第五章

5.1 迷うことなく過去に告げた


「ここ、計算間違ってる」

 聞こえてきたのは、愛しい人の声。月守風呼つきもりふうこの記憶だ。

 押し寄せてくる過去の波。さすがに、もう慣れてきた。


 季節は夏。場所は……教室らしい。わたしとシロちゃん以外は、誰もいなかった。目の前には数式の書かれたノートと、シャーペンを握る自分の右手。

「あ、ほんとだ。ありがと」

 消しゴムで間違った箇所を消し、新しく正しい数式を書き込んだ。


 人生もそんな風にやり直しができたらいいのに。

 それができないから、慎重になる。慎重になって、好きな人に好きな気持ちを伝えるのを躊躇ためらってしまう。


 やり直しができたら、もっと積極的になれるのに。でも、やり直しができる世界での“好き”は、やり直しができないこの世界の“好き”よりも、価値が低いような気がした。


 やり直しができないからこそ、人は“好き”を大切にするのだろう。

 そんな、らしくないことを思った。


 ふと、目の前にいる好きな人を見る。

 先の丸くなった鉛筆で、複雑な数式をすらすら展開させていく。

「相変わらず、鉛筆使ってるんだね」


 鉛筆によって綴られる彼の数字や文字は、シャーペンを使っているわたしのものよりも数段太い。しかし、綺麗に並べられているためか、読みにくさはない。

「まあね」

 視線はノートに落としたまま、シロちゃんは答える。


 二人きりの放課後の教室は、普段の様子からは想像もつかないくらいに静かで、まるで別の場所のように感じる。

 成績が悪くて、居残りをさせられているわけではない。数学が苦手な私が、シロちゃんに教えてほしいと頼んだのだ。


「……ねえ、シロちゃん」

 どうしようもなく、この人が愛しい。

 今言わなくちゃ。この気持ちは、今伝えないと、絶対に後悔する。根拠はないけど、そう思った。


「ん?」

 問題を解き終わったようで、シロちゃんは一度顔を上げた。

 わたしは、その顔をじっくり三秒ほど見つめる。シロちゃんも目を反らすことなく、わたしのことを見ていた。


「好きだよ」

 愛という世界で最も不確かな感情は、わたしの心の奥底から喉へと伝わり、四つの音となって口から漏れた。不思議と、照れはなかった。


 拒絶されたら悲しいなとか、気まずくなったらどうしようとか、そういったことも考えなかった。ただ、伝えなくちゃ、とだけ思った。


「僕も好きだよ」

 シロちゃんは微笑んでそう言った。驚くでも戸惑うでもなく、当たり前のようにわたしの言葉を受け止め、同じ言葉を返してくれた。


 キャッチボールのように、私がシロちゃんに投じた“好き”がそのまま返ってきたわけではない。わたしの“好き”はシロちゃんが、シロちゃんの“好き”はわたしが受け取った。わたしたちはこのときたしかに、“好き”を交換したのだ。


 同じ気持ちであることが、とんでもなく嬉しい。わたしは、この世界に生きる誰よりも幸せだと思った。


「初めて会ったときから、ずっと好きだった。風呼となら、ずっと一緒に生きていけるって、風呼は僕の運命の相手だって、そう思ってた。おかしいよね。まだ付き合ってもないのに。ごめん、今のは忘れて」

 シロちゃんは苦笑する。


「じゃあ、付き合おうよ。それで、結婚しよう。二人で、デートして、ケンカして、泣いて、たくさん笑って、ずっと一緒にいよう。どっちかが死ぬまで、一緒にいよう。二人とも死んだら、来世でまた会おう。おかしくなんかないよ。わたしも同じ気持ちだもん」

 ずっと言いたかったことを、一気に言うことができた。


「ありがとう、風呼」

 彼の目尻から、光る水滴が流れて、頬を伝った。

「シロちゃん、泣いてるの?」


「あれ、本当だ。気づかなかった」

 彼は手の甲で涙を拭う。

「何かあったの?」


「最近ちょっとつらいことがあってね。風呼に聞いてほしいな。でも、嫌われるのは怖い」

「ううん。大丈夫だよ。何があっても、わたしはシロちゃんの味方だから」


 シロちゃんは軽く目を伏せてから、ポツポツと言葉を紡いだ。

「……実は、うちの両親が、離婚しそうなんだ。僕のせいでもあるんだけどね」悲しげに話すその様子に、わたしまで泣きそうになってしまう。「毎晩のように言い争いが繰り返されて、父親が大声で怒鳴ったり、母親が泣き出したり……」


 そんなシロちゃんの独白を、わたしは黙って聞いていることしかできなかった。それはシロちゃんのせいじゃないって、本当は言いたかったけれど、本人だってそんなことはわかってるはずなんだ。


「結婚して不幸になるのなら、どうして人は人を好きになるんだろうって、ずっとそう思ってた。でも、人を好きになることに理由なんてないんだね。こんな当たり前のことに気づけたのは、風呼のおかげだよ。だから、この涙は嬉し涙なんだ」


 無理をしていることは明白だった。だからわたしは、こう言ったのだ。

「大丈夫。わたしとシロちゃんは絶対に、幸せになる」

 根拠はなかったけど、確信はあった。


「ありがとう、風呼。そうだ! 二人の――」




 ――起床。すぐに枕元のノートにペンを走らせる。

 あまりロマンチックとは言えないような雰囲気での、突然の告白。それでも、頬は熱を帯びる。


 新しく記憶を思い出すたびに、私自身がシロちゃんに惹かれていくのがわかる。

 月守風呼の、シロちゃんに対する想いの強さも再確認できた。彼女のためにも、私は運命の相手に出会わなくてはいけないと、そう思った。


 でも、シロちゃんの両親が離婚しそうなのがシロちゃんのせいって、どういうことだろう。月守風呼はその理由を把握していたみたいだったけど……。

 それと、シロちゃんが最後に言いかけた言葉の続きも気になる。

 記憶が増えても、謎は多くなる一方だ。

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