第4章 ⅩⅢ


 椅子を倒しながら立ち上がったシャルロットが顔に動揺を走らせるも、すぐに嘲弄の笑みを浮かべる。ローグの両手は空っぽで、銃を構えてはいない。


「バイオレット・ムーンだって。まさか、ここに直々と現れるなんてねぇ。良いのかい? 今頃、ヘレンが人買いに攫われているだろうさ。ふふふふ。残念だったねぇ」


 しかし、ローグはシェルロットの浅慮を嘲笑うかのように、短く鼻を鳴らしたのだ。


「ほお、そうか。……で、その人買いはどれだけの戦力だ? 全員、サーベルを持っているのか? 小銃を持っているのか? 馬に乗っているのか? 機関銃は? ダイナマイトは? 毒は? 狩猟犬は? あんまり、俺の部下をなめないでもろおうか。ヒューロは空を自由自在に跳び、セシルは二マイル離れていても獲物を追跡する。アリスの方は、うん。まだちょっとあれだけど、ガッツがあるし、なかなか見所がある。分からねえのか? 手前らはライアークと俺の情報を全て、掴んでいるつもりだろうが。あの御仁はお前の考えなんざ、全て〝お見通し〟だ。天網恢恢とはこのことだな」


 みるみるうちに、シャルロットの顔に怒気が増す。だが、ローグの目を見て顔を蒼白に変えた。この場でもっとも怒りを露わにしているのは、他ならぬ彼自身なのだから。


「どうして、ヘレンの目の敵にする? 血は繋がって無くても、親だろうが。情ってもんがねえのかよ。手前、これだけ良い暮らししているじゃねえか。何が不満なんだよ」


 ライアークは多くの事業に着手し、今や上層中流階級(アッパー・ミドル)の地位を築いている。この屋敷も、維持費と人件費だけで年間二百ポンドに届くだろう。シャルロットの性格は優雅自適であり、大抵の願いは叶えられるだろう。ヘレンの身を消してまで、金を得ようとする理由など、ないはずだ。なのに、女は深紅の紅を塗った唇を裂かんばかりに歪めて語る。その姿は、ヒューロから教えられた、山奥に住む化け物〝山姥〟に似ていた。


「良い暮らし? これが? はん、足りないね。私のような女に、この程度の生活なんてまるで似合っていない。もっと綺麗な宝石を、もっと豪奢な服を、帽子を、靴を。欲望っていうのは、蜂蜜酒みたいなものさ。甘くて、魅力的で、なのに喉が渇く。だから、どんどん飲まずにはいられない。そして、喉の渇きばかりが募るのさ」


 パチンと女が指を鳴らす。すると、壁際に控えていた使用人二人が上着の内ポケットから瞬時に黒い塊を引き抜く。それは、回転式拳銃だった。撃鉄は起こされ、銃口は淀みなくローグに向けられる。立場は逆転したとばかりに、シャルロットが高笑いする。


「あーはっははっはははははっははははははは! どうしたんだい怪盗さん。ほら、抵抗してみなよ。やっぱり、ロンドンの男っていうのは脳なしだねぇ。女王が治める国なのに、女を見下すからそうなるんだ。結局、最後に」


 窓もドアも閉められたはずの室内に、風が吹いた。翼を持たぬローグの両腕が音さえ置き去りにして交差し、大きく広げられる。まるで、荒鷲が、己が翼の感触を確かめるように。続けて、くぐもった悲鳴。男二人が、その場に倒れてしまう。

 極寒の瞳で男達を見下ろすローグ。彼は何も難しいことはしていない。ただ、袖口に隠していた小振りのナイフを二本ずつ引き抜き、投擲しただけだ。銃口を弾き、続けて肩口を深く突き刺す。これだけで、人間は銃が使えない木偶の坊と化す。自分の優勢を信じて疑わなかったはずのシャルロットが、悪魔が現実世界まで襲ってきたかのように顔を蒼白に変えた。あまりにも愉快だったから、ついつい笑ってしまう。


「遅いぞ、ド素人が。ヒューロなら半秒あれば三度殺せる時間だ。……拳銃っていうのは、標的を殺すのも簡単だが、防ぐのも簡単でな、銃口をずらし、利き手を傷付けるだけで、事足りる。悪いが、良い的だったぜ。今度は二百ヤード離れた位置から機関銃でもぶっ放すんだな。さあ、御夫人。此処に俺がいて、君がいる。それで、十分だよな?」


 いつの間にか、ローグの右手には銃器が握られていた。人によっては、まるで霞みが突如具現化したようにも見えるだろう。ヒューロとセシルを従える彼が、弱いはずがない。

大国・イギリスが誇る銃器メーカー、ウェブリー社が数年前に開発したウェブリーMk・Ⅰ。堅牢な八角形銃身(オクタゴン・バレル)で、銃身下のヒンジを折る〝中折れ型(ブレイク・オープン)〟の装填&排出方式だ。弾薬の装填数は合計六発、使用する弾薬は『WEBLEY四四五』であり、速度こそ音に届かないものの、大口径に数えられる重量系の弾丸で、威力は高い。人間を傷付けるには、十分過ぎる。撃鉄は起こされ、銃口は淀みなく女狐へと、向けられる。シャルロットが一歩後ろに下がる。それでも、到底逃げ切れるものではない。


「ま、待ってくれ。なあ、話し合おうじゃないか。金ならいくらでも払う。この身体を好きにしても構わない。ほ、ほら、こんな体、娼館じゃ有り得ないよ。貴方が望むなら、どんなことだって」


 プライドをかなぐり捨てて女が命乞いするも、ローグは依然として拳銃を構えていたままだった。その双眸に射竦められ、女が泥水を被った野良猫のような悲鳴をあげる。


「手前みてえな人間がいるから、傷付く連中がいるんだよ。だから、諦めろ」


「な、何を諦めろって言うんだい!? ああ、畜生! この国には、もっとマシな男はいないのかい!? こんな国、とっとと滅びればいいんだ。せっかくフランスからわざわざ来たっていうのに、汚くて、騒がしくて、憎たらしい! こんな国が大英帝国だって? だったら、もっと私に貢げ男共! 私は、選ばれた人間なんだ! 私が、こんなところで終わっていいはずがないんだ!」


 銃口を向けられたシャルロットが、ヒステリックに叫ぶ。ローグは、女へと憐憫と悲愴を覚えた。


「……そうだな、こんな国が大きくて帝国だなんて、おかしいよな。ライアークから聞いてたぜ。お前、最初の頃はヘレンを慕おうと努力していたんだろう?」


 シャルロットが、初めて雷を見たかのように両肩を震わせた。ローグは、ライアークから聞かされていた。義母である彼女の生い立ちを、その半生を。だからこそ、撃つ前に語ってしまう。この女の今とこれからを問うために、過去を告げなければいけない。


「ヘレンが好みの紅茶を淹れて、社交界の時はハイドパークを馬で一緒に回ったんだろう? お前はきっと、良い母親に成れたのかもしれなかった。けれど、金に目が眩んだ。もしかして、怖かったんじゃないのか? 今の幸せがいつか、崩壊してしまうのが。この大不況だ。いつ、自分達の生活が脅かされるか分かったもんじゃない。貴族の優位性なんて、あとどれだけ続くのか。知ってるか? 誤った埋葬を防ぐために、息を吹き返した仮死者が外部の人間に助けを求めるために、棺桶に呼び鈴を付けた発明家、ジョージ・ベートスンは、結局、自分の発明を信じられず自分の工房で焼身自殺を果たした。人間、求めた末路以外の死なんて怖いよな。だから、手前は今の贅沢を失わないためにも、ヘレンが邪魔だった。俺が言うことじゃねえが、ごめんな。ロンドンは人を試す。ずっとずっと変わらないものなんてないんだ。怖いよな。今の生活が壊れるのは確かに怖い。俺だって、もう一人ぼっちは嫌だよ」


 そうして、ローグは拳銃のグリップを握る右手に力を込めたのだ。

 シャルロットが目や鼻、口から様々な体液を垂れ流しにして首を横に振るも、ローグは静かに語る。


「俺は、人を撃たないと決めている。……けどな」


 そして、引き金は人差し指へと触れる。


「人の心を失った〝外道〟は容赦なく撃つと決めている」


 ――大気を鈍く叩く銃声が一発、室内に重く響き渡る。


 生温かい液体を撒き散らし、女がその場に膝からがっくりとくずおれた。ピクピクと、まるで絶頂したように全身を痙攣させ、一向に起き上がる気配はない。ローグは、銃口から伸びる硝煙に息を吹きかけ、やれやれとばかりに肩を竦めたのだ。


「さあ、これで一先ずは終わりだ。後は、ゆっくり考えろ。やり直すか、それとも、畜生の道を進むかは、手前次第だよ」


 シャルロットを見下ろしながらローグが語る。女は死んでいない。耳元のすぐ傍を弾丸が通った精神的ショックで気絶したのだ。命に、全く別状はない。もっとも、口から白い泡を吐き、目を飛び出させんばかりに見開き、股間を汚水で汚す様は、淑女としては死にも等しい姿だったかもしれない。


「ったく、手間をかけさせるな、馬鹿野郎。俺はこれでも、優しい怪盗を目指してんだよ、畜生が。……生憎と、俺はこういう形でしかヘレンを救えない。別に、いいだろう、それでも。あんなに可憐な女の子が幸せに過ごせる未来を掴めるのなら、俺は喜んで自分の手を悪事で汚すさ。それに、俺は独りじゃない。だから、こうやって戦っている」


 やがて、騒ぎを聞きつけた別の女中が駆けつけるだろう。ローグは銃を上着の内側に縫い付けたホルスターに戻し、コート掛けから愛用のコートを返してもらう。帽子を深く被り直し、ステッキは肩に担ぐ。そして、窓を開けて枠へと足をかけた。


「じゃあな、シャーロット・ストーナー。もう少しでヤードが駆けつける算段だから、それまでの辛抱だ。もう二度と、君に会わなくて済む未来を望む」


 ローグは乾いた微苦笑を零し、一気に跳び下りた。僅かな浮遊感、続け、身体が地面へと引っ張られる。瞬く間に身体は裏庭へと落ち――、


「――よっと。いたた。やっぱり、ヒューロみたいに上手くはいかないな」


 軽い調子で腰を叩く怪盗。二階からの衝撃を、彼は膝を折り畳むタイミングを絶妙なクッションにして相殺した。ローグは帽子の乱れを直し、一度も振り返らずに裏庭から裏門へと移動し、何事もなかったかのように屋敷を後にする。


「さあて、部下の様子でも見に行くとしようかな」


 パイプを口に咥え、ローグは呑気に呟いたのだった。



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