第3章 Ⅵ


 十年前から五十代だと主張する白髪交じりの男店主と同じぐらいに良い意味で年期が入った四輪の荷車が、ソーホー地区から見て北東方向になる貧困街・ストランド街の広場に停まっていた。ここは数ある貧困窟の中でも、比較的マシな場所である。少なくとも、銃を持った人間に襲われる心配は〝ほとんど〟ない。かといって、ステッキを棍棒代わりにするような連中は大勢いるので、夜中の一人歩きはおススメできない。ちなみに、この店主はライフル銃を荷車の中に隠し、今日までに三度だけ発砲したらしい。誰も死なずに済んだのはきっと、神の御加護とか爺の射撃能力が皆無とか、そこら辺の理由だろう。

 荷車は、雨が多いロンドン使用に特化され、油を染み込ませた麻布製の屋根付きである。錆びが浮かびながらもピカピカに磨かれているブリキ製の大きな缶が三つ、ぎゅうぎゅうに詰み込まれている。缶の下を固定するように鉄製の携帯ストーブが設置され、細かく砕かれた石炭がパチパチと赤熱しながら周りを暖めていた。

 昼間の熱気など、深夜にもなれば遠くへと消え去る。たとえ、それが夏だろうと。大都市ロンドンの夜は今日も冷えていた。吐いた息は白く染まり、体の芯から徐々に冷えてしまう。ならば、こんな時刻に街角で飲む珈琲は、どれだけ美味いだろうか。

 厚手のコートを着込んだセシルは、熱々の湯気を昇らせる黒い液体に向けて口をすぼめた息を吹きかけた。白いカップに唇を当てて温度を確かめつつ、少しずつ啜る。その珈琲は香りが薄く、苦味が濃い。きっと、砕いた豆を布袋に入れて大鍋で一度に煮出しているからだ。舌にザラザラとした感触が残るのが良い証拠である。ほんの微かに甘味を感じるのは、ローストされて糖分がカラメル化されたチコリの根が含まれているからだ。こちらは、珈琲豆を嵩増しするのが目的だろう。

 もっとも、セシルはこれらを怒る気にはなれない。何故なら、荷車で歩き売りをする珈琲ストールという職業は、今、徐々に数を減らしているからだ。紅茶の低コスト化が進む中で、珈琲は価格高騰状態にある。これも、生き残るための戦略なのだ。

セシルはそのまま数口飲み飲んで満足そうにプハーと息を吐く。先程よりも数倍大きな白い煙が蒸気船の煙突に負けないぐらい広がり、ゆらゆらと天に昇りながら大気へと溶けてしまった。

 荷車には、最近になって新調したらしいオイルランプがぶら下がっている。近くに立っているオンボロなガス灯と一緒に、客の姿をおぼろげに照らしていた。数はセシルも含めて八名。夜中の十一時を回ろうとしている時間帯、ここまで集まるのは珍しいだろう。

体格の良い肉体労働者風の男に、胸元が開いた服を着ている若い娼婦風の女。身形の良い二十代後半の男に。まだ十歳半ばの少年。今にも天国に御出迎えされそうな老夫婦。人間数人殺していそうな目付きが鋭い鷹のような男。全く共通点がなさそうな連中である。

しかし、セシルが呟いた一言は、まるで魔法のように皆の心を動かしたのだ。


「ありがとうございます、集まってくれて。――どうか、皆さんの力を貸してください」


 すると、一斉に皆が、店主含めた全員がセシルへと忠誠を誓う瞳を向けるのだ。恐怖などではなく、それは心からの親しみだった。


「お任せ下さい。セシルお嬢様。必ずや、貴女様の期待に添えるような活躍をしてみましょう。このディスケンズ。情報収集にかけては人一倍の自信があります」


 目付きが鋭い男が、力強く己が胸を拳で叩いた。


「なんだって頼ってくれよ、お嬢様。私、まだ貴女に返さないといけないものが沢山あるんだ!」


 娼婦の女が、にかっと快活な笑みを浮かべる。


「俺だって、お嬢様を手伝えるぜ! なんだって言ってくれよ」


 皆に負けぬよう跳び跳ねながら十代半ばの少年が手を上げる。

 そんな様子に、セシルはパアーっと顔を輝かせ、しかし、申し訳なさそうに頭を下げる。


「ごめんなさい。皆には、皆の生活があるのに。私はいつも、皆に頼ってばかりで。ろくなお礼も出来ないのに」


 セシルの言葉に、異議を唱えたのは、老夫婦だった。まず夫が、続けて妻が口を開く。


「金の問題じゃありゃしませんよ、セシルお嬢様。私達は皆、貴女様に感謝しているんですから。貴女様のお陰で、皆がこうして生活出来るんです。だから、貴女様は何も心配しなくていいんですよ。ただ、御命令すればよろしいのです。私達は、好きでこうして集まったのですから」


「貴女様の御父上であるヘドナー侯爵が使用人に酷い虐待をするのを、貴女様だけが止めてくれた。自分が叱られても、打たれても、それでも、私達を見捨てなかった。私はね、セシルお嬢様に出会えてようやく、自分が家畜じゃなくて人間だって思い出したんです」


 その声に賛同したのは、体格の良い肉体労働者風の男だった。鼻息荒く、熱く語るのだ。


「そうだそうだ。給料も安くていつもいつも腹を空かせていた俺達のために、セシル様は危険をおかしてまで食い物を持ってきてくれた。クリスマスの時に、貴女がクッキーを焼いてくれたのが、どんなに嬉しかったか。この世で一番怖かったあの侯爵がもういないんだ。だったら、俺は何も怖がりません。どんな命令だって聞きますよ」


 そして、セシルが住んでいた屋敷の〝元使用人〟達を代表するように、珈琲ストールの店主が慈愛に満ちた瞳を細めて言う。


「屋敷が売り払われ、私達が路頭に迷った時だって、貴女様は必死になって我々の仕事を探してくれたでしょう。この屋台だって、貴女がロンドン中を駆けずり回って探してくれた物だ。セシルお嬢様。貴女様がいたから、今の我々がいる。だから、構いません。それに、貴女様がわざわざ我々を頼るということは、誰かが不幸な目にあっているのでしょう? ……ロンドンは、弱い者に厳しい。国は少しずつ良くなろうとしているが、それは亀の歩みだ。こうやって、誰かが守らなければ弱き者はすぐに深い闇に飲み込まれてしまう。――戦いましょう、お嬢様。そうでしょう?」


 今は、激動の時代だ。鉄道と蒸気船は、国の規模を肥大化させた。だが、人が、民がまるで追いついていない。貧富の差は拡大するばかり。大英帝国とは、世界一豊かで世界一貧しい国だ。セシルは想う。自分は今、歴史の狭間に立っている。きっと、何十年かすれば世界は大きく変わる。それでも、変わるのは〝今〟じゃない。だから、今を生きる者が戦わなければならない。

 セシルは喉奥に込み上げてきた熱をなんとか飲み込んだ。今、泣けばきっと、ストランド街全域に声が届いてしまうだろうから。


「皆、ありがとう。私、助けたい人がいるんだ。だから、手を貸して。これは、命令じゃない。私からの、お願い」


 全員が深く頷いた。それが、皆のセシルに対する忠節だった。

 ロンドンの夜は冷える。それでも彼ら彼女らの胸に灯った火は消えることなく、さらに激しく燃え上がるのだった。 

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