので、縁側に座って、膝の上に乗せて撫でる。ポカポカ、春の陽気が気持ちいい。こうしているだけでイヤなことなんて全部忘れちゃう。

 目をつむり、ひなたぼっこを楽しんでいると、とらじろうの夕ご飯を持ったじいちゃんが現れた。とらじろうはひょいとぼくの膝を離れて、じいちゃんに擦り寄る。薄情者め。結局はご飯か、お前は。

 ――そうだ。 

「じいちゃん、今日はぼくがご飯あげたい」

 ぼくはじいちゃんに話しかけた。お皿の前で待つとらじろうに猫缶をあげようとしていたじいちゃんが、ぴたりと動きを止めて、何だか疲れた声で答える。

「……そうだな。分かった」

 ――あれ?

 じいちゃん、元気ない。なんでだろう。猫缶とミルクをとらじろうにあげながら、ぼくは首を傾げた。焦らしてとらじろうを怒らせてやろうと思っていたのに、じいちゃんのことが気になって、それは忘れてしまった。

 とらじろうが美味しそうに茶色い合成肉をはぐはぐとむさぼる。じいちゃんはそれを縁側からぼうっと見ている。起きているのに、夢の中にいるみたい。

「じいちゃん、どうしたの?」

 ぼくはさすがに心配になって声をかけた。じいちゃんはハッと目を覚ましたように顔を上げると、なんだか悲しそうな目をぼくに向ける。

「この間、ちょっと大変なことがあってな」

 じいちゃんはそこで唇を噛んだ。言いたくない。でも言わなくちゃならない。そんな葛藤がぼくにも伝わる。心臓を掴まれる感じがする。

「この家、無くなるみたいだ」

 にゃあ。

 とらじろうの鳴き声が聞こえた。ああ、いつもの「ごちそうさま」か。ちゃんと挨拶出来て偉いね、とらじろう。でもごめん。今は――それどころじゃない。

「無くなるって、どういうこと」

 ここはじいちゃんの家なのに、ぼくの秘密基地なのに、どうしてぼくとじいちゃん以外が無くせるんだ。おかしい。絶対におかしい。

「ゴミ処理場って、分かるか?」

 ぼくは頷いた。社会の授業で勉強した。家で出るゴミを燃やしたり潰したりしてくれるところ。小学校の焼却炉を大きくしたようなもの。

「この森があれになるそうだ。だからこの家も一緒に無くなる。秘密基地も、おしまいだ」

 おしまい。じいちゃんはその言葉を強めに言った。ぼくに言い聞かせるように。だけどぼくは、納得しない。

「なんで」

 じいちゃんは答えない。ぼくは語り続ける。

「今は住んでないけど、じいちゃんの家なのに、どうして勝手に無くせるの。他人の物を勝手に捨てちゃダメだって、当たり前のことでしょ」

 当たり前。じいちゃんがおしまいを強く言うように、ぼくはそこを強く言う。そしてぼくが納得しなかったように、じいちゃんも納得しない。

「ここはな、正式にはじいちゃんの家じゃないんだよ。借家って言って、借り続けているだけなんだ。本当はあんまり、長居するつもりはなかったからな」

 じいちゃんがまた、ぼうっとした目になる。起きているのに、夢の中。

「色々あって出て行くタイミングを無くした。いや、タイミングの問題ではないな。住んでいないのに、次も契約更新しようとか思っていたんだから」

 色々。じいちゃんの家で見た写真立ての子ども。それが亡くなった事故。

「――じいちゃんはそれでいいの?」 

 ぼくは、じいちゃんの心の内を掘り起こそうと試みた。じいちゃんだって、この家は無くしたくないはずだ。

「大切な家なんでしょ。いっぱい、思い出が詰まってるんでしょ。それがゴミ処理場なんかになっていいの? じいちゃんはそんなの、許せるの?」

 許せるわけがない。ぼく以上に許せていなかったことを、僕は知っている。だけどじいちゃんは、それを口にはしない。

「この家はもうボロボロだ。ここまで残ったことが奇跡みたいなものさ」

 じいちゃんはそう言うと、ほんの少し、皮肉っぽく笑った。

「いや、ボロボロだからこそ、残っていたのかもな」

 ボロボロだから残った。意味が分からず、ぼくは首を傾げた。そんなぼくにじいちゃんは、優しく、諭すように語りかける。

「例え話をするから、薄いガラスで出来た花瓶を想像してくれ」

 話が変わった。じいちゃんはたまに、いきなり先生になる。ぼくは戸惑いながらも、言われた通りの花瓶を想像する。

「その花瓶は綺麗だけど脆い。軽く叩くだけで簡単にヒビが入る。色々な人が少しずつ衝撃を与えて、少しずつ壊れていった。ヒビだらけの花瓶は使えるけれど、全く綺麗ではない。むしろ見ていて痛々しくなる。そしてある時、ある人が、そのヒビだらけの花瓶をとうとう割ってしまった」

 ヒビだらけの見ていて痛々しい花瓶。それを割った人。

「そうしたら、花瓶は、その人が壊したことになった」

 理不尽なお話。だけどぼくはあまり驚かない。ひどい話だけど、そうなるのが自然なような気がしたから。

「その人は、花瓶は元々壊れているようなものだったと言った。だけど認められなかった。話を聞いているお前ですら、そこまで痛めつけた人たち『も』悪いと思っているはずだ。違うか?」

 図星だ。ぼくは胸を抑え、じいちゃんは乾いた笑いを浮かべた。

「そういうものなんだよ。壊れかけのものが決定的に壊れた時、その責任は最後に壊した人に行くんだ。だから誰も花瓶を割りたがらない。ヒビを入れるぐらいなら面白半分でやるやつもいるけれど、割ることは嫌がる。みんな、『花瓶を割る人』を押し付け合って生きているんだ」

 みんな、「花瓶を割る人」を押し付け合って生きている。正しい、と僕は思う。社会に出るとうんざりするほど目にする、最終責任の押し付け合い。

「だからボロボロのものほど、長く残ったりする。俺は、こんな家は俺がいなくなればすぐに潰されると思ったから契約を続けていた。俺が離れたことで家が無くなって、俺が『花瓶を割る人』になるのが嫌だった。それを俺じゃない誰かが割ってくれると言うなら、甘えた方がいいのかもしれん。お前ととらじろうには、申し訳ないけれどな」

 じいちゃんがとらじろうの餌皿を片付けながら、自分に言い聞かせるように語る。とらじろうはいつの間にかいない。ぼくは下を向き、拳をギュッと握りしめた。

「じゃあ、またな。もっと詳しいことが決まれば、また話す」

 じいちゃんが去る。詳しいことなんか一生決まらなければいい。ぼくは心の底から、そう思っていた。


     ◆


 秘密基地で何かをする気力がなくなって、ぼくはすぐに家に帰った。夕ご飯を作る母さんを無視して真っ直ぐに自分の部屋に向かう。ベッドの上で横になっていると、部屋の窓を水滴が叩く固い音が聞こえて来た。雨が降って来たのだ。

 ――雨、降りそうだから。

 石田のあれ、当たったな。ぼんやりと昼間の出来事を思い出し、殴られた箇所がしくしくと痛む。でも本当に痛いのは、身体ではなく心だ。秘密基地に行ったのに、ぜんぜん気持ちが晴れない。

 秘密基地が無くなる。ぼくはやっとぼくの場所を手に入れたのに、それが無くなってしまう。夏の星空は、秋にチラッと残っているのを見ただけで、まだ一回もちゃんと見ていない。こと座、はくちょう座、わし座、いて座、さそり座。そして夜空に横たわる光の帯、天の川。もしすぐに工事が始まってマムシの森が立ち入り禁止になったりしたら、それも見られなくなってしまう。ぜんぶ、ぜんぶ楽しみにしていたのに。

 じわりと涙が滲んできた。神さまはなんて意地悪なんだ。せっかく楽しいことを見つけたのに、一人でも大丈夫だと思えるようになったのに、それを奪おうとする。もっと他に色々楽しいことがあって、一個ぐらい取られても悔しくないやつから奪えばいいのに、どうしてこんなに不公平なんだろう。

「ご飯出来たよー」

 リビングから母さんの声がした。ぼくは涙をごしごし拭いて、何でもない顔をして部屋を出る。今日のおかずは唐揚げ。大好きなのに、なんだかおいしく食べられない。

「どうしたの? 元気ないよ」

 母さんが心配そうにぼくを覗き込む。ぼくは「別に」と顔を逸らした。そして母さんはますます心配そうな顔をして、ぼくが明るくなるような話題を振る。

「そろそろ誕生日だね。なにが欲しい?」

 ぼくの誕生日は五月。一年に一回のお祝いの日が、すぐそこまで迫っている。

 欲しいもの。そんなもの、決まっている。マムシの森が欲しい。ぼくが持っていればゴミ処理場なんか作らせない。でもそれは無理だ。それが分からないほど、ぼくだって子どもじゃない。

 やっぱり佐伯さんとポケモンを交換する用の通信ケーブルかな。でもあんまり高くないから、誕生日にそれをおねだりするのは勿体ない気もする。それに佐伯さんとこれから上手く仲良くなれるかどうかも分からない。女の子とポケモン交換するやつって、やっぱりあんまりいないし。

 うんうんと悩むぼく。悩んでいると少しは気が晴れる。そんなぼくを見て母さんは、おかしそうに笑った。

「誕生日はお買い物に行ってから、外でお食事だから、それまでに考えておいてね」

 ぼくはこくりと頷いた。とりあえず佐伯さんと頑張って仲良くなろう。そうしないと何も決まらない。

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