さよなら、紫の上

石蕗馨

第1話 初体験

  銀閣寺の程近く、哲学の道の山側にある学生向きのワンルームマンションは西向きで、午後三時頃から日没までは強い日射しが部屋に差し込んでくる。事後の疲労感にぐったりとベッドに横たわっていた紫(ゆかり)は、じわじわと上がってきた室温に眉を顰めた。

 初めてこの部屋に来た時、顔には出さないようにしたつもりだが、あまりの狭さに心底驚いた。ユニットバスとミニキッチン、それから六帖の洋間が一つだけ。ドラマで見る大学生たちが住む部屋は、ワンルームとはいえもっと広いし、男女問わず、モデルルーム張りに流行のインテリアでお洒落にコーディネートされている。当然それはテレビが作り上げた虚像なのだが、下宿生の友人がいない紫は、そのままに受け留めていた。

 この部屋には、あるのが当たり前と思い込んでいたソファも観葉植物も見当らず、それどころか、据え置きのベッドと小さなローテーブルだけで既に床に余裕は無い。聞けば、このローテーブルで食事もするし、勉強もするし、パソコン作業もするらしく、その上冬になればコタツになって、暖房器具に早変わりするということだった。




 初めて同士のセックスは、快楽とは程遠いものだった。成す術も無く、紫はただ目を閉じてベッドに横たわったまま。彼はマンガやDVD、その他諸々から得た知識を総動員して、必死に彼女の全身を弄りまくっていた。

 ご多分に漏れず、童貞だった彼には挿入時に目指す場所が分からなかったようで、危うくとんでもない事になるところだったのだが、余程切羽詰まったのか、とうとう「場所を教えて」などと言い出し、紫を大いに困惑させた。紫だって正真正銘の処女なのだ。まさか、その姿形を確認したこともない彼のモノを掴み、自分の足の間に宛がうなんて真似ができるはずもない。だいたい自慰すらしたことがなく、それどころかタンポンを使った経験も無い紫には、いくら自分の身体とはいえ、目的とする場所の位置が今一つ分かっていなかった。

 すったもんだの末、随分と長い時間を掛けて、それでもなんとか事を成し遂げた二人は今、大きな疲労感に苛まれつつ、ベッドの上に並んで横たわっている。

「紫ちゃん、ありがとう」

「えっ?」

「君の初めて…貰っちゃったから」

 紫の髪を指先で梳きながら、彼はふわりと笑った。一点の曇りもないピュアな笑顔を向けられて、紫は何と返したらよいのか分からず、しばらく黙り込んだ後、ようやく「うん」と小さな声で頷いた。それを照れ隠しとでも思ったのか、彼は頬をほんのりと染め、ますます嬉しそうに微笑む。これではまるで、彼の方こそ初心な乙女のようだ。紫が碌に返事ができないのは、恥らっているからという訳ではないのに。




 ついさっき、紫は処女を捨てた。本当は「初めて彼と結ばれた」とでも言うべきなのだろうが、どちらが紫の心情に近いかというと、間違いなく前者の方だった。

「綺麗な髪…」

 彼は目を細めてうっとりと呟くと、紫の長い髪を一房手に取り、そっとそれを自分の唇に当てた。まるっきり癖の無い紫がかった黒髪は、窓越しの午後の陽光を浴びて艶々と輝き、見るからにしっとりとして、誰だって思わず触れたくなるだろう。

 古今東西、男という生き物は、長い髪の女が好きだ。特にこの国では、遥けき昔の姫君たちの美しさの条件に髪の長さが含まれていたせいか、千年を経た現代でも、ストレートロングの黒髪への憧れは根強く残っている。

 紫は容姿に恵まれていた。背の中ほどまでを覆う豊かな黒髪は、抜けるように白い肌によく映える。切れ長の目はくっきりした二重瞼で、黒目がちに澄んだ双眸は、まるで射干玉(ぬばたま)そのもののようだ。特別背が高い訳ではないが、手足がすらりと長く、いつも背筋がピンと伸びているので、実際以上に長身に見える。

 すれ違った者が無意識にぱっと振り返ってしまうほど美しいとなると、さぞかしモテるだろうと思われがちだが、隙の無いきりりとした顔立ちは近寄り難い印象を与えるようで、これまで異性に「可愛い」と褒められたことは皆無に近く、言い寄られた経験もほとんど無い。亡母の従兄で、紫の後見人である大森小父が「紫ちゃんはしっかりしてるから」と口癖のように言う通り、見るからに女丈夫な紫は、同年代の青年たちからすれば煙たい存在で、少々ハードルが高いのかもしれなかった。




「紫ちゃん」

「なに?」

「キス、したいな」

 思わず言葉に詰まった。今の今まで、この男はさんざん紫の身体を弄り倒していたのだ。唇を合わせるくらい今更わざわざ同意を得る程のことでもないだろうにと、隣に寝転んでいる彼の顔を見上げれば、とろけるような甘い眼差しとぶつかった。

(そうか…)

 これは恐らくピロートークというやつで、特段内容は無いけれど、事後の余韻を楽しむ恋人同士の重要なコミュニケーション――な筈だ。幾ら恋愛初心者とはいえ、それくらいの知識はあるので、紫は慌てて「うん」と頷いた。

「私もしたい」

「紫ちゃん…」

 彼は感極まったような顔をして、しばらく紫をじっと見つめると、彼女の頭の下からそっと腕を抜き、おもむろに身体の上に覆い被さった。

「大好きだよ。大切にするからね」

 生真面目な顔でそう言うと、彼はチュッと音を立てて紫の唇を軽く吸った。二度三度とそれを繰り返す彼の様子を探る限り、先程の紫の返答は間違ってはいなかったようだ。

(よかった…)

 紫は心の中で、ホッと息を吐いた。彼氏持ちの友人たちに比べ、絶対的に可愛げが無いことは自覚しているので、彼と会話をする時、紫は細心の注意を払うようにしている。取り繕うつもりはないが、せっかく好意を向けてくれる相手に、嫌な思いはさせたくない。

 中高一貫の女子校育ちの紫にとって、同じ年頃の異性と親しくなるのは、実に小学生以来のことだった。友人の中には、塾や予備校で他校の男子生徒と仲良くなる者もいたけれど、紫はまるっきり興味が無かったし、取っつき難い外見が災いして、彼らの方から声を掛けてくることも全く無かった。

 男兄弟でもいれば事情が違ったかもしれないが、一人っ子で、父親とも疎遠な状態が続いている紫には、男というものがまるで分からない。どんな思考をしているのかも勿論だが、身体的生理的なことについてもだ。

 彼とセックスをしようと決めた時、これは重大な問題だった。セックスとは具体的にどういう行為なのか――それはその手の雑誌やネットで幾らでも調べることができたが、男の身体そのものについては、女性同様個人差が大きいと思われ、何を参考にすればよいのか判りかねた。

 テレビや雑誌で裸体を披露している男性は、見た目を売り物にしているくらいだから、綺麗なのは当たり前だ。ケアなんて全くしないだろう一般の若者の身体は、もっと毛深いかもしれないし、脂ぎっているかもしれない。男性専用のボディシャンプーがわざわざ売られていることを考えれば、ひょっとしたら、鼻が曲がる程体臭が強いのかもしれない。もしも彼の身体がそんな風だったら、触れたり触れられたりという行為を受け入れられるだろうかと、紫は本気で悩んだ。

 しかしながら、結果的に紫の想像は全て杞憂に終わった。二十歳の若者らしくひょろりとしてはいるものの、元高校球児という彼の身体は程よく締まっていて、決して貧相でも汚らしくもなかった。幸いなことに、これだけは生理的に無理だと思っていた胸毛は見当らず、それどころか脇毛も脛毛も大して生えていなかった。脇毛に関しては、手入れをしていない時の紫よりも、むしろ少ないくらいだ。すべすべとした肌にはニキビの痕すらなく、こっそり嗅いでみたところ、気になるような臭いもしなかった。




 ふと、腿の辺りに硬く熱を持ったものが触れているのに気付いた。一瞬何だろうかと考えたが、察するところ、勃起した彼のモノに違いない。

(したいのかな…)

 形を変えているのだから、恐らくそういうことなのだろうが、紫の身体にはまだ先程の行為の名残りがあった。腰は重いし、受け入れた場所には異物感もあるし、吸われ過ぎたのか、乳首はヒリヒリと痛い。

 正直、勘弁して欲しかった。胸への愛撫はそれなりに気持ち良かったが、挿入時の痛みは半端なく、もう一度という気分には到底なれない。できることなら早くシャワーを浴びて、汗と体液でべとべとした身体をさっぱりさせたい。

 もう一度求められたらどうしよう、断ったら気を悪くするだろうかと紫が内心ビクビクしている事に気付いた訳ではないと思うが、彼は抱き締めてくるだけで、欲に走る素振りは見せなかった。そういえば繋がりを解いた後、しきりに「辛くないか?」と紫の身体を労わってくれた事を思い出す。大切にするという言葉は、本当なのかもしれない。




 彼――霧島夕貴は紫と同い年で、京都市内にある国立大学の二回生だ。半年前、紫の中学高校時代の友人である沙月がセッティングした合コンで、二人は知り合った。

 人見知りという訳ではないが、初対面の男といきなり親しく話せるような気安さを持ち合わせているとは思えなかったので、紫はこれまでその手のイベントに参加したことは無かったのだが、人数合わせの為にどうしてもと沙月に頼み込まれ、渋々顔を出すことになったのだった。

 男性陣は全員夕貴と同じ大学の学生で、沙月の彼氏の友人たち。そして女性陣は沙月が通う女子大の友人たちで揃えられる筈だったのだが、どうしても最後の一人が見つからず、他大学生の紫が入ることになった。

 男性女性どちらにも知り合いがいない場に引っ張り出された紫を、たまたま隣席だった夕貴は、とても気遣ってくれた。がっついたところが無く、礼儀正しく明るく爽やかな彼に、平素は男性を見る目が厳しい紫も、素直に好印象を持った。後日沙月を通してデートに誘いたいと連絡があり、コンパの場では随分世話になった為に断り辛く、一度会うくらいならいいかと承諾することにした。

 クリスマス前の土曜日の午後、四条河原町のマルイ前で待ち合わせ、新京極のMOVIXで映画を見た後に食事をした。ちょうど見たいと思っていた映画だったから、その後の会話は思った以上に弾んだような気がする。別れ際に連絡先を聞かれ、紫にしては珍しく、その場で携帯の番号とアドレスを教えた。その後は電話やラインで取り留めもない会話をするようになり、何度か誘われて一緒に出掛け、交際して欲しいと言われた。

 女子校育ちの上、生来の愛想の無さが災いしてか、大学生になっても恋愛とは無縁の生活だったので、まさかの展開に紫自身が大いに驚いたが、ひょっとしたら外見が気に入られたのかもしれないなと思い至った。これまでも紫の髪や顔を、「綺麗」と褒めそやす男は少なからずいたからだ。

 そう考えると複雑な心境ではあったが、結局は彼と付き合ってみることにした。そろそろ一度、恋愛というものを経験したかったからだ。二十歳という年齢を考えれば、恋人が欲しいと思うのは至極当然のことではあるけれど、紫の場合は少し違う。

 紫は将来失敗しない為に、少しでも恋愛経験を積んで目を肥やしておきたかった。幸い夕貴は見目も悪くなく、穏やかな性格で、一緒に居て不愉快な気分になることも無い。未だ紫のどこが気に入ったのかは分からないけれど、彼女自身も不埒な理由で彼と付き合っているのだから、文句は言えない。

 セックスすることに同意したのも、交際を承諾したのと同じ理由だった。元々、後生大事に処女を守る気も無く、むしろ早く経験したいとすら思っていた。結婚相手が初恋の人で、処女を捧げた人なんて事態になるのは避けたかったからだ。

 生涯の伴侶はじっくり見極めて選びたい。恋に溺れ、周りが見えなくなって、自分をも見失い、道を踏み誤るなんて嫌だ。恋を失った時、悲しみに負けて、心が壊れてしまうのも嫌だ。もしも相手に裏切られたら、絶望に打ちひしがれるのではなく、報復を与えてやれるくらい、強く逞しい女になりたい――紫はそう思っている。


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