第六話 笑った顔

『あれは悪霊です』

 少し落ち着いたところで、青年幽霊がそう説明してくれた。

『あれに捕まると、自分も悪霊になってしまう……』

 早紀はぎゅっと膝を抱えて、隣に座る青年幽霊の言葉にただ耳を傾けていた。

『ただの雑木林でも、すぐ近くに道路があると、交通事故で亡くなった霊たちがさまいこんでくるんです』

 早紀を落ち着かせようとしているのか、それとももしかして心霊オタクだったのか、青年幽霊はこれまでとは打って変わって饒舌にそう語った。

 そしてふと、早紀の顔を覗きこんでくる。

『大丈夫ですか』

 気遣いの言葉に、早紀は小さくうなずいた。

「ごめん。ごめんね、ちょっと動揺しちゃって……」

 まだ震える声をした早紀に、青年幽霊はただ首を横に振った。

「あ、あなたから、に、逃げちゃったし。本当はかなり怖かったみたい、気づいてなかっただけで……」

 早紀はまた溢れてくる涙をぬぐいながら、動揺をまぎらわせるために、関係ないこと頭に浮かべた。

「そうだ。さっきのすごいね。あの変なやつ、逃げてっちゃった……」


 立ち去れ。

 その一言で、腐ったあの幽霊は恐怖の形相で逃げていった。

 同じ幽霊同士なのに、あっちのほうがはるかに怖そうなのに。


「ただの儚げな幽霊じゃないんだ。実は何者? ケイスケって」

 青年幽霊は、にやりと笑う、というひどく新鮮なことをした。

『本当は僕、あなたを守るために生まれてきた、チョコレートの妖精なんです』

 似合わないその冗談に、ようやく早紀は心の底から笑った。

『サキさん、チョコを見つけましょう』

 少しだけ恐怖が落ちてきた早紀の様子を見ると、青年幽霊はまるで諭すように言った。

『出口を探すんです』

 早紀は反射的に肩を震わせたが、彼の強い一言に、やがて首を縦に振った。



 多分、かなり近づいてると思うんです、チョコレート。

 なにそれ、妖精の勘?

 そうです。

 犬みたいねぇ。

 ……。


 果ての見えない雑木林に、ふたたびチョコを探しはじめたふたりの声だけが延々と木霊して響きわたった。

「でも妖精さんが近いっていうなら、信じたいなぁ……」

 早紀は落ち着いた気持ちで笑った。すぐそばを歩く白い光がふわりと揺れて、青年幽霊も笑ったようだった。

 あの瞬間、あれほど恐ろしく感じた雑木林に、早紀はもう恐怖を覚えなかった。

 出口など見つからないのでは、という恐れは今もある。

 薄れてゆく記憶のことも不安で仕方ない。

 ――自分もここで死んでしまうのではという気持ちも、依然として残っている。

 けれど、青年幽霊が……ケイスケがそばにいる。

 ケイスケがいればなんとかなる、そんな漠然とした心強さが、早紀の心を穏やかにしていた。

 本当にチョコレートの妖精なのかも、少し本気でそう思う。

 彼は探しものをしていると言った。もしかして彼は、バックの中にいる自分自身を探しているのかもしれない。だから自分と一緒に行動しているのかも。一生懸命作ったチョコだったから、自分の想いが形になったのがケイスケなんだったりして。

(メルヘンだなー)

 B級ホラーな雑木林にまるで似合わないその想像に、早紀は苦笑した。

 そして、改めて思う。

 もしもケイスケが妖精なら、ちゃんとチョコレートを見つけてあげなくちゃと。


『サキさん、ひとつ聞いていいですか?』


 そんな妄想に耽っていると、ケイスケがそう問いかけてきた。

「なにー?」

『彼氏のどんなところが好きになったんですか?』

 率直な質問に目を見開き、けれど早紀は素直にうーんと空を見上げた。

「どこかなぁ。……顔?」

『……』

「冗談よ! 冗談! 冷たく黙りこまないでよ! だって顔、今もう……思いだせないんだから」

 早紀は小さく笑って言った。

『……ふーん』

 自分から聞いてきたくせに、幽霊はやけにそっけない返事をしてきた。本当ならあまり答えたくないことを一生懸命言ったのに……早紀はムッとするが、ふと、人の悪げな笑みを唇のはしっこに浮かべた。

「なに? もしかして妬いてたりしない、ケイスケー?」

 冗談半分で言うと、青年は不機嫌そうに顔を上げた。まるで本当に妬いているようだったので、早紀は勝手な想像とは分かっていたが、ついつい照れくさくなってしまった。

 だが、幽霊の次の言葉が、早紀を凍りつかせた。


『じゃあ、どうしてその人の名前を呼ぶんですか』


 あいかわらずの淡々とした口調で呟かれた一言。

 一瞬、なんのことか分からなかった。

『最初に僕から逃げるときも呼んでた。榊って』

 榊。榊洋一。

 それは早紀の彼の名だ。

「うそ、私呼んでないよ、あんな奴の名前なんて」

 早紀は急速に高まってゆく鼓動を無視しながら、不自然に笑って反論した。

 そして反論した次の瞬間──早紀は逃げるときに、たしかに自分が彼の名前を呼んだことを思い出した。

「……ちがう」

 ちがわない。呼んだ。無意識に、彼の名を必死に呼んだ。助けを求めるように。

 早紀は呆然と足元を見つめた。

(榊くん……)

 心中で呟くと、その名前は心の深いところで波紋を広げた。大嫌いだと思ったあの瞬間、空っぽになって乾いてしまった心が、きれいな水で満たされてゆく。

 早紀は自分の右手をもう一方の手で握りしめた。

 思い出せなかったことが──思い出したくなかったことが、頭を過ぎってゆく。


 自分の中の矛盾。


 どうせすぐに終わる関係だと思っていた。

 ──なのにバレンタインデーに、関係を修復しようと躍起になった。


 あんな奴となんて、さっさと別れようと思っていた。

 ──それができずに、なぜか今、必死になってチョコを探している。


 大嫌いだ。そう、思った……。

 ──逃げながら、彼の名を何度も呼んだ。



 意地で付き合っているのではなかったか。



「……たまに笑う顔が、すごく綺麗だったの」

 無意識にそう呟いた途端、早紀の中から消えてしまっていた彼の顔がふっと蘇ってきた。

 それはもうずいぶん長いこと、見ることのできなかった彼の笑顔だった。

「すごく優しくて、綺麗だったのよ……」

 頭の中で微笑む彼に笑いかえして、早紀は不意に溢れそうになる涙を必死でこらえた。

 ──意地で付き合っていたんじゃない。

「好きだったの……」

 認めたくなかったのだ。

「彼は私をもうとっくに嫌ってるって知ってたのに。私はまだ好きだったの……」

 嫌われているとわかっていながら、彼をまだこんなにも好きでいる、情けなくて哀れな自分を認めたくなかったのだ。



 会えば喧嘩ばかりだった。喧嘩をしないときなんてなかった。

 周りはいつも別れろと言ってきた。腹が立つぐらい、みんながみんな、そう言った。喧嘩をするとたいてい早紀がアザをつくって、泣きついてくるからだ。

 チョコレートの入ったバッグを投げ捨ててしまうような奴だ、榊は普段から暴力的な人だった。喧嘩をするたび、口と手が同時に動く早紀と、暴力的な彼とで、さんざんな喧嘩になってしまう。

 アザが増えるたびに、心の傷が増えるたびに、早紀は泣いた。

 会うたびに、会いたくないと思った。

 もう、終わりだとわかっていた。


 けれど、それでも早紀は彼が好きだったのだ。



 早紀は口元をきつく押さえて、深く、深くうなだれた。

 涙の粒があふれて、代わり映えのしない地面をぱたぱたと濡らした。

「やだな、必死で私も嫌いなふりしてたのに……気づいちゃった」

 だからチョコレートを探しに雑木林へ入ったのだ。

 中身のない関係だと分かっていたのに、それでも彼の傍らにいたくて、なんとか関係を修復したくて、早紀はチョコをつくった。自分の本心を、自分の哀れさを認めたくなくて、意地でやっていることだと自分に言い聞かせて。

「ばかだなぁ」

 あんな奴をいまだに好きでいる自分が。必死になってチョコレートを探している自分が。

 早紀はぎゅっと目を閉じて、うまくできない息を吐き出すために顔を上げた。震える吐息が白く白く空気に溶けてゆく。

「ばかみたい……」

 早紀は泣き笑いながら、ケイスケを振りかえった。

「そう思わない? 妖精さん」

 ケイスケはうっすらと微笑んでいた。

 早紀と目が合うとその笑みを深めて、静かに首を横に振る。

 自分の馬鹿な想いを、馬鹿ではないと認めてくれたそのあたたかさに──自分自身すらもあざむきつづけてきた想いを認めてくれた幽霊に、早紀は瞳を細めた。

「そっか……」

 早紀は「あーあ!」と大きく息を吐いて、両腕を広げて空を見上げた。ずっと靄に包まれていた心が、清らかに晴れてゆく気がした。

 榊が好きだった。彼が好きだった。

 今も、この瞬間も。

「好きだったんだなー……」

 押し殺していた気持ちが、自由になって喜んでいるみたいだ。早紀は晴れ晴れとした気持ちで「あは」と笑った。

 そして。

 突然、潤んだ視界に飛びこんできたそれに──早紀は驚きの声を上げる。

「あ……!」

 ケイスケが首をかしげる。

『サキさん?』

「あったわ……」

 早紀は呆然と、あっけないほど簡単に、目の前に転がっていたものを見つめた。


 それは、あれほど探しても見つからなかった、自分のバックだった。

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