第1話 Ⅰ


 ロンドンで使用される主な通貨はポンド金貨(二十シリング分)、シリング銀貨(十二ペンス分)、ペニー銅貨(複数形でペンス)、ファージング銅貨(四枚で一ペニー分)だ。この他には、半ペンス銅貨、三ペンス銀貨、六ペンス銀貨、フロリン銀貨(二シリング分)、クラウン銀貨(五シリング分)、半クラウン銀貨、一ゾウリン金貨(一ポンド分)、半ゾウリン金貨、一ギニー金貨(一ポンド一シリング分)がある。

もっとも、基本的に使用されるのはポンド、シリング、ペニーの三種類だ。

 アリスのような正規雇用を持たぬ貧乏人になれば、シリング銀貨もろくに持っておらず、ポンド金貨にいたっては手で触れたのは何年前だっただろうか。革袋に入っている全財産に視線を落とし、苦々しく頬を引き攣らせた。


「十ペンスって何よ。こんなの、パブでエール五杯も飲んだらなくなっちゃうじゃない」


 相場で多少の変動はあるものの、大きめのグラスに注いだエール一杯で約二ペンス。ちなみに、卵一個は一ペニーだ。白パン一枚、ベーコンエッグ、牛乳一杯の食事を三度も用意すればなくなる程、十ペンスは安い。アリスは財布に穴が開いていないことを何度も確認しながら革紐できつく、それは厳重に縛った。

 ティー・ショップでローラと別れたアリスが歩くのは、文字通りロンドンの西に位置する繁華街・ウェストエンドのさらに西南、高級住宅街として有名なチェルシー地区だった。大声で物を売る小売商人など存在せず、最新の黒い舗装道路・アスファルトが広がっている。従来の、マカダム方式(花崗岩と砂利の道路)と比べ、馬車が往来しても砂埃がほとんど舞わず、空気は比較的澄んでいた。まだ昼過ぎだというのに、とても静かで、住人全員が眠っているのではないかと錯覚してしまう。道を歩く度に必ず誰かと肩をぶつけるようなレドンホール・マーケットの喧騒など、ここでは〝夢物語〟なのだ。まるで、田舎町のような静けさである。それも当然だろう。商店はなく、馬が引く二階建ての巡回バス・オムニバスが通るのも許されていないのだから。

 建物は全て背が高く、三階、四階建がほとんどだ。見事な白い化粧漆喰の壁に、美しいテラス。そして、堅牢な柵と門。ガーデニングに精を出す庭は今の次期、真っ赤な薔薇が綺麗に裂いている。


「完全に私って、場違いよね。……ええっと、もうちょっとかしら」


 右手に持つのは求人広告。そして、左手に持つのがボロボロの木製鞄。中身は服が数着に櫛などの日用品、煙草を吸うためのパイプ、トランプが一組、燐寸が一箱。ミューディーズの貸出本屋で借りた本が一冊。たった、これだけだった。売れるような物は質屋に売って、絶賛差し押さえられている。財布の中身は十ペンスと心もとない。

 現在の格好も貧相だった。小さい帽子に白いシャツと青いスカート。イースエンドのユダヤ人が路上で売っている中古服を、さらに縫い直した物ですっかりくたびれている。靴は地下賭博場でイカサマして奪った品だ。いつもは気にしないものの、周りが周りなだけに自分のみすぼらしさが目に染みた。


「こっちの細道を通って、ええっと、あーくそ、面倒だな。どうして地図ってこうも分かり難いのかなー。赤い屋根で四階建、そんな建物周りにいくらでもあるじゃない!」


 アリスがグチグチと求人広告相手に文句を零していた時だ。不意に、後ろから声をかけられた。


「あー、そこの君、ちょっといいかね」


 ギクッと肩を震わして振り返ったアリスは、相手の格好を見るなり、腐ったプラムでも齧ってしまったような顔をつくった。紺色制服である濃紺コートに黒いヘルメット姿。腰にぶら提げているのは細身で丈夫な木製の棍棒。ロンドン警視庁――スコットランド・ヤードに所属する警官である。パトロール中だったのだろうか。歳は四十代後半程度で、細身である。黒い髭が顎の下でもっさりと伸びていた。こちらを見る視線は、怪訝一色である。まあ、無理もないだろうと内心で納得する少女だった。明らかに貧乏人の娘が高級住宅街を歩いていれば、泥棒か物乞いとでも勘違いするのは必然だろう。


「なんでしょうか、ボビーさん」


 相手とは初対面だ。ボビーとはヤードの愛称である。警官は顎髭に手を当て、威厳たっぷりな声で語り出す。


「君は、どこかの屋敷の女中かな? いやね、最近、ここいらで盗みが多発していて、まだ犯人が捕まっていないんだよ。パトロールを強化中なのさ」


「あらあら。それはお疲れ様です。私はこの新聞に載っている求人先を探しているだけですよ。そうだ。いつも熱心に〝パトルール〟しているボビーさんなら、場所を教えてもらえませんか? 実は、迷ってしまって困っていたんです。助けて貰えないでしょうか?」


 おべっかが見え見えの台詞だったが、ヤードの男は『ふむ』と顎髭を撫で、求人広告を覗きこんだ。髪から、きつい整髪料の臭いがする。熊の脂から作った伝統品の整髪料・マカッサルだろう。アリスは鼻が曲がりそうになるのを、気合で乗り越えた。


「で、どこだい? こっちのセラスミスさんの屋敷かな?」


「いいえ、こっちのキャバリー家の求人です。ほら、一番右下にある、住所、です、よ?」


 アリスの声が途中で上擦り、掠れてしまう。ヤードの男が顔をどんどん蒼白に変え出したのだ。まるで、顎髭から血がどんどん抜かれていくかのように。夜道を歩いて骸骨に出くわしたとしても、ここまで恐怖しないだろう。いや、この場合は畏怖だろうか。


「あのー。どうしたんですか? トイレですか? それとも、阿片切れで禁断症状でも?」


「い、いいや、その、あの、本当にキャバリー家に行くって言うのかい? 本当の本当に」


「ええ。住み込みの仕事なので、上手くいけば今日から住むかもしれません」


「ひいいいいい!? すすす、住むだって!? 馬鹿言っちゃいけないよ。悪いことは言わないから、今すぐ帰りなさい。あんな家、君みたいな若い子が近付いちゃいけないよ」


 ヤードの変貌に、アリスは顔を顰めるばかりだった。一体全体、どうしたというのだろうか。


「やー、そう言われても、宿を出たばかりなんで帰る場所もないっていうか。ともかく、場所を教えてくれませんか? 少しでも早く行かないと、他の人に横取りされちゃうかもしれないので。大丈夫ですよ、私。こう見えても、色々と経験してるんで」


 尻を触ったコックの顔面に石の麺棒を叩きつけるとか。とは、流石に言えないアリスだった。結局、ヤードの男はビクビクしながらも場所を教えてくれた。裏道の奥へ奥へと進んだ辺鄙な場所である。そして、


「ここ、なんだ。……うーん。別に、見た目は普通じゃないかなー。ちょっとボロイけど」


 赤い屋根の四階建。壁である化粧漆喰に多少の〝剥げ〟が見えるも、隙間風が厳しい安宿と比べれば雲泥の差だろう。小さいながらも小奇麗な庭があり、赤や黄色の薔薇が咲いている。屋敷をぐるりと囲む背が高い鉄柵も、多少の錆びが浮いているものの、頑丈そうな造りだった。少なくとも、幽霊が住んでいるような様子はない。三角屋根を貫く煙突からは朦々と煙が溢れていた。恐らく、パンかクッキーでも焼いているのだろう。バターが焦げる良い匂いがする。昼飯を節約した腹には、少々暴力的な香りだった。


「もしかして、ヤード流のジョークだったとか。まあ、杞憂で良かったって感じだねー」


 ほっと胸を撫で下ろしたアリスは裏口へ回り、コンコンとノッカーを叩く。三十秒、まだ誰も現れない。もう一度、今度は強めにノッカーを叩く。すると、今度は十秒もしないうちにドアが開かれた。


「はーい。お待たせしましたー」


 鈴が鳴るように高い声に、アリスは思わず目を丸くした。現れたのは、黒いワンピースに白いエプロン――典型的な女中服姿の少女だった。こちらを見るなり、きょとんと小首を傾げ、次の瞬間にぱーっと顔を輝かせる。


「もしかして、就職希望者? そうですよね、それ今日の求人広告ですものね。いらっしゃい! 待ち侘びていました。私、セシル・アバタールです。今日からヨロシクですね!」


 歳は十五、六歳か。砂漠の国の夕焼けを薄く梳いたように艶やかな金髪を、白い帽子に収まるように編み込んでいる。これなら、料理の邪魔にはならないだろう。ぱっちりと愛らしく開いた瞳は希代の職人に磨き上げられたような、輝きを秘めたサファイアのごとく素敵だった。鼻はすらりと高く、薄紅の唇はきゅっとした弓形の艶やかさ。身長はそれほど高くないものの、胸元は上等なメロンのように膨らんでいる。これで同じ人間なのかと、アリスは目を疑ってしまう。まるで、妖精の森で生きる宝石蝶のような〝美少女〟ではないか。女中服だというのに、ドレスをイメージしてしまうのは、彼女の魅力が投影されているからに違いない。全体的に、眩しい少女だった。

 セシルはガッとアリスの腕を掴み、強制的に屋敷の中へと引っ張る。その強さに、少女は小さな悲鳴を上げた。肩が外れてしまうのではないかと驚くほどの衝撃だったのだ。


「御主人様ー! 御主人様ー! いけに、就職希望者が訪れましたよー!!」


「い、今、なんて言いかけたんですか!? いけに、生贄!? 生贄って言いかけませんでした!? いたたったたたた!? 強い、この人、滅茶苦茶腕力凄いんですけど!?」


 アリスの叫びも虚しく、少女は屋敷の中へと〝招待〟されたのだった。





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