第7話 結(ゆい)

 第3棟の29階 32915号室に住む中野結は、担当医である高谷に、密かに想いを寄せていた。


「先生、お疲れ様」


 夕方、大量の書類整理を終えた高谷は、第3棟1階の中庭にある、カフェに休憩を取りに来ていた。先程レジで頼んだホットのブラックコーヒーを、お盆に乗せて運んで来たのが、結だった。


 この施設では、1人の医師が、3、4人の患者を担当する事になっている。高谷は、現在4人の患者を担当していた。


「ああ、結ちゃんか。そうか、ここのカフェで働くことになったんだったね。どう、仕事は?」


「楽しいですよ。もともとコーヒーとか好きですし、ここで働く事になってラッキーだったなって思ってます」


 その時調理場の方から声がした。


「結ちゃーん、これ3番さんにお願いしまーす」


結はその呼びかけに、軽く返事をすると、


「じゃあ、先生、また明日の昼の診察で」


 と、足早に戻った。そんな風に忙しそうに駆け回る結を見て、高谷は微笑ましく感じていた。


 21歳の終わり頃、ここにやってきた結は、学習教室にしばらく在籍し、その後すぐこのカフェで働く事になった。


 この施設の中では、義務教育の年齢のものは必ず学習教室に通わねばならず、それ以降は、外の世界で大学卒業に当たる22歳までは、本人の意思によって、学習教室への在籍を認められる。そして22歳を越えている者は、何かしら仕事が与えられるようになっていた。仕事を通し、外の世界に出た時に困らない技能を修得するのだ。


 その他仕事以外の知識も、講習を毎日受けて、再スタートへの準備を整える。結の様子を見ていると、同僚ともうまく馴染めているようで、彼女なら早い段階で無事にここからでていけるに違いないと高谷は感じていた。


 結は仕事を終えると、控え室で自分の服に着替え、カフェを後にした。レースのクリーム色のロングスカートに、トップスは甘くなりすぎない、グレーのボーイッシュなトレーナー。

 以前に雑誌で見たコーディネートを、高谷に頼んで、インターネットショップから購入してもらったものだ。

 この施設内には、洋服を購入できる場所もある。インナーなんかは現品も置きながら、殆どはカタログをみて、そこから取り寄せてもらうといったシステムだ。

 基本的には結もそこの商品で賄っていたが、やはり月に一度は何点か欲しいものを雑誌から見つけ、高谷にお願いしていた。その中でも今回購入したコーディネートはお気に入りだった。

 棟の中、1、2階に位置する、モールと呼ばれる、中庭のカフェを中心に薬局や書店、洋服屋や靴屋、スーパーマーケットが並ぶ場所を、部屋に帰る前に一周していると、ショップのウィンドウに自分の姿が映った。長く伸ばした髪の調子も良くつやつやとしていた。


 結はこのまま帰るのはつまらないなと思っていた。しかし今月は事務局から言われている一月の現金使用限度額にかなり近い額まで買い物をしていた。よって、ショッピングを楽しむ訳にはいかない。

 それを思い出すと、結は少しつまらない気分になり、仕方なく自分の部屋に戻る為、エレベーターに向かった。


  彼女の部屋は、他の住人とは違うタイプの部屋なのでは無いかというほどに、ここへ来た当初の部屋の状態からは大幅にインテリアに手を入れていた。


 まず、白い真四角のダイニングテーブルと椅子のセットは、高谷に趣味が悪いと訴え、どこか違う場所に持っていってもらった。そして、インテリア雑誌で見た、比較的コストパフォーマンスの良い、ビンテージっぽい木目がきれいな机と、大人っぽい落ち着いた花柄の、布張りの椅子を購入した。それからも、カトラリーやら、観葉植物やら、出来る範囲で自分の落ち着く環境を作り上げた。高谷曰く、それは自分の個性を主張しようとする良い傾向だから、好きな様にやればよいという事だった。

 結からすればその提案は有難く、気分良く、次々色々なものを買い足していった。だがいくら物を揃えても、部屋にまだ何か足りないという気持ちが付いてまわった。最近ではもう買い換える物も無く、どこを変えれば満足がいくのか、買い足すものを考える日々が続いていた。


 また、日々買い物をする中で、一つ気付いた事もあった。

 この施設では、人によって使用限度額が違うという事だ。


 それは学習室で知り合った女友達と何人かで買い物に行った時、結の限度額ならいくつ買っても大丈夫そうなものを、その友人達はひたすら迷った挙句、結局今月は我慢するといって買わずに帰って行った。その少女達が、他に何か違う事にお金を使っている様子も無く、明らかに施設から使用を制限されている金額が違うのだと感じた。

 この施設の中で、その金額について、秘密にするかどうかは、個人の裁量に任せられているようだが、彼女はそれから、使用限度額の話を友達とする事、皆で買い物に行くことを避けるようになった。

 限度額が違うのも、何か施設側の意図がある様な気がした。

 それは結の住んでいる部屋の階数にも関係しているのではないかとも思ったが、あまりそういった事は考えないようにした。

 結は毎日、いつでもここを出られる準備を整えて置く事、ここでの生活をなるべく楽しく送る事、それと、いつでも綺麗でいる事を考えていた。

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