第1話 Ⅷ


 結局、アリスの偽名は《茶髪》になった。少なくとも、隣にいる女の子の前で、あの偽名を使うのは不可能だった。きっと、宇宙とか地球とか、神様とか、そこら辺の存在が許してはくれないだろうから。察したローグも、茶化そうとはしなかった。


「そういえば、貴女のお名前はなんて言うのかしら? まだ、聞いてなかったわよね」


 アリスが聞き、女の子が口を開きかけた時だ。先に答えたのは、変装継続中のローグだった。


「君はライアーク・ストーナーの娘、ヘレン・ストーナーだね。幼いジェントリの娘に、ここは怖かっただろう。大丈夫。俺達が、君を安全な場所まで案内しよう」


 ヘレンの真ん丸な瞳が、さらに大きく見開く。余程、驚いた様子だった。


「ど、どうして、私の名前を。それに、お父様のことも、どうして、あなたが知って?」


「君のお父様にわざわざ直々に頼まれたんだよ。君を、ここから連れ出して欲しいってね」


「え、この子ジェントリなんですか!? うわー。こんな近くでジェントリのお嬢様を見るなんて初めてですよ。道理で気品溢れる丹精込められ過ぎな容姿ですものね!」


 上流階級とは、王室を含めなければ二種類存在する。王から男爵や子爵などの爵位を与えられ、様々な特権を持ち、一万エーカー(一エーカーで約四〇六九・九平方メートル)以上の土地を保有する貴族と、千エーカー程度の土地だけを所有するジェントリだ。両者は、働かなくても自分達が所有する土地からの収入だけで生活出来るという点で同じである。ここが上流階級用の賭博場だとしても、こんな幼い子がいるのは明らかにおかしい。


「け、けど。ろ、じゃなくて《ウェブリー様》。どうして、この子は、ここにいるんですか? ま、まさか、借金の肩代わりとか、そんな、物騒なお話で?」


「それよりも、もっと酷い。ライアークと再婚した、つまり、この子の義母に当たる糞婆が、この子を〝人買い〟の連中に売ったのさ。で、今宵はこの子を誰が買うのかオークション。肥えた豚が何を〝想像〟したんだろうな。この子の値段は、今や六百四十ポンドと八シリングだ。上等な黒檀のグラウンド・ピアノ六台が余裕で買えるだろうぜ」


 女中の給料二十年分でも届かない値段に、アリスは目を丸くした。意識を保てたのは、幼きヘレンがスカートの裾をギュッと握っていたからだ。


「ちょっと《ウェブリー様》。あんまり物騒な話をこの子の前で――」

――しかし、今度は別の大声が飛んできたのだ。



「うっしゃあぁああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


「あばばっばあああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 元気が一杯な声と、困惑満点の声。一体、どこから? ――――真上からだった。

アリスは反射的に首を曲げ、思考が停止する。少女の目に映ったのは、リネンたっぷりの下着。口に出すのも憚れる禁断の純白だった。何かが、凄い早さで接近してくる。そして、耳を塞ぎたくなる、けたたましい音。穴が開かなかったのが不思議なレベルで木製の床を盛大に軋ませて〝着地〟したのは、最近になって知り合い、つい先程まで尾行していた二人だった。セシルとヒューロの登場に、少女は開いた口が塞がらない。

 階段は建物の形状上、凹の字の吹き抜け部分とほぼ隣接しているような位置にある。つまり、落下防止用の柵を跳び越せば、そのまま一階まで真っ逆さまだ。自殺行為に等しく、故意にやったのだとすれば、それは〝大馬鹿〟の所業だろう。アリスもヘレンも阿呆のように口を半開きにしていた。少女がやっと言葉を紡いだのは、きっかりと二十秒後。


「セシル、ヒューロちゃん。なんで、空から降ってきたの?」


 アリスの言葉に答えたのは、良い笑顔でヒューロを抱きかかえているセシルだった。


「三階から飛び降りたの。そっちの方が、早くて楽ちんだし。ほら、ちゃんと《メージ》も抱っこしてるでしょ」


「っここここ、こんな状態で〝お姫様抱っこ〟なんて嫌でした! と私は盛大にかつ正当な不満を口に出す。《ストーム》はいつもいつも、無茶苦茶なんですと、激怒します!」


 床に下ろされたヒューロがガクガクと膝を笑わせながら、セシルへと激怒を飛ばす。しかし、金髪の女中は片目を閉じて『てへ』と舌を出しただけだった。もしも、アリスが同じ立場なら、コイツの顔面を打ん殴る自信があった。三人の女中に、ローグはやれやれとばかりに嘆息し、肩を竦めたのだった。大人しいのは、ヘレンだけだった。


「お前ら、無駄口叩くなよ。まだ、俺達の〝仕事〟は終わってないんだからな」


 アリスとヘレンお嬢様以外の二人が、ビシッと背筋を伸ばす。なんだ、この状況は。まるで分からない。主殿は弾丸を飛ばし、同僚達は空を飛び、少女の思考は宇宙へ飛ぼうとしていた。きっと、これは夢に違いない。起きたら朝で、いつもの一日が始まるのだ。


(そうだったら、どんなに良いだろうなぁ。――これ、現実だよね。夢じゃないよね。なんで、なんでこんなことになっちゃうの!? 私、何も悪いことしてないよ。……最近は)


 さっきの燐寸は脳内の片隅に放置し、アリスはぐっと弱音を吐くのを堪えた。すると、ローグが幼女の傍まで歩み寄り、目線を合わせるように片膝を折った。まるで、女王の前で兵士が忠誠を誓うかのように。ただ、銃を持つ男に恐怖したのか、ヘレンは再び少女の背中へと隠れてしまう。ここは《茶髪髪》が助け船を出した。


「まあまあ、ろぐ《ウェブリー様》。細かい話は外に出てからにしましょうよ。ここは、物騒なんでしょう? ほら、そんな騎士の真似しても、全然カッコ良くないですよ?」


「……お前、俺と自分の関係がどうなっているのか、忘れたわけじゃないだろうな?」


 と、言いつつも、素直にアリスに従って腰を上げるローグだった。先ずは、ここを出る。話はそれからでもきっと、遅くはないのだろうから。ただ、足を上げかけた少女は、ふと思い出す。といってもつい先程、空から降ってきたヒューロとセシルの会話を。


「あれ? そういえばさっき、二人とも《メージ》とか《ストーム》って言わなかった? それって、もしかして偽名ってやつですかい……?」


「あ、そうなんですよ。私が《ストーム》で、こっちが《メージ》。なんでも、メージって日本の時代をあらわす言葉らしいですよ。なんだかセージに似ていて美味しそうですね」


「そんなことを言うの、きっと《ストーム》が初めてでしょうね。と、言っておきます。ところで、貴女のことはなんと呼べば? 《ウェブリー様》が着けてくれたんですか?」


 二人が、興味津々とばかりにアリスへ顔を近付ける。だが、当の本人は苦虫を歯茎で噛み潰したような表情を作るのだった。


「……私のような卑しい犬畜生にも劣る下賤な身分の小娘などただの《茶髪》で十分です」


 目を点にするヒューロとセシル。そして、親の仇でも見付けたかのような形相でローグを睨みつけたのだった。大の男は、少女二人の眼力に屈し、数歩、後退してしまう。


「あの元気な《茶髪》がここまで落ち込むなんて、あなたは一体なんて言ったんですか」


「どうせ、この男なんて女の気持ちなんて一匁も分かっていないんですよ。と私は蔑みます。大丈夫ですよ《茶髪》。いいことありますよ。と、私はさり気なく彼女を慰めます」


「手前らも《茶髪》って言ってんじゃねえか! コイツは《茶髪》で十分な――」


 ――大勢が階段を下りてくる音が、ローグの声を掻き消した。


「いたぞ、そこだ!」「手間取らせやがって」「おい、あの女も上玉だ。男は殺して野良犬の餌だ。女共は俺達の餌だ。グヘヘヘ」「今日は儲かる夜だなぁあ。たーっぷりと可愛がってやるぜ」。などと、スミスフィールドの大通りにある一ペニー劇場の安物役者にも劣る連中がゾロゾロと集まり出した。等しく黒い服を着た男ばかりで、ナイフや拳銃を持っている。その目は血走っており、まるで地獄から現世へと這いずり出てきた悪鬼に勝るとも劣らない。英国紳士の名が急速に錆びつき朽ち果てる音をアリスは確かに聞いた。

 ローグが怪訝そうに顔を顰め、視線をヒューロとセシルへと移す。


「おい《メージ》に《ストーム》。三階にいた連中は全員、眠らせたんじゃなかったのか? 一階も二階も全部俺が片付けて、三階はお前達の担当だっただろうが」


 物騒な言葉に、アリスは『ぶへっ!』と吹き出す。そうだ。よくよく考えれば、この二人はどうして三階から〝落ちて〟きたのだ? 理由がなければ人は階段を上らない。それは、つまり、三階でセシルとヒューロが〝何か〟をしていたのではないのか。

 すると、ヒューロがオドオドしながら、申し訳なさそうに袖口から〝それ〟を取り出す。

 コルクで封がされた硝子の小瓶。中には、何も入っていない。ヒューロが、シュンと肩を落とす。


「この睡眠ガス。揮発性が高すぎて部屋に充満するよりも先に開けられた窓から逃げちゃった。効果範囲が減少してしまい、このような結果になってしまいました。と説明します」


 続けて、セシルが後頭部に右手を当て、小首を傾げた。やはり、無邪気な笑顔のままで。


「えーっと、殺さない加減で殴るのって難しいから、失敗しちゃったゴメンね御主人様」


「……それって、力を抜き過ぎて気絶しきれなかったってことだよな? 力を入れ過ぎて殺したってことじゃないよな? 俺は〝殺人〟なんて、絶対に許さないぞ。分かってるな」


 セシルとヒューロが『はーい』と暗鬱&元気に答える。衝撃的な単語ばかりで、アリスはヘレンを眺めながら何とか平常心を維持するのだった。

 ローグはウェブリーMk・Ⅰの撃鉄を起こし、合計五人の男へと冷徹な声を叩きつける。


「悪いなんてちっとも思ってねえが、この子は返してもらうぞ。ちなみに、手前らに拒否権はない。とっとと家に帰って寝ちまうんだな。さもないと、怖い恐いレッドキャップが底無し沼から赤錆びた手を伸ばすぞ。――《ストーム》《メージ》。いつも通り、殺さない範囲で連中を痛め付けろ。ロンドンここで悪を成せばどうなるか、俺達が教えるんだ」


 セシルとヒューロが互いに顔を見合わせ、ローグに向き合う。三人とも、好戦的な笑みを浮かべていた。


「お任せあれです、御主人様!」


「と、私達は宣言しましょう!」


 一触即発の雰囲気に、アリスは何か考えるよりも先にヘレンを胸に抱きかかえる。これから何が起こるのか。それが、何となく分かったからだ。


「あ、あのろ、《ウェブリー様》。その、わ私はどうすればいいんでしょうか?」


「《茶髪》は隅に隠れていろ。大丈夫。このぐらい、慣れているから」


 杖を左肩に担ぐローグの横顔に映る獅子のように雄々しき笑みにアリスは感動、ではなく、命の危機を感じたショックから涙を流す。


(こんな状況に慣れているって、それって絶対に不味いですよね? わ、私、生きて帰れるのかな。土曜日の夜はローラとアンネに会って、いつものパブで飲み会があるのに)


 早くも思考を明後日の方向に飛ばすアリスであった。


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