第9話 生活


 僕は、ここへ来てから、毎日同じ夢を見る。

 ひまわりが、部屋の隅で膝を丸めて泣いている。

 僕は自分がどこにいるのか分からないまま、彼女の名前をずっと叫んでいる。


「泣かないで、ひまわり…」


 海人のここでの生活は、毎日がとても忙しかった。宿泊客も日に日に増え、サチは食事の準備に追われるために、海人はその他の雑用を全部引き受けた。

 朝から海水浴に行く人達が多いために、朝の八時が過ぎる頃には民宿はガランとする。海人は休む間もなく仕事にとりかかると、サチが、海人を呼びとめた。


「ちょっと、休憩にしようか。

 お客さんに美味しい水ようかんをもらったから、一緒に食べよう」


 サチはそう言うと、テーブルに座り、水ようかんを二つ並べて置いた。


「ありがとうございます」


 海人はそう言ってサチの隣に座り、初めて食べる冷えた水ようかんは、本当に美味しかった。


「食べさせ甲斐のある子だね」


 サチは笑いながらそう言うと、エプロンのポケットから封筒を取り出し、それを海人に渡した。


「これは、何ですか?」


「この三日間、よく働いてくれたから三日分のお給金だよ。

 手持ちのお金がないんだろ?

 これは自分で働いて手にしたお金なんだから、何でも好きな物を買えばいい」


 サチはそう言うと、水ようかんの空容器をゴミ箱に捨てた。


「本当にいいんですか? たった三日間しか働いてないのに…

 本当に…ありがとうございます」


 海人は感謝の気持ちを込めて、深々と頭を下げた。


「どんな事情があるかは知らないけど、あなたは良い子だよ。お母さんがしっかり育てたのが、見れば分かる」


 サチはそう言うと、また厨房へ戻って行った。


「ありがとうございます…ありがとう…」


 海人は頭を下げたまま、嬉しくて、涙が溢れ出るのを抑えきれなかった。

 時代は違えども、海人は母から厳しく育てられた。人間、何事も一生懸命に取り組めば、人は必ず分かってくれる。父がいない家庭環境の中、母はその事をいつも海人に言って聞かせた。海人はそんな母に育てられた事を、心から感謝した。


 その日の夕方、海人は、裏庭に干していた布団を中へ取り込んでいると、海人を呼ぶサチの声がしたので、急いで玄関へ行ってみた。

 すると、そこにさくらが立っていた。サチは「お客さんだよ」と言って、奥の部屋へ入って行った。

 海人は驚きのあまりに、さくらに声をかけることができずにいた。


「海人さん、やっと、見つけた…」


 さくらは安堵の表情を浮かべながらも、海人から視線を外さなかった。


「海人さん、一つだけ、私に謝らせて…

 お兄ちゃんの自分勝手な思い込みのせいで、ひまちゃんと海人さんを傷つけてしまったことを、兄に代わって私が謝りたいの。


 本当にごめんなさい…」


 さくらは、涙を浮かべていた。

 海人はようやくまともに頭が働きだし、その言葉の意味を、もう一度頭のなかで考えた。


「さくらさん、僕は良平さんのことを憎んでなんかいないよ。

 良平さんが僕にしてくれたことは、ひまわりさんのためであり、僕のためでもあるんだって今では理解できる。

 良平さんのおかげで僕はここで働いているし、僕自身の存在を認めてもらえる機会を与えてもらったって思ってるんだ。

 だから、さくらさんがそうやって謝ることじゃないし、僕は逆に感謝してるんだよ」


 さくらはまだ納得できない顔をして、海人を睨みつけて、こう言った。


「じゃ、ひまちゃんの気持ちは?」


 ひまわりのことを話すさくらの声は震えていた。


「ひまちゃんがどんなに苦しんだか、分かってる?


 一睡もしないで、海人さんをずっと捜しまわって、体壊しちゃって…

 私は、ひまちゃんのことを、子供の頃からずっと見てきたから分かるの…


 本当に、海人さんの事を愛してる…

 だから…

 だから、簡単に、ひまちゃんを置いてかないでよ。


 海人さんの馬鹿…」


 海人はひまわりの現状を聞いて、愕然とした。海人を、夜毎、悩ませていたひまわりへの不安は、的中していた。


「ひまわりさんは? 今、どこに居るんですか?」


 海人は、大きな声でさくらに尋ねた。


「そこの海岸の岩場で待ってる。

 まずは、私が、本当に海人さんがここに居るのかどうかを確かめに来たの。

 もう、これ以上、ひまちゃんの落ち込む姿を見たくはないから。

 海人さん、どうする? ひまちゃんに会える?

 もし会いたくないのなら、私が海人さんはここには居なかったって、嘘をつくから…」


 海人は、一瞬、凍りついて何も言えなくなった。良平との約束が、まだ、きつく、海人を縛り付けている。でも、もうそんなことはどうでもよかった。


「大丈夫だよ、さくらさん。


 僕も会いたい… 本当は、会いたくてたまらないんだ」


 海人は、サチに30分だけ、ちょっと外に出ていいかと尋ねた。すると、さくらがサチとひそひそ話をしてから、こう言った。


「海人さん、海人さんがいない間、私がお手伝いをすることになったから、1時間休憩していいって」


 さくらはいつもの人懐っこい笑顔で、サチに「よろしくお願いします」と言って、お辞儀をした。

 海人は、サチとさくらに感謝しながら、急いで下の海岸に向かって走り出した。

 砂浜を下った先に小さな岩場がある。そこには岩の洞窟があり、観光客が好んで訪れる名所になっていたが、今日のこの時間は珍しく人がまばらだった。

 海人は、すぐに、ひまわりを見つけた。

 岩場に腰掛け、帽子を押さえながら遠くを見つめているひまわりに、海人は再び心を奪われ、恋に落ちた。そして、こんなにも心の奥底に根付いたひまわりを、一生離したくないと強く思った。


 僕がこの時代に来た理由は、ひまわりに出会うため、彼女を愛するためだ。

 海人は、少しの間、ひまわりをずっと見つめていた。僕だけのひまわりを…


 ひまわりは海人の視線を感じたのか、急に振り返り、こちらを見た。

 海人はやつれてしまったひまわりの顔を見て、胸が張り裂けそうになった。

 そして、ひまわりは立ち上がり、海人の方へ走り出した。

 海人は、ひまわりを置いてきてしまったことへの自責の念で、身を切られる様な思いだった。でも、ひまわりが、海人の胸に飛び込んできてくれた時、海人は、ひまわりを強く抱きしめることしかできなかった。何度もごめんと言いながら…


「ひまわりさん、ごめん。 本当にごめん…」


 海人は、ひまわりが少し痩せたのが分かった。海人は泣きじゃくるひまわりを抱き上げて、岩場の洞窟の中にあるベンチへ連れて行く。そして、そこに並んで腰掛けると、ひまわりは、海人の首にしがみついてきた。


「本当に海人さんよね?


 私…海人さんが…過去へ帰ったんじゃないかって、不安で、不安で…

 だって、過去へ帰ったら、もう二度と会えないから…

 だけど、良かった…こんなに近くにいてくれて…


 海人さん、会いたかった…」


 ひまわりは海人にしがみついたまま、海人の耳元で小さくつぶやいた。

 海人はひまわりの顔がよく見えるように、体の位置をずらし、涙で頬にはりついた彼女の髪を優しく耳にかけながら、こう言った。


「ひまわりさん、何も言わずに出て行って、本当にごめん。

 だけど、僕は、いつか、必ず、君を迎えに行こうと思ってた。

 早く一人前になって、良平さんや君のお母さんに堂々と胸を張って挨拶ができる男になりたかったし、仕事をして住む所を見つけて、僕自身が落ち着くまでは、ひまわりさんとは会わないって、良平さんとも約束した」


 良平との約束を、海人は破ってしまった。でも、この不思議なひまわりとの結びつきに、歯向かうことはできない。

 自然の流れにまかせたい…

 海人は、そう自分に言い聞かせた。


「だけど、本当は、君の事が心配で、夜毎苦しくて目が覚めるほどだった。

 本心は、君に会いたくて、会いたくて、気が狂いそうになってた。


 今日、僕は君に会って心に決めたよ。もう、何があっても君を離さない。

 絶対に離れない。僕は、君に出会うために、この時代に来たんだ。

 僕がここにいる意味が、やっと分かった」


 海人は、ひまわりの潤んだ瞳にキスをした。

 もう、自分の気持ちに嘘はつかない。

 海人は、ひまわりにそっと口づけをした。

 そして、二人は様々な不安を感じながらも、あふれ出る想いにあらがうことができず、抱き合ったままくちびるを重ね続けた。


 もし、運命というものがあるのなら、この狂おしいほどの大きな愛情の波に、飲み込まれても、私はかまわない。


 ひまわりと海人は、これからの事を話した。海人は今の仕事を続けていきたいと話し、ひまわりもそれに賛同した。ひまわりは、海人が今の仕事を大切に思っていることが分かったし、働いている時の話をする海人は、とても楽しそうだった。


「ひまわりさん、もう、僕は仕事に戻らなくちゃ」


 時計を持っていない海人は、時間をずっと気にしていた。

 ひまわりが時間を告げると、「そろそろ、行かないと」と、海人は少し寂しそうに言った。そして、二人は、民宿へ向かって歩き出した。

 繋いだ手を、一時も離すことなく…


「海人さんの仕事って、暇な時間はあるの?」


 ひまわりは、思い切って聞いてみた。海人の仕事の邪魔はしたくはなかったが、それでも、毎日会いたいと思う気持ちは抑えられなかった。


「あるよ。お昼の12時から3時までは休憩時間」


「私、毎日、海人さんにお弁当を持ってきていい?」


 ひまわりは、興奮気味に言った。


「僕はそうしてもらえればすごく嬉しいけど、でも、ひまわりさんが、ここまで来るのはたいへんだよ」


 海人は、ひまわりに気を遣ってそう言った。


「そんなことない。

 バスで40分位だし、私、毎日、海人さんに会いたいんだもの…」


 海人は、民宿へつながる小さな路地の自動販売機の裏で、もう一度、ひまわりを抱きしめてキスをした。


「ひまわりさん、ありがとう」


 ◇◇


 ひまわりは、朝一番で買い物に行き、お弁当のレシピを考えた。

 さくらは、今朝のひまわりの様子を見て安心したのか、久しぶりに家へ帰った。

 ひまわりは、祖父の家に置いてある古い重箱を見つけ、それをお弁当箱として使うことに決めた。小さい時から何の取り柄もなかったひまわりだったが、料理だけは、いつも皆に褒められた。

 そして、今、愛する人のためにお弁当を作るという些細な日常が、こんなに幸せに包まれていることを初めて知った。


 ここから海人の働く民宿までのバスは、一時間に一本しか出ていない。

 ひまわりは、お弁当の重箱と、食後のコーヒーを入れた小さなポット、それに冷たい麦茶が入った水筒を持ってバスに乗り込んだ。

 バスの窓から見える景色は、一面がずっと海だった。

 今までも、この景色は何度も見てきたはずなのに、海人への溢れる想いで何もかもがバラ色に見えた。人を愛するということは、平凡な普通の生活を送ってきたひまわりの世界を、一変させる大きな力を持っていた。

 バスの到着が10分ほど遅れたために、海人がバス停の近くまで迎えに来てくれていた。

 海人は、ひまわりが大きな荷物を抱えて歩く姿を見て、笑いながら、それを全部持ってくれた。民宿に着くと、ひまわりと海人は玄関先でサチに会ったため、海人がひまわりを紹介した。


「ふ~ん、二人はお似合いだね。二度と離れちゃだめだよ」


 サチは二人を交互に見ながら、物知り顔で言った。

 ひまわりは不思議な感覚にとらわれたが、笑顔で挨拶をした。


 海人の部屋は、こじんまりとしていた。部屋の真ん中に小さなちゃぶ台が置いてあり、サッシの向こうには海が見えた。

 ひまわりは、ちゃぶ台に所狭しとお弁当を広げた。


「こんなにたくさん、大変だったでしょ。本当に感謝してる。ありがとう」


 海人は、ひまわりの作ったお弁当を見て、本当に感動した。

 二人は食事を終え、コーヒーを飲み一息つきながら、窓の向こうの海を眺めていた。ひまわりは、さっきのサチの言葉をふと思い出し、その事を海人に聞いてみた。


「サチさんって、私達のこと何でも知ってるの?」


「いや、何も知らない。何も話してないから。

 でも、なんか、不思議な力があるって言ってた。第六感みたいなものが…

 そしたら、僕を見て何も感じないし、見えないって言ったんだ。

 それが、何を意味するのか分からないけど、さっきのおかみさんの言葉は、僕もちょっと驚いたよ」


 海人はそう言いながら、畳に寝そべって目を閉じた。

 ひまわりは、サチと色々な話ができるのではないかと考え、海人の意見を聞こうと海人を見ると、もう静かに寝息を立てていた。

 きっと、朝早くから働いて疲れているんだと思い、ひまわりは、部屋の隅に置いているタオルケットを海人の体の上に広げた。


「こっちにおいで。ひまわりさんも一緒に休もう。朝から大変だったでしょ」


 海人はそう言いながら、ひまわりを隣に引き寄せた。

 後ろから抱え込むように海人に抱きしめられ、海人の甘い吐息がひまわりの首元をくすぐる。ひまわりは体の向きを変え、海人の顔が見えるように寄りそった。

 海人は髪が少し伸びたせいで、大人っぽく見える。笑うと出てくる八重歯の場所を探しながら、手を伸ばし海人の口元にそっと触れてみた。

 それでも目を閉じて眠っている海人の顔をじっくり眺めていると、急に海人は目を開け、ひまわりを見て笑った。


「僕の顔に何かついてる?」


 海人はふざけながら、また、ひまわりを抱きしめた。


「僕も、ひまわりの顔が見たい」


 海人はひまわりのくちびるをなぞりながら、そっとキスをした。


 海人は休憩を終え、通常の仕事に戻った。

 ひまわりはバスの時間が来るまで、海人の部屋でのんびりすると言っている。

 ひまわりは、海人が帰りのバスの時間を聞いた時に、忘れたふりをした。帰りたくない気持ちが明らかに顔に出ていることは、自分でも分かっている。


「海人さんの邪魔はしないから、しばらくここに居ていい?」


 ひまわりは、海人の目を見ずに言った。


「うん、いいけど、暗くなる前にはバスに乗らなきゃだめだよ」


 海人は、ひまわりの気持ちは痛いほど分かったが、今の自分は与えられた仕事を放り投げるわけにはいかなかった。

 ひまわりは、元気のない笑顔を海人に向けて「お仕事、頑張ってね」と言った。


 そして、海人はそんなひまわりを部屋に残し、仕事にいそしんでいると、サチが、海人を呼びにきた。


「彼女は帰っちゃったみたいだよ。いいのかい?」


「はい、休憩時間に会おうって約束してるので、大丈夫です」


「彼女はあなたの魂を救ってくれてるよ。大事にしてやらないと…」


 サチはまた意味ありげな言葉を、投げかけてきた。


「サチさん、僕と彼女に何か見えるんですか?」


「見えはしないけど、感じるんだよ。

 前に、あなたには何も感じないし、見えないって言っただろ。ところが、彼女が来た途端、一筋の光が見えてきた。彼女との絆が相当強い証拠だよ。

 めったにいないよ、こんな強い結びつきは…

 彼女を離しちゃだめだよ」


 サチはそう言うと、海人に行っておいでと外を指さした。

 海人は、サチに心を見透かされているのではないかと思いつつ一礼して、外へ飛び出し、バス停へ向かった。

 しかし、バス停に着いたものの、ひまわりの姿はなかった。

 海人は間に合わなかったと思い、バス停近くの自動販売機で冷たいお茶を買って、民宿へ戻ろうと歩き始めた。すると、歩道の脇にひまわりが持っていた荷物が置いてある。海人はひまわりに何かあったのではないかと思い、うろたえながら周辺を捜し回った。海人が海の方に目をやると、海岸を見下ろせるブロック塀の上に座っているひまわりを見つけた。


「ひまわり」


 海人が大きな声で呼ぶと、ひまわりは、目をぱちくりさせてこちらを見た。


「海人さん、どうしたの? 仕事は?」


「ひまわり、驚かせないでくれよ。

 あんな所に荷物を置いてるから、何かあったんじゃないかって思うだろ」


 海人は心底ホッとして、脱力感で手を膝につきため息をついた。


「ごめんなさい。海が見たくなって、荷物は重たかったから置いて来ちゃった」


 ひまわりの奔放さは魅力的だが、たまに不安もつきまとう。


「早くバスに乗らないと暗くなるよ」


 海人がそう言うと、ひまわりはプイと横を向いた。


「分かってるから。海人さんは、仕事に戻っていいよ」


 機嫌を損ねるひまわりは、本当に可愛かった。


「なんでそんなに不機嫌なの?」


 海人が尋ねると、ひまわりは黙ったままだ。

 海人はひまわりの隣に座り、静かに寄せては返す波を見ていた。


「僕は、どうすればいい?」


 海人は、ひまわりに尋ねてみた。


「ごめんなさい。困らせるつもりは全然ないんだけど…

 でも、一人の家で急に海人さんの声が聞きたくなったらどうしたらいい?

 海人さんに、連絡をとる手段がないんだもの… 民宿に電話するのはよくないことだって分かってるし。ごめんなさい。私ってどうかしてるよね。

 明日になったら、また会えるのに…」


 海人は、ひまわりの気持ちはよく分かった。

 事実、僕が突然いなくなってしまったあの出来事は、今でもひまわりを不安にさせていたから。


「じゃ、約束するよ。夜の仕事が終わった頃、10時前位かな。

 必ず、ひまわりに電話する。

 外の道路沿いにある公衆電話から、おやすみの電話を必ずする」


 海人はひまわりの手をとり、小指と小指を絡めて、子供のように指切りげんまんをした。ひまわりは笑いながら、海人の頬に軽くキスをした。


 この日は早めに仕事を終えた海人は、サチに「買い物に行ってきます」と言って外へ出た。夜が深まると、この近辺は全く人通りがなく静まり返っている。海人は電話ボックスに入り、くずしておいた百円玉を電話の上に置き、ひまわりに電話した。すると、ひまわりは待っていたのか、すぐに電話に出た。


「海人さん、早くに仕事が終わったの?」


 海人は、ひまわりの電話越しの声を初めて聞いた。


「そう、急いで仕事を済ませたんだ」


 そう言うと、ひまわりは少し笑った。ところが、まだ多くも話していないのに、電話の料金はどんどん増えていく。


「海人さん、ごめんなさい。

 公衆電話から携帯電話にかけるのって、すごくお金がかかるんだ…」


 ひまわりは、すまなそうに海人にそう伝えた。


「そうなんだ…

 じゃ、もうすぐ切れるかもしれないから、何か伝えることはある?」


 海人が焦ってそう言うと、ひまわりは黙ってしまった。


「ひまわり?」


 海人が問いかけると、彼女は小さな声でこう言った。


「会いたい…」


「僕も、会いたいよ。でも」


 そう言いかけると、非情にも電話は切れてしまった。海人は慌ててかけ直そうと思ったが、手持ちのお金はあと数百円しかない。海人は、目の前にあるバス停の時刻表を見た。最終バスは5分後にやって来る。


 ひまわりに会いたい…


 その気持ちが海人をどんどん追いつめる。右往左往している内に、バスが見えてきた。海人は何も考えずにバスに乗り込んだ。

 もう、ひまわりのことしか頭になかった。


 ひまわりは、海人の言いかけた言葉は想像がついた。

 会いたい、でも、会えない…

 切れてしまった電話は、もうかかることはなかった。

 ひまわりは、明日持っていくお弁当の下ごしらえをした。少し前に、さくらから電話があり、前に申し込んであった予備校の合宿に行かなきゃならないと、泣く泣く言ってきた。さくらはひまわりのことが気になり、その合宿に行かないつもりでいたのだが、そういう訳にはいかなかった。


「ひまちゃん、大丈夫?」


 さくらは、電話口のひまわりの様子を確かめる。


「大丈夫だよ。今日も、海人さんに会いに行ってきたんだ。もう、元気だから」


 ひまわりは、さくらに元気になったことを伝え、いってらしゃいと送り出した。

 そして、ひまわりは、台所の仕事を済ませ、歯磨きをし、もう寝ることにした。

 海人からまた電話がかかってくるかもしれないと思い、ずっと胸ポケットに入れていた携帯も、充電するためにリビングに置いた。

 すると、遠くから誰かが歩いてくる音が、かすかに聞こえた。

 ひまわりは玄関の鍵を閉めたことを確認し、他の窓の鍵がかかっているかも急いで見て回った。

 その時、カーテン越しに海人の姿が見えた。

 ひまわりは、会いたい気持ちが強すぎて幻影を見たのかと思い、もう一度、そろりと、カーテンの隙間から外を覗いてみた。


「海人さん?」


 ひまわりは、半信半疑のまま玄関から飛び出すと、そこには、はにかんだ海人が立っていた。


「ごめん、来ちゃった… 帰るバスはないのにさ。どうかしてるよ、全く…」


 私は、今まで人を愛するということに臆病になっていた。前に進む勇気がいつも持てなかった。

 でも、海人に出逢って、海人を愛することによって、私の未知の扉が開いた気がする。体裁ばかり気にしてきた私は、もうここにはいない。

 海人のためなら、なんでもする、何もかも捨てても構わない…


 その夜は、久しぶりにこの家で、二人ははたくさんの話をした。

 これからの事、もっと先の未来の事…

 そして、海人の口から過去へ戻るという言葉は、二度と出てくることはなかった。


「絶対に離さない…」


 海人はひまわりを抱きしめて、何度もそう言った。

 これほどまでに僕を惹きつけて離さないひまわりを、僕も、永遠に、何があっても離すもんか…

 この先に訪れるかもしれない別れの予感を吹き飛ばすかのように、海人は心の中で、何度もそうつぶやいた。

 ひまわりは、そんな海人の腕に包まれながら、いつの間にか静かに眠りについた。

 そして、夜が明ける前に、海人はひまわりの祖父の自転車を借りて、民宿に帰って行った。













































































































































































































































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