第4章 Ⅰ


「これは、一体全体、どういうことですか? 貴方、何か知っているんじゃないのかしら」


 シャルロット・ストーナーは、食堂の席に座る初老の男――己が夫であるライアーク・ストーナーへと鋭い声を飛ばす。現在、土曜日の午前九時。本来は朝食の時間であり、オムレツやマフィン、ランプステーキ、ベーコンとポーチドエッグ、その他様々な料理が豪勢に並ぶ丸テーブルを囲むのは二人だけだった。壁際には使用人が数人待機しているものの、壁の一部になる作業に勤しみ、誰も口を出そうとしない。だから、非難を浴びるのは、立派な顎髭を蓄えた彼一人だけだった。わざとらしく紅茶を啜り、ゆっくりと言う。


「どういうことか、とは、なんのことだ? もっと、分かりやすく言って貰えるかい?」


「……あら。あくまで白を切るつもりですか。それとも、本当に知らないのかしら。イブニング・スタンダードの早版を買った使用人の彼女が偶然にも見付けたんですよ。憂鬱かつ業腹な記事をね。知らないのなら、読んだ方がいいわよ。これからのためにも」


 シャルロットが指を鳴らすと、壁際で待機していた一人の若い女性使用人が右手に持っていた新聞を恭しくライアークへと際し出す。いつも読んでいる朝刊とは別の新聞を受け取った彼は食事の手を止めて新聞を開いた。暫しの間、視線を巡らせ、そして、僅かに驚いたように目を見張る。


「これは、なんとも。いや、驚いた。……しかし、これは私も知らなかったことだ。神に誓って、私は宣言する。私は、この記事に全く関与していない。疑うのなら、この出版社に直接、電報でも送ったらどうだね? それとも、君の方こそ、なにか想うところがあるのではないか? 確かに、この記事は大袈裟に現実を歪めている。しかし、全てが虚実というわけではない。特に、ここの『娘が受け取った遺産の内、七百ポンドを勝手に使い込んだ』という部分は事実ではないか」


 ライアークの声はあくまで冷静だった。しかし、そこに己が妻の憂いに嘆く夫としての姿はなかった。むしろ、逆。まるで、憎き仇を見るような眼光だった。シャルロットは片眉を上げ、ギシリと奥歯を鳴らした。二人が注目する記事のタイトルは『ストーナー家の確執。娘ヘレンと義母シャルロットの歪な関係』。内容は怪盗〝バイオレット・ムーン〟に捕まったヘレンを案じる冒頭から徐々に、義母を糾弾する文章へと変化していくゴシップ満載な内容だった。

 記事曰く『義母は娘のヘレンを金蔓としか思っておらず、遺産を好きなように食い潰している金の亡者だ』『此度のヘレン嬢誘拐事件にもなんらかの形で関わっている』『娘がいなくなって特をするのはシャルロットだけ』等々、等々。今頃、どれだけのロンドン市民が情報を共有しているだろうか。昨日までは〝娘を誘拐されて悲愴に暮れる良き母〟だったが、その評価は大きく変化するだろう。

 ロンドン市民はゴシップとビール、賭け事が大好きだ。とくに、貧しい下流階層の人間は富める上流階級の人間が〝糾弾〟されるのを娯楽の一つとして数えている。なにせ、数十年前までは、今まさに罪人が絞首刑になる様子を熱狂過激に見学し、ビールを飲んだほどなのだから。他人の不幸は蜜の味とは、よく言ったものだ。電話も電報も必要ない。人の噂はロンドン全域を覆うスモッグと同等だ。だからこそ、もう手遅れなのだ。

 シャルロットはライアークを睨みつけ、ただ、何も言わずに紅茶を啜った。ここで口論しても平行線を辿るだけだろう。そもそも、夫が出版社に告げ口したなど、可能性としては限りなく低い。そんな行動をとれば、今度は『情けない夫。妻に直接言えない愚痴を他人にバラす』などと新しいゴシップが生まれるだけなのだから。プライドだけは人一倍高いロンドンの男が、そんな情けない真似をするはずがない。


(……なら、この新聞記事にある情報は誰がリークした? 使用人? まさか、私に逆らう使用人は最早誰もいない。なら、ヘレン自身が? 仮にそうだとしても、他に協力者がいるのは十中八九間違いない。まさか、忌ま忌ましいあの怪盗〝バイオレット・ムーン〟が協力を? この人は余程に信用しているらしいけど、この一手は、何を意味しているのかしら。私の心証を悪くすれば、私が何かしらの行動を取るとでも考えて……)


 シャルロットは、ライアーク自身がヘレンの身柄をバイオレット・ムーンが保護するように要請したと、知っている。だからこそ、彼らが何を考えているのかが気掛かりだったのだ。


(夫は私と〝円滑〟に離婚するための材料を集めている。恐らく、これもそのための布石なんでしょうね。ふふふふ。けど、甘いわ。すごく、甘い。私はもう、次の一手を完成させている。残念だけど、貴方がヘレンと会うことは、もう二度とないわ)


 シャルロットが紅茶のカップで不敵な笑みを隠している間、夫は呑気に使用人へ洗濯物をいつまで配達して貰えるかの話をしていた。その甘さに、ついつい頬が嘲弄で歪んでしまう。


(最後に笑うのは、この私よ。こんな小さな屋敷の夫人で終わる私じゃないわ。私はもっともっと、上を目指さないといけない。そうよ。いつか、私は女王にだってなれる。ふふふふふ、あはははっはははっはははっははははははははっはははははははは!!!)


 心の中で高笑いをし、シャーロットは何事もなかったかのように食事を続ける。彼女は、自分の勝ちを確信していた。傲慢からくる根拠のない自信などではなく、ありとあらゆる要素が自分の味方だと疑わなかった。それだけの狡猾さを彼女は持っていた。

 ゆえに、シャーロットは気付かなかった。今まさに、戦いが始まろうとしていることに。いや、もう始まっていたのだ。だからこそ、もう〝間に合わない〟。


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