そして始まる下僕ライフ

 あれから二週間後の今、俺は再び先輩の指示で屋上へと向かっている。

 呼び出しの手段は、思わせぶりな手紙から面と向かっての命令に代わった。指示内容はただの買い出しに成り下がった。そして颯爽とした駆け足は、上り階段のかなり裾野の段階で緩慢なてくてく歩きに成り果てていたとはいえ。

 必然的に先輩と顔を合わせる機会は激増した。剣を欲したとき、鞘代わりである俺がいなければ話にならない。毎日のように美女とお近づきになれる特典は、それまで干涸ひからびた生活を送っていた俺には甘美なものだったし、生来のコミュニケーション不全もこと先輩に対しては大幅に改善されたはずなのだが、その分苦労も絶えない。

 先輩の言葉を思い出す。


 ――いつ如何なるときでも即座に抜刀できるよう、柄は常時晒しておかねばならぬ。


 当然、俺は反論した。肩の上にこんなおかしなものを生やしていたら、目立って恥ずかしいことこの上ない。せめて靴下か何かを被せて……。


 ――これは契約でなく命令である。何かで隠すような真似をすれば殺す。


 その、殺すに至るまでの短すぎる距離感、どうにかなりませんかね……。

 おかげで買い出しのため街を歩いているだけでも、道行く人に要らぬ声をかけられてしまう。柄を出すために、着る上着には凡て鍔の大きさ分だけ肩に切れ目を入れなくてはならないし、この季節は隙間風が寒い。家人にすら痛い奴だと思われている悲しい事実を、癒してくれるものなど何もないのだ。

 大体、何故に先輩は大量の瞬間接着剤なんて代物をわざわざ買いに行かせたのか。真意は彼女の、その何色かは判別しがたいが少なくとも灰色ではなさそうな脳細胞のみぞ知るところだった。


「なんなんだろうな、あの人……」


 未だ先輩の言動に関しては、和製ヘイスティングズたる自分には計り知れないところがある。他の追随を許さぬ、と言ってしまえば聞こえはいいが、要はついていけないということだ。

 もっとも、ワトソンにすっかりお株を奪われたこのヘイスティングズ氏を先輩が知っているとは到底思えないし、かくいう自分もミステリに対する広範な知識を有するわけではない。この半月でやったことといえば、ニッチなニーズに応えることで有名な某出版社が刊行中の『月刊世界の名探偵』を貧弱な懐具合と相談の上数冊買い込み、付け焼き刃ながら使えそうな固有名詞を多少頭に叩き込んだくらいだ。世紀の名探偵シャーロック・ホームズがその博学多才ぶりに反して、意外にも文学や哲学の知識は皆無であることもその雑誌で知った。先輩も本を読んでいる姿なぞ見たことがないし、その点は似てなくもないか。

 でも本来なら、名探偵を僭称する先輩こそ最低限の勉強をして然るべきだろう。目下探偵修行中の身なのだから。本人にはその自覚すらなさそうだけれども。

 とにもかくにも、先輩のケースは、古今の名だたる探偵諸氏に共通する、頭の回転が速すぎるが故の一見突飛な発言や、深すぎる洞察力による奇矯な振舞いといった類いのものではなかった。そもそも推理推論の大前提たる論理的思考を全く解していないふしがある。

 女性的な鋭いカンとも異なる、論理を超えた得体の知れないもの。超論理の世界に生きている。そんな気がしてならない。

 論理が通じない、論理を超越している先輩に、論理の下僕たる探偵が務まるわけがないのだ。探偵の対極にあるような御仁なのだからして。

 もしかしてあのヒト、単なるワガママ女に過ぎないのかも……。

 一番しっくりくる、そして一番信じたくない可能性を必死に打ち消しつつ、俺は処刑台に向かう死刑囚の心境で永遠と思われる階段を上り続けた。冷たくも麗しい、日本人離れした先輩の美貌を思い浮かべながら。

 やれやれ……美人はそれだけで罪なんだ。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 結局、屋上で待っていた先輩は接着剤の用途については黙殺の上、戻るのが遅すぎる、パシリが走らないでどうする、殺すぞという罵倒のみ浴びせかけてきた。最後のはもう口癖に近い。

 これが息を呑むほどの美人でなかったら、とっくに見切りをつけて病院なり警察なりに駆け込んでるところだが、異性に対する免疫の無さが俺の場合は完全に裏目に出ていた。

 俺は美人に弱い。弱すぎる。そういう意味では、先輩の見立てはまことに正鵠を得ていた。

 籠絡ろうらくなどという手の込んだ技巧でもなければ、欺瞞に満ちた詐術のやり取りでもない。これは一方的な支配に過ぎなかった。美女に声をかけられるのみならず、左肩に凶器を埋め込まれるというただそれだけの、それでいて恐るべき呪縛!

 本当勘弁してほしい。


「ちょっと推理してみていいですか」

「推理だと? 何を推理することがある」

「接着剤の使い途ですよ」


 ほほう、と面白そうに微笑む先輩。その後の沈黙は続きを促していると好意的に解釈し、俺はにわかに居住まいを正した。

 先輩の探偵道は、王道はおろか脇道すら無視する迷走ぶりで、異端中の異端。助手である自分がこうして正しい探偵の有り様を示し、都度軌道修正する必要がある。改善の兆候は微塵も見られないのはともかく。

 それにしても、なんと甲斐甲斐しい助手であることよ。助手の鑑だ。というより、助手にそこまでさせる探偵の腑甲斐なさこそが問題なのだが!


「俺のですね、肩の傷口を、それで塞いでくれるとかじゃないですか?」


 俺が大量購入したシアノアクリレート系の瞬間接着剤は、確か止血を目的として開発されたと聞いたことがある。


「笑止」口の端を持ち上げ先輩は言った。「どうせすぐ我が剣で塞ぐのだ。意味がない。パシリ風情の推理は所詮その程度か」


 剣で突き刺すのを、普通塞ぐとは言わないんですが。


「ま、まだあります。別の推理」

「下らぬ内容だったら殺すぞ」

「う、じゃあいいです」

「気になる。話せ」


 俺は殺される覚悟で、こないだ真っ二つにした野球のボールをくっつけるためじゃないですか、と自説を述べた。


「で、直したボールをどうするのだ。その間抜け面にぶつけてもらいたいのか?」


 先輩は嘲るように言うのみならず、外れも外れ大外れ、そんなことをする意味が判らん、大見得切ってその程度か、いっぱしの口を利くなと大いに蔑まれ、終いにはお前の頭もかち割ってやろうかと凄まれるに及んで、俺はこれ以上言葉を費やすのをやめた。

 なんとまあ報われない所業の数々。多難の一途を辿ること請け合いの前途に、胸中嘆息を禁じえない。

 絶望的な俺の下僕ライフは、まだまだ始まったばかりなのだった。

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