第10話 理香2 苛立ち

 なぜちょうど良く高谷が現れたのか、一瞬、不思議に思えたが、不意に察しが付き振り返ると、バーの入り口付近で店長と思われる中年の男がこちらの様子を伺っていた。きっとその男が事務局に連絡して、担当医を呼んだに違いなかった。

 バーのこの男とは、一度飲みすぎて口論をした事があったので、名前か部屋番号か何かを覚えられているのだろう。


 理香は高谷の顔を見ると気まずそうに視線を落とした。


「長谷川さん、部屋に戻ろう。君も悪かったね。何か店の物で壊れたものなんかあったら、事務局に連絡しておいてくれるかな」


 高谷が電子端末を持った彼に言った。


「いえ、大丈夫そうです」


「そうか良かった」


 高谷はそう彼に笑顔を見せると、理香の方を見て目線でエレベーターの方へ行く様にあおった。理香は仕方なくエレベーターの方へ歩みを進めた。

 歩きながら店の方を振り返り、頭を出している店主を睨み付けた。

 エレベーターに乗ろうと下りボタンを押そうとした高谷の手が止まった。


「少し話がしたいから、フリースペースに行かないかい? 何か奢るよ」


 理香はうなずいた。


 少し廊下を歩くと、ガラス張りのフリースペースには心地よいソファーがいくつか置かれていた。しかし時間が遅いからか、珍しく誰も居なかった。


「また、外出許可が下りなかった事にイライラしてたんだろ?」


 ドアを押し開けながら高谷が言う。理香は答えない。


「君のそういう態度が逆効果だって事もわかってるんだろ?」


 理香はうなずく。


 二人は窓際の大きめな一人がけのソファーにそれぞれ腰を下ろした。


「あ、何か飲むかい?」

 高谷が理香に尋ねる。


「じゃあ、ココアにしようかな」


 それを聞くと高谷は立ち上がり、自動販売機の方へ歩いていった。

 理香は窓の方を見た。

 外は真っ暗で、部屋の電気も大分暗く落とされてはいたが、ガラスにはソファーに腰掛ける自分が映りこんでいた。

 真っ黒なセミロングの髪は、前髪が長めにぱっつりとそろえられている。不健康そうな白い肌、痩せた体。黒いニットにジーパンに黒いスニーカー。その姿を見ながら、外の世界に出たら、現代版魔女だと思われるんじゃないか……。等と考えていた。


「はい、これ」

 戻ってきた高谷が暖かい缶を理香に渡す。


「アルコール摂取量の把握は、絶対的に必要なものなんだ」


 高谷が自分のブラックコーヒーの缶を開けながら言った。


「病院に入院したりなんかすると、薬を決まった量飲んだり、食べ物の制限があったりするものなんだよ。ここは病院とは少し違うけど、そういったところでは似たようなものだ。

 君達には、極わずかだが脳の外科的処置が施されている事は前にも話したよね。アルコールは脳にかなりの影響を与えるから、特に制限が必要だ。逆にここが病院だったら鼻から禁止なんじゃないかな。そんな理由でアルコールの摂取状況はこちらで管理させてもらっている。これで納得できるかな」


 高谷の説明はもっともだった。理香も自分の荒々しい行動を、恥じ始めていた。


「その理由は分かります。でも、なんかあの履歴を見た時は、自分の生活がまるで監視されているような嫌な気分になったんです。アルコールが良くないなら、最初からここで出さなきゃ良いのに、そういうものを店に置いておいて、それをどう買っているか監視するなんて、実験用モルモットにでもなった気分です」


 高谷は自分のコーヒーに目を落としながら言う。


「しかしね、君らが外の世界に出たら、店にはお酒が置いてあるし、お酒以外のもっと危ない物だって、入手しようと思えば手に入れられる。例えば違法薬物とかね。そう言った誘惑物への欲求を、自分で制御して生活していかなければならないんだよ。毎回僕らが注意しに行くわけにもいかないし。その欲望に負けてしまう人間が居るから、世の中では犯罪が後を絶たない。ここでは皆にその欲望を制御する力がちゃんと働いているかを見ていて、その力を身につけてもらうように、敢えてお酒なんかも飲める様にしているんだよ」


「それで私は、まだそれを制御できないから、外へは出してもらえないって事……ですか」


 理香が肩を落としながら高谷に向かって言う。高谷はまだコーヒーに目を落としている。


「そういうことになるね。僕だって早く君に外の世界を見せてあげたいんだ。だからなるべく自分の気持ちを制御できるようになってほしい。特に君は思春期っていう多感な時期をここで過ごしている訳だから、難しい事だとは思うよ。外の世界にだって、君くらいの年齢で、いまの君より、よほど自分をコントロールできない人間がうじゃうじゃいる。

 本当は君が特別という訳じゃないんだけどね」


 高谷と話していると、最後にはいつも暖かい安心感に包まれた。

 それは、眠れずに夜中に飲むホットミルクに似ていた。

 理香は、一度その話を高谷にしたことがあった。すると高谷は、「それは、脳内物質のセロトニンの効果であって、牛乳に含まれるトリプトファンが……」と良く分からない単語を並べ出したので、その先の話はあまり覚えていない。


 気付くと二人とも話しもせず、静かな時間が流れていた。高谷も理香と同じように何か思い出していたのかもしれない。


「もう部屋に戻る?」


高谷が優しく言う。


「そうしようかな」


理香と高谷は立ち上がり、空き缶入れに飲み終えた缶を入れると、元来たエレベーターの方へ歩いて行った。高谷が下行きのボタンを押す。


「今日はもう帰るの?」


理香が高谷に尋ねる。


「もう少し事務局で書類の整理をしてから帰るよ。何で?」


「いや、いつもこんな遅くまで働いて、私生活は大丈夫かなと思って。なんかあたしのせいで残業させてるかな~って」


到着したエレベーターに2人は乗り込む。


「そうだね、それはあるかもね。だからもう問題は起こさないで下さい」


高谷は少し笑いながら理香の顔を覗き込んだ。


「はい、すみません……」


理香は申し訳なさそうに笑いながら、頭を下げた。


「チン」

エレベーターが36階に到着する。


「じゃあ、おやすみなさい」


理香そう言いながら、エレベーターを降りる。


「まっすぐ帰れよ~」


高谷は笑いながらそう声をかけ、左手は手を振るポーズをとりながら、右手で閉じるボタンを押した。理香はその扉がしっかり閉まるまで高谷を見送った。

 担当が高谷さんで良かった……。

 頑張ればきっとあたしにもここを出る日がやってくる。早く大人にならないと。理香はそう思いながら、自分の部屋の方へ向き直り、足を進めた。


 心地よい眠気がやってくるのを感じながら、23612と書かれたドアをカードで開き、玄関で靴を脱ごうとした。


 しかしその時、足元に何か違和感を感じた。

 気になって玄関の電気を付けると、そこには小さな鍵が落ちていた。

 玄関ドアのポストから投げ入れられた物だろうか。理香は靴を脱ぎながらそれを拾い、これが何の鍵かを考え様とした。

 見たことはある様な気がするが、どこで使える物かは分からない。

 使った事は無いように思えた。理香はそんな事を考えながらベッドに横になると、そのまま深い眠りについてしまった。

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