04  ざけんな史書

(それっぽいサウンドロゴ)



はいっ! うそっ続いてたの!?

李沖りちゅうです。今回の投稿は……匿名希望?


「史書は嘘ばかりだ!

 陰謀だ!」


あー作者ですね。

いろいろ根っこから来ますねー。


以前に触れた事ですが、

歴史を探るにあたって接するべきは、

いわゆる、史書。

五胡十六国に限定して言えば、

晋書しんしょ宋書そうしょ魏書ぎしょ北史ほくし南史なんし資治通鑑しじつがん

となりますでしょうか。


で、この辺。まーなんというか、

二十一世紀的観点で言えば、

捏造隠蔽のオンパレードです。


そりゃそうです。

皇帝という存在は無謬にして完全。

そんな奇天烈なもんを、実際に存在した、

悩み惑うちょっとずば抜けたいち個人、

劉裕りゅうゆうさまにガチで背負わせるのは、

いささか重すぎます。


なので、せめて記述の中では

圧倒的存在となっていただかねばならない。

ここに辿り着かせるために、

史書は構築されねばなりません。


ただし、嘘ばっかりであるはずがない。

と言うより、全部嘘ですみたいな

ハァンタジー記述を行うのって、ダルい。

ダルいというか、意味がない。


だからこう考えるべきです。

どれが嘘で、どれが本当か。

この辺りを「思い込みや妄想でなく」

エビデンスをとりながら掘り下げる。

このふるまいこそが大切。


これを、史料批判と呼びます。


史料批判を可能な限り精密に行おう、

というのが研究であり、学術論文です。

なので、歴史ごっこをするにあたって、

論文を参照するのは、遊びの幅が広がる、

そう断言できるでしょう。


ちなみに、ふつう史料批判って

いくつかの併存する一次史料から

掘り下げていくものです。


が、五胡十六国周りでは

それが全然、出来ない。

なぜなら一次史料が、ほぼ、

正史くらいしか残っていないのです。


この辺りの愚痴を、その著書で

書かれている学者がおります。

川勝義雄かわかつよしお氏。

「六朝貴族制社会の研究」の中で

「正史からしか参照できないとか

 クソすぎるけどしゃーない、

 だって史料がないんだもん」

と嘆いてらっしゃいます。


宋代以降の話に聞く

「基礎史料が多すぎて参照しきれない」

事態もなかなか辛いところが有りますが、

相互参照が出来ないのも、

掘り下げたい人間にとっては辛いところ。


発掘調査による考古学的史料の

さらなる発見が待たれるところです。


……ってまぁ、小説をやりたいんであれば、

別にこの辺に付き合う必要ないんですよね。

無邪気に劉裕に千人斬りやらせとけばいい。


ただ、ただですよ。


今更その手の講談にきゃっきゃできるほど

お子ちゃまでもありません。

だって厨二だからね。


だから、史料批判。

こいつを踏まえたごっこ遊びすると、


陰謀論が構築できて面白いです。

(えびでんす を とる きが

 まるで ない)



 ○  ○  ○



はあ、前置きがアホみたいに

長くなっちゃいましたね。


というわけで、そのへんの話をしましょう。

今日の主役は、劉裕のライバル、劉毅りゅうき


宋書武帝本紀では、

劉裕に押さえつけられて不満をおぼえ、

反乱起こそうとしたけど未然に殺された、

という、非常に冴えない役回りです。


が、まーこいつも掘ってみると、

いろいろ面白い。

ざっと要素を書き出しましょう。


1木っ端扱いされてるけど、かなりの名家。

2最終官位の「衛将軍」ちょうヤバい。

3対決時の劉毅、いくらなんでも鈍すぎ。

4劉毅死後、やけに劉裕の部下が昇進。

5晋書記事の由来が胡散臭い。


以上5点について検討します。



木っ端扱いされてるけど、かなりの名家。


劉裕の一般的な認識は

「庶民上がりが激烈な下剋上を果たして

 皇帝になった」ですが、

ここがすでにドボン。


劉裕の生まれは祖父が太守で、

夭折した父が功曹こうそう

つまり、官吏の家の生まれです。

仮に祖父の地位が盛られているにせよ、

父の地位は決して底辺ではありません。

豊臣秀吉とよとみひでよし朱元璋しゅげんしょうのごとき

ド底辺スタートではないのです。

それにしたってすごいんですけどね。


そして、対抗する劉毅。

様々なエピソードが、まるでかれを

「劉裕そっくりの境遇の豪傑」

っぽく演出しています。


が、劉毅のプロフィールを見ると、

叔父が「光禄大夫こうろくたいふ」なる官位を貰ってます。

これ、かなりのトップ官位。


当時の役職は九品、つまり

九つのランクに分けられていました。

上に出てきた太守は五品、

功曹は八品か九品。

対して、光禄大夫は三品です。


そして官品ってやつは、家柄に応じて

上限が定められています。

ここから、劉裕の家柄は

まったく劉毅とは比較にならなかった、

という事実が見いだせます。


本来、この二人を同列に見てはいけません。

なぜなら家柄はそのまま

人脈にも繋がります。


もともとの環境がまるで違う二人が、

「無頼の徒仲間」として括られている。

それによって流通するようになった

「劉裕は立身するに従って

 昔の仲間を疑うようになり、

 次々と粛清していった」

という論調は、あまり素直に

受け入れるべきでない。


はじめから利用し、

利用される間柄であった、

と認識するほうが、妥当性は高いでしょう。


あ、ついでにいうと劉毅は

はい国劉氏」と呼ばれる一族の出です。

この頃の中国人、所属と姓が一致すると

親族扱いになります。これ豆な。


ところで沛国出身の劉氏って、

ひとり、クッソ大物がいるんですよね。

かん帝国太祖、高皇帝。劉邦りゅうほう

はい伏線ですよー。



○2

最終官位の「えい将軍」ちょうヤバい。


将軍号ランキングは、ざっと30くらい。

統括者が太尉/大司馬/大将軍。

以下、驃騎ひょうき車騎しゃき、衛、と続きます。

劉毅討滅ごろで言うと、

劉裕が太尉兼車騎将軍で、

劉毅が衛将軍でした。


この頃の驃騎将軍は名前が残っていません。

つまり劉裕が名前の残るナンバーワン、

劉毅がナンバーツーなわけです。


ってえことは、ですよ。

この対立が顕在化するってな、

晋軍が真っ二つに割れる、

位の事態になるわけです。


「謀叛を起こそうとした」とか、

そう軽々しく言える話じゃないですよ。



○3

対決時の劉毅、いくらなんでも鈍すぎ。


つーか劉裕の劉毅討伐、ヤバイんですよ。

ほぼ部将の王鎮悪おうちんあくが一人で片付けています。


そして、王鎮悪伝を読む限り、

その手口は完全な不意打ち。

劉毅の配下武将たちは、

劉裕軍から攻められる認識を得るのに

かなり出遅れ、ほぼ応戦できていません。


戦いは勝ってなんぼ。

けれども、史書の言う通り、それが

「逆賊の討伐」であるならば、

劉毅の反応がそこまで鈍いのは、

はっきり言って異常です。


だって「逆賊の宣告」、いわば

宣戦布告を受けるわけですからね。

臨戦態勢になったのであれば、

いくら不意打ちを受けたところで、

一軍でホイホイ抜けるはずがありません。


そして、逆賊討伐という宣言がなければ

両陣営の戦いは、ただの内紛。

つまり私闘に近いものであり、

そんなもの、世論が許さない。


なのに、それが許された。


劉毅討伐に先立って、シンパであった

二人の名族が殺されました。

謝混しゃこん郗僧施ちそうしと言います。

かの謝安しゃあん、かの郗鑒ちかん郗超ちちょうの親族。

特に謝混は、当時の文壇を席巻した人物。

つまり、世論へリーチする力が高い。


宣伝力の高いふたりを先に

切り落とした上で、

悪評が広がるよりも前に、

速やかに、劉毅を討った。

その後、劉毅に逆賊のレッテルを貼った。

そのようには、考えられないでしょうか。


この仮説に求められるのは、

実行部隊のスピードです。

宋書王鎮悪伝ははこう語ります。


王鎮悪の建康けんこう出発が九月二十九日。

江陵こうりょうの手前、すなわち劉毅軍の門である

豫章よしょうに到着したのが十月二十二日。


宋書はここで記述をぼかしますが、

宋書武帝紀によれば「十月には」

劉毅討伐が完了した、と述べています。

つまり、実質的な戦闘期間は一週間弱。

「謀叛を企んでいた」にしては、

あまりにあっけなさすぎる。


ついでに王鎮悪伝は書いています。

劉裕本隊が到着したのは、

劉毅討滅完了の、更に20日後。


建康から江陵までの旅程は約900㎞。

王鎮悪軍が約23日で、

劉裕軍本軍が約40~50日で、

この旅程をこなしました。


いくらなんでも先遣隊を突出させ過ぎです。

本隊でもって止めを刺そうという意思が、

まるで感じられない。

はじめから先遣隊で完結させようと

思っていたようにしか感じられません。


だって、20日以上も先遣隊を

戦線に晒させたら、本隊到着前に

だいぶ損耗しますもの。

下手すりゃ全滅すら

喰らいかねないでしょう。


けど、そうはならなかった。

そうはならなかったんです。


以上から、王鎮悪の江陵到着時、

劉毅には「まだ」戦端を開く気はなかった、

と認識できます。


もちろん、そこを想定できずに

うまうまと王鎮悪の侵入を許した、

この点だけ取れば

咎められても仕方ないでしょうけれど。



正面切って戦えば被害は甚大となる。

その為劉裕は電撃作戦を遂行し、

敵本陣を抜く必要があった……

たとえそれが、だまし討ちに近い形でも。


さて、ここで伏線回収。

東晋末期、ふたりの劉が覇を競いました。

片方はよくわからん劉、

もう片方はいいとこ出身、

しかも沛国人の劉。

「劉邦とのつながりを謳える劉」です。


この両名が「正面切って」ぶつかる場合、

どちらの正当性が高く感じられるでしょう?

もう一度言います、

「正面切って」であった場合。


両雄並び立たずの

情勢がはっきりすれば、人々は、

どちらかを選ばねばならなくなります。


正々堂々、なんてなー戦争の悪手。

言うまでもありません。

それにしても、速すぎる。


この奇妙な速さには、劉裕陣営にとり

「両雄並び立たず」を現出させるのが

非常に厄介であった、と推測されます。


世論形成を考えれば、

劉裕と劉毅のどちらがイケてるか、

なんて人々に提示しちまうのが、

もはや劉裕陣営にとっての悪手です。


なので、そんな判断させる余裕を

世論に与えなかった。


つまり、いま残されている結果よりも、

両陣営の勢力はもっと拮抗していたのだ、

と予測されます。


この点については、別の点からも

推測を補強できます。



○4

劉毅死後、やけに劉裕の部下が昇進。


史書について、シンプルな事実。それは

「全ての大臣や官吏を書いてはいない」。

そんなもん書いてたらきりないです。

載せるはずがない。


と言う訳で、誰かがある官位に昇進した、

そう書かれたときは、名無しの誰かが

「その官位ではなくなった」わけです。


劉裕と言う人の出自は、将軍。

その権力は軍権が担保します。

ここの権力推移をなにで見るか。

配下司令官の存在、でしょう。


晋の軍事ヒエラルキーは二種類あります。

一つは将軍号。驃騎だとかいったやつです。

もう一つが都督ととく制。

軍部の指揮権の大きさを区分けし、

都督-督-監の3グレードに分ける。

都督が方面総司令、

督が方面司令、監が軍団長、

と言った感じでしょうか。


で、宋書列伝に乗る、劉裕配下の将軍。

基本的に都督レベルは劉裕と、

その弟劉道規りゅうどうきぐらい。あと劉毅。

督どころか、監にも

ロクに名前が挙がりません。


が、 412 年、つまり劉毅を倒した年。

突然「監」を飛ばして、「督」に

向靖しょうせい孔靖こうせい檀祗だんき孟懷玉もうかいぎょく

の、四名がついています。

いずれも「何の功績によって」の

昇進かは書かれていません。


「誰か」がいなくなったので、

その席が回ってきた。

じゃあ、その「誰か」って?


イヤーグウゼンッテフシギデスネー。



○5

晋書記事の由来が胡散臭い。


1~3までで、

「変に真っ向勝負やっちゃうと

 ヤバいから、不意打ちしてでも

 劉毅を倒しておく必要があった」

ことを書いてきました。


結果、劉毅シンパの削減に成功。

ここまできてようやく

劉裕の独裁権が固まってきた、

と言えるでしょう。


一般に知られている人物像ほど、

劉毅という人物は

チョロくなかったのではないか、

そう示したかったのですね。


ところが、これに

反論することのできる記述がある。


「んなこといったって、晋書でも

 劉毅がクソみたいな人物だって

 書かれてるじゃん。」


毅剛猛沈斷,而專肆很愎,與劉裕協成大業,而功居其次,深自矜伐,不相推伏。及居方岳,常怏怏不得志,裕每柔而順之。毅驕縱滋甚,每覽史籍,至藺相如降屈于廉頗,輒絕歎以為不可能也。嘗云:「恨不遇劉項,與之爭中原。」又謂郗僧施曰:「昔劉備之有孔明,猶魚之有水。今吾與足下雖才非古賢,而事同斯言。」眾咸惡其陵傲不遜。


要約すると、

軍才すげえけど劉裕に嫉妬してた。

ことあるごとに傲岸不遜な発言をし、


廉頗れんぱのように藺相如りんしょうじょ

 屈することはできない、とか、

 劉邦りゅうほう項羽こううみたいに決戦したい、とか、

 劉備りゅうびみたいに北伐の志を抱く、とか、

 要するに劉裕と戦いたい、

 と漏らしていた)


そのため周囲からは憎まれた。

「そんなありさまだから

 討伐されても仕方ない」

と、晋書は書くのです。


ちなみに晋書、劉裕のことを悪し様です。

晋書安帝本紀恭帝本紀を見ると、


「十二月戊寅,安帝崩。劉裕矯稱遺詔」

 安定陛下が亡くなった。

 ら劉裕、陛下のお言葉偽装しやがった。


「兵人逾垣而入,弑帝于內房」

 兵に強襲させて、

 よりによって恭帝陛下を殺害しやがった。


みたいな感じで劉裕の行動を糾弾。

つまり晋書は「アンチ劉裕」っぽい。


そんな晋書が劉毅を悪し様に書いている。

ともなれば、やっぱり劉毅は

クソだったんじゃねーの?


……とも、言えなくもない。


っが、晋書。

成立がとうの時代です。


一方の宋書はりょうの時代の成立。


つまり、宋書のほうが先に成立していて、

晋書は宋書、及び宋書執筆のための

諸参考史料を基に編纂されていた、

と思われます。


その傍証が、晋書卷八十五の編成と、

宋書編纂者、沈約しんやくの自序。


晋書卷八十五は、

以下の人物を所収しています。

劉毅、諸葛長民しょかつちょうみん何無忌かむき檀憑之だんひょうし魏詠之ぎえいし

つまり劉裕と共に桓玄かんげん打倒をなした人物。

いずれもが宋成立前に死亡。


一方で、沈約は自序でこう語っています。

宋書は何承天かしょうてん山謙之さんけんし蘇寶生そほうしょう徐爰じょえん

と言った人物から引き継がれ、

自分の代で完成に至った。

また自分の最終的な編纂にあたって、


A桓玄、譙縱しょうじゅう盧循ろじゅん司馬休之しばきゅうし魯宗之ろそうし

吳隱之ごいんし、謝混、郗僧施

C劉毅、何無忌、魏詠之

 檀憑之、孟昶もうちょう、諸葛長民


の各人物の伝を削った、と表明。

ここでグループCの人物と

晋書卷八十五の人物がほぼ一致しているのは

偶然ではないでしょう。


晋書卷八十五は、

劉裕が滅ぼした劉毅、諸葛長民を貶し、

そうでない残りの人物を称揚しています。


これ、おそらく、沈約が削った

旧「宋書」の記述を、晋書の執筆担当が、

イデオロギー的な調整もしないままに

そのまま晋書に編入させています。


なら、劉毅がクソとも書かれるでしょうよ。

……とも、言えなくもない。


そうすると、

「本当に劉毅とか諸葛長民って

 クソだったの?」

とも疑問が浮かぶのです。


クソじゃなかった、とは証明できない。

一方でクソだった、とも証明できない。


あ、こうは確定できますね。

「劉裕陣営にとっては」クソでした。


「討伐されても仕方ない」ってんなら、

それだけの悪事をあげつらえばいい。


だって、完全にして無謬の皇帝。

その、敵なのです。

どうしようもないゴミでなきゃなりません。


そう、書かなきゃいけないでしょう。



  ○  ○  ○



三國志と劉裕周辺を比較すると、

かなり決定的な違いがあります。

それは「対抗勢力の存在感」。


に対するしょく

ご存じの通り、英雄百彩です。

一筋縄に行かない、故に面白い。

何故ならば「天下が三つあった」ことを、

人材レベルでも証明する必要がある。


一方で、宋に対する諸勢力。

宋以外の人物は精彩を欠きます。

シンプル、故に面白みがない。

何故ならば

「宋の元に天下がまとまった」から。

そして、これもやはり人材レベルで

証明される必要があります。


この点が、

物語流通において三國志以外を

「つまらない」と感じさせる

原因なんではないかな、

そんなことを想うのですね。

もちろん、ただの憶測&憶測ですよ。



以上も作者の妄想ではありますが、

以下、作者の更に雑感です。



人間集団、そうそう時代によって

才覚に差があるとは思えません。

あるのは環境であり、社会情勢。


こことの相性がどう噛み合ったか、が、

「英雄」の業績を生んだのでは、

そう、考えています。


どの時代にも偉才、雄才はいる。

けれども、それ以上に

「時代の潮流」は甚大である。


全ての業績は

「結果」でしかないのです。


有能無能の評価は、

そう安易に下すべきものでは、

きっと、ない。


けれども史書は、

「皇帝」と言う最強の才覚を打ち立て、

その才覚が時代の潮流をも支配した、

そう描き出します。

そう描き出すべき性格の本だからです。


ならば、記述の奥にある

時代の潮流を見出すことによって、

はじめて見えてくる人物の側面も

あるのではないでしょうか。



……この辺りを、敢えて

強い言葉で装飾してしまえば、

「嘘」「陰謀」って言葉も

使えてしまうでしょう。


だって「事実とは言えない」からね。


だからこの表現も、むやみに

否定すべきではないのかな、

って思っています。


かと言って、変に対立姿勢になるのも

どうかって思いますけどね。



いずれにせよ、史書ってやつは、

難解なジグソーパズルみたいな代物です。

あっちのパーツと、こっちのパーツ。

それぞれを引き合わせ、照らし合わせて、

ようやく見えてくるものがあったりする。


素人遊びで取り掛かっても、これだけ

面倒くさいものが書けちゃうんです。


専門家がガチで、エビデンスを取って、

なんてことをやったら、そりゃもう

いくらでも掘り込めよう、ってもんです。


いくらでも噛めるし、

いくら飲み込めた気になっても、

やっぱり全然飲み込めてない。


そう言うクッソ厄介な奴、

それが、史書。



ならばこそ「ありがとう!」だし、

ならばこそ「ざけんな!」なのです。

まったく、歴史って面倒くさいですねー。



と言ったところで、お時間となりました。

長々とした戯言にお付き合いくださり、

ありがとうございます。


それでは、また!



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