第26話 結5 進展

 結は体調不良という理由で、今日は仕事を休んでいた。実際体調が優れなかった事も嘘ではないが、休むほどではなかった。大半は、昨日の夜の出来事が頭を離れず、仕事をする気が全く起きないという理由だった。

 昨日の夜、結は高谷に自分の想いを伝えた。そしてその答えは少し考えさせて欲しいというものだった。

 しかしその言い方はとても冷たく聞こえたし、全く嬉しそうではなかった。答えを聞かずとも、結には結果は分かっていた。

 きっと私を傷つけないような大人の言い訳を考えて来るに違いない。

 彼女はそう思っていた。

 そして今、時間は昼の11時50分を回り、もう10分もすれば問診に高谷が来る時間だ。結はコーヒーの用意を始める。いつもなら楽しい時間だが、今日はそわそわと落ち着かない。できれば高谷に来て欲しくないとさえ思っていた。


「ピーンポーン」

 玄関の呼び鈴が鳴った。いつもより少し早い。まだコーヒーの準備は出来ていなかったが、結は玄関に向った。

「こんにちは」

 高谷はいつもと変わらぬ様子で玄関に立っていた。

「体調悪いんだって? 事務局で聞いたよ。大丈夫? 問診出来る?」

 高谷は心配そうに聞いた。

「ごめんなさい。半分ずる休みなんです。体調は平気です」

 結は嘘をつく事が面倒で、正直に話した。

「そうか、じゃあ、心置きなく問診できるな」

 高谷は少し笑うと、部屋の中に進んだ。

 部屋に戻ると結はコーヒーの続きを用意した。高谷は黙ってダイニングテーブルの椅子に座っている。

「いつも、コーヒー入れてもらって悪いね」

 高谷が言う。

「いえ、コーヒー入れるの好きですから」

 お互い、いつものように会話が弾まない。結は気を抜くとため息が出そうなのを、一生懸命抑えていた。聞きたくない結果を聞くぐらいなら、一生その事について話して欲しくなかった。


「はい。できました」

 そう言うと結はコーヒーをテーブルに置き、自分はお気に入りの1人がけのソファーに腰掛けた。

 これも高谷に頼んで購入してもらったものだった。

 高谷はそのコーヒーをゆっくり一口、口に含むと、香りを楽しむようにゆっくりと喉に流しいれた。そして口を開く。


「問診をする前に話しておきたいことがあるんだ」


 結は遂に来てしまったと思った。

「はい……」

結はゆっくりと高谷の答えを待つ。


「昨日、君が言ってくれた事に関して、僕なりに考えた」

 高谷は柄にも無く、結専用に置いてある、テーブルの上の角砂糖を一つコーヒーに入れた。

「君の事をそういう……、なんと言うか、女性としてみていたわけではなかったから、正直驚いたよ」

 結は何を言われても傷つかない様に、一番辛いふられ方を想像し、心の準備をしていた。

「ただ、言ってくれた事は素直に嬉しくて、この気持ちはどういうことなのか、うまく説明は出来ないんだが……」

 高谷はいつもの問診とは違い、歯切れの悪い口調で続けた。


「その、今後の事を考えた時…、それは君がここを出た行った後という事なんだが、僕も君を近くで見守っていたいと思ったんだよ」


 結は想像とは違う高谷の答えに驚き、伏せていた顔を上げて目を丸くし、高谷を見つめてしまった。

「けれど、この場所では、やはりしっかりと、住人と担当医の関係は崩さずにやっていきたいんだ。だから頑張って早くここを出られる様にしよう。そしてここを出たら、ゆっくりと二人の関係を築いていけたらと思うんだが……。どうだろう?」


 高谷はいつもの垂れ下がった優しい目でこちらを見ていた。結はあまりの嬉しさに、すぐに返事が出来なかった。突然体中に新鮮な血液がめぐっていくようで、胸の鼓動を抑えられずにいた。ふいに目から涙がこぼれた。それを見た高谷が、どうして良いか分からず、頭をかきながら、どこかに涙をふき取るためのティッシュ等が無いか、部屋を見回した。


「すみません。大丈夫です」

 結は枕元にあったボックスティッシュを一枚取り、涙を拭いた。

「昨日から嫌な事ばかり想像していたものだから、びっくりしちゃって……。でも、良かった……。高谷さん、私頑張ります。なるべく早くここを出られる様に」

 それを聞いた高谷は優しげな笑みを浮かべうなづいた。

「そうだね。一緒に頑張ろう」

 結も高谷に笑顔で頷き返した。


「……じゃあ、早速今日の問診を始めても良いかな?」

 高谷はいつもの問診用端末を白衣のポケットから取り出しながら言った。

「え?もう……ですか。あの、もう少し余韻を味わいたいのですが……」

「何を甘えた事を……。 早くここ、出たいでしょ?」

「はい! 宜しくお願いします!」

 いつもより気合の入った結の声に、高谷は顔を隠すように下を向き笑っていた。


 それから結は、順調にこの施設での日々を過ごした。あれから一度も仕事を休むことは無かったし、適度な運動や、自炊を心がけ、心身共に健やかに保てるよう努力していた。高谷もそんな彼女を微笑ましく感じていた。そして1カ月程たった頃、高谷が昼の問診終了後に言った。


「今週末、二十四日、仕事とか用事とか入れてる?」

「いえ、仕事も用事も無いですけど……」

 それを言ったあとで、結はその日がクリスマスイブだという事に気付いた。気付いた後で、もしかしたら食事でも誘ってくれるのではないかと期待をして、彼の次の言葉を待った。


「その日、君の外出許可の申請を出していたんだけど、それが受理されたんだ」

 高谷は結を驚かせない為になのか、あえて冷静に話をしている様だった。当の結は、まだ高谷の言葉を理解しきれていない様子で、ぽかんとした顔で彼の方を見ていた。

「だから、一緒に車で、ここからちょっと離れた場所に行ってみないか?」


 ここへ来て、結はやっとこの会話の内容が理解できた。満面の笑みを浮かべると、噛み締める様に頷いて言った。


「絶対、行きます」


 この時、結は、今までの自分が生きてきた人生の中で、きっと今が一番幸せなのではないかと思っていた。今までの人生を全て捨てなければ、生きていくことすら出来なくなった様な人間でも、一度リセットすれば、こんな幸せを味わう事が出来る。

 結はここへ来る決心をしてくれた、過去の自分に感謝したい思いだった。

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