3-2 死ねない男(2)

 拉致同然に連れられてきたが、料理は最高だった。伯爵は饒舌で、神と天使と預言者の物語の著者である彼女にとって、大変興味深い話が聞けた。


 イスラエルの民がカナンに向かう途中、水不足になり、天使たちは手分けして地中に潜り、荒野で水を探し出した。上に岩があったので、モーセらに命じ、岩をどけて、水をくみ出すことができるようにした。

 ところが、当時の天使長エノクが、モ―セが民の前で岩に命じて水が出たようにしろと、無理な命令をだしてきた。そこで、水が湧き出る上に岩を蓋のように載せて封をした。モーセは、民の前で岩を杖で叩き、岩の位置をずらした。リハーサルは一度で成功したが、本番は一度ではうまくいかず、モーセは二度叩いた。


 洗礼前のイエスは二人で面倒を見ていたわけではなく、アズラエルが担当で、ラファエルは洗礼者ヨハネを担当していた。二人とも、ガブリエルの手伝いでパレスチナを離れることが多く、ヨハネやイエスにつきっきりというわけではなかった。そのうえガブリエルからイエスを神の子だと聞かされていたアズラエルは、イエスを畏れ敬うあまり、指導らしい指導ができず、イエスは普通の木工職人の子どもとしてすごした。それで、宣教前の記録はほとんど残せなかったと伯爵は語った。


 ハルミはそこまで聞くと、「また、嘘ですよね」といって、伯爵の説明を遮った。

「私も自分の本では、イエスにも受胎告知があったように書いたけど、それならマリアがイエスのことを頭がおかしくなったなんて思うわけないから、ルカやマタイの生誕のエピソードは全部作り話。だから、ルカやマタイでは受胎告知と矛盾しないように、身内の人間がイエスの頭がおかしくなったと聞いたという、マルコの内容が省略されている。


 といっても完全な創作というわけでもなくて、本命というか、唯一の候補のインマヌエルの実話をイエスに置き換えた。インマヌエルの養父はダビデの家系で、本当の父親はザカリヤ。つまり、洗礼者ヨハネの異母兄弟。

 ヨハネは死海近くにいたはずで、ベツレヘムともエルサレムとも近い。あなたたちはエルサレムを拠点に、ベツレヘムのインマヌエルと死海近くの荒野にいたヨハネを監視していた。ナザレだと百キロ以上離れていて不便だけど、ベツレヘムなら気軽に行き来できる。だけど、インマヌエルは大人になって頭がおかしくなるか、死んでしまって、代わりを探すことになった。


 インマヌエルはベツレヘムですでに神童ぶりが噂になっていたので、別の場所で探すことにした。預言の地カファルナウムまで行ったけど、いい人材に巡り会えず、次の候補地エドムに行く途中、若枝に発音が近い街道沿いのナザレ村に寄ってみて、そこでイエスを見つけた。異邦人のガリラヤは、元々カナン人が多く住んでいて、長年外国の支配下にあったから、イエスはダビデの子孫どころか、純粋なユダヤ人とは言えない。それでユダヤの王なんておかしい」

 イスラエル人は、カナンの先住民を全て追い出したわけではない。


「イエスはヨセフとマリアの間に普通に生まれ、三十歳まで普通にすごし、ある日いきなり主からおまえは救世主だと告げられたんですよね?」とハルミが聞いた。

「あなたはご自分の本に嘘を書いたのですか」

 伯爵は質問をかわした。

「イスラム伝承で、ザカリヤは大工というのがあるから、最初は受胎告知が本当のことだと思ったけど、インマヌエルとイエスをガブリエルが混同したか、受胎告知が嘘だとばれないように、用意周到な罠をしかけたんだと思います。説明がややこしくなるから、私は自分の本ではそのあたりを省きました。で、どうなんですか?」

「ガブリエルが、どうムハンマドに教えたのか知りませんが、たしかにインマヌエルという若者はいました。イエスより若く、大人になってすぐ亡くなりました。それで私はアズラエルをパレスチナに残し、ローマにいたガブリエルのもとに出向き、正直に話しました。ガブリエルはひどく私を責めました。それで私はイエスが亡くなったときは、本当のことを言いませんでした」


 ハルミに押され、伯爵は打ち明けた。予想していたとはいえ、関係者の口からじかに聞くと、彼女の気分は重くなった。それはキリスト教の持つ歴史の重みだった。

「二千年もキリストとして崇拝されているイエスは、たった一、二年しかキリスト教と関わらなかったんですね。それまで一般のユダヤ教徒にすぎなかった。シナゴーグに行くことはあっても、特に信心深いわけでなく、聖書を読んだこともないただの職人。イエスは、自分のしていたことを理解してたんですか? 小さな子役の子が、自分の出ている芝居の内容を理解していないようなものでは?」

「イエスは自分のしていることが、とても重要だとわかっていました」


 福音書に伝えられるイエスの姿のかなりの部分は、今目の前にいる人物が演じていたのではないか。イエス本人の語った言葉の大半も、彼が考え出したとしたら。その意味では、彼こそがイエス・キリストなのかもしれない、とハルミは思った。


「カリグラやネロはどうなんですか? 二人が根っからの悪人だと、私は思えないんです。イスカリオテのユダと同じで、悪役を演じていただけですよね?」

「私は、二人の皇帝とはあまり関わっていないので、本心はわからないです。光があれば闇があります。彼らは闇なのです。拝火教の流れを汲むキリスト教には闇が必要なのです」


 イエスの死後、ラファエルはペテロ、アズラエルはヤコブを受け持ち、宣教の旅をすることになったが、ヤコブは向いていないということでステファノに代わり、そのステファノも亡くなり、アズラエルは大嫌いなパウロの担当となった。イエスを本当の神の子だと思っている純朴なアズラエルが、思いこみの強いパウロと一緒にいたため、パウロはイエスを神格化し、天使より上の存在に祭り上げた。


 エリヤは、ミカエルが天使長になってから行う初の大事業の中心的役割を担う大預言者だった。彼にはバアル信仰を止めるだけではなく、南北統一という救世主的役割が計画され、そのために天使たちは奇跡を演出した。当時の状況では、南北統一は不可能だと思われたが、ミカエルは本気だった。

 それがエリヤの死で中断してしまい、監視係のラファエルのせいにされた。弟子のエリシャについては、ラファエルとアズラエルの二人で担当することになった。エリシャにエリヤの死を隠すため、ガブリエルはエリヤが天に召されるシーンを幻としてエリシャに見せた。


 エリシャの奇跡は、師エリヤの二倍と言われている。単純に奇跡を行う天使の数が倍になっただけの話だ。奇跡の内容がイエスのそれと酷似しているのも、奇跡を行う天使たちが同じなので当然だ。エリシャのときのコンビが、後に救世主としてのイエスを支えることになる。


「日本語には、若気の至りという言葉があるそうですが、私たちはエリシャの時はやりすぎました。あの頃、私とアズラエルはどれだけの奇跡が出来るか試し、互いに競いあっていました。それが原因で、今日、聖書を信じないひとたちが大勢います。私は、今の人間に神を信じて欲しいとは思いませんが、私たちの活動記録である聖書を否定されるのは、快く思いません」


 それからも伯爵の話は続いた。

 エリシャの死後、ヤロブアム二世の頃には北イスラエルは全盛期を迎え、南ユダもウジヤ王のもとで繁栄した。後は統一さえすれば、ソロモンの栄華が再び訪れる。だが、この頃、このままイスラエルが繁栄を取り戻しても、民に主のありがたみが伝わらないので、徹底的に没落させた後、主の御心に従うことで栄えるべきだと、ガブリエルが唱えるようになった。ミカエルもガブリエルに賛成し、ガブリエルは預言者アモスに北イスラエルの滅亡を予告し、預言通り北はアッシリアに滅ぼされた。

 伯爵は他にも、第三回十字軍に参加して、イスラムの動向を調べ、ガブリエルの様子を探ったことや、天使長エノクは幻が描けず、自分がモーセのいるシナイ半島まで付き添ったことなど、当事者にしかわからない事を教えてくれた。


 近代史に秘密結社が大きな役割を果たしていることは、公然の秘密である。薔薇十字団について質問しても、伯爵はあまり語ろうとしない。

「極秘事項ということですね」

「そう受け取ってもらって結構です」

「でも、目的についてはおおよそ見当がついています」

「お聞かせください」

「世界統一政府を創ろうとされているんですよね」

「どうしてそう思われたんです?」


「伯爵が、ジャンヌに啓示を授けたのは、単にフランス文化が好きだったからでしょう。それであなたは、かつてガブリエルがしてきたような政治情勢のコントロールが、自分でも充分できることに気づきました。フランス革命の頃のあなたには、明らかな政治的な意図を感じます。王政を廃し、民主主義を立ち上げ、アメリカを独立させ、共産主義を広め、大戦で英国を弱体化し、冷戦を作り出した。

 世界各地の王の力を弱めるには、民主主義だけで対抗するより、共産主義と民主主義の対立を作り出し、王制を蚊帳の外に置いたほうがいい。王の力をそぐことに成功すると、チェルノブイリで事故を起こし、ソビエトを弱らせ、冷戦を終わらせた。次の段階は、多国籍企業によって国家そのものの役割を減らし、最後には統一政府を創るんですよね。それが第六の獣として、世界を統治する」

 ガブリエルが古代に行ってきたやり方を、規模を拡大して、かつての部下が踏襲した。両者の違いは、ガブリエルは宣教が目的だったが、伯爵の動機はあくまで政治的なものであることだ。


「おおよそはお察しの通りです。国ごとに争うより、ひとつにまとまれば戦争もなくなりますから」 と伯爵は笑いながら言った。

 ハルミの推測をほぼ認めたが、細かい違いはあった。


「ジャンヌを見つけたのはアズラエルです。彼は、ドンレミにある教会の隣の娘が信仰心が厚く、毎日祈りを捧げていると感心していました。そのころ、フランスは危機的状況でした。私は、フランスのためでもなく、信仰のためでもなく、自分の能力を試すため、彼女を英雄に仕立てました。少女が一国を救うという奇跡はガブリエルでも行っていません。物資を船で運ぶとき風を吹かせるなどして、オルレアンを救いました。そこで私は満足し、手を引きました。

 アズラエルはなんとかジャンヌを救おうとしていたようですが、彼女は処刑されてしまいました。それでも彼は懲りずに、徳川時代の日本に行き、益田四郎という少年を使い、主の教えを広めようとしましたが、うまくいかなかったようです。私が代わりに行っていれば、日本は今頃、教会だらけになっていたことでしょう」


 島原の乱で知られる天草(益田)四郎は、長崎から帰った途端、鳩の卵から聖書を出し、歩いて海を渡り、秋に桜を咲かせるなどの奇跡を行ったという。四郎は宣教師ママコスによって誕生を予告されていた。

「当年より五々の数をもって天下に若人一人出生すべし。その稚子習わずして諸学を極め、天の印顕わるべき時なり。野山に白旗立て諸人の頭にクルスを立て、東西に雲焼る事有るべし。野も山も草も木も焼失すべきよし(末鑑)」


 宣教師と一緒に南蛮船に乗って日本にやってきた天使の一人は、予言にふさわしい年齢の子供を探した。長崎で四郎を見いだし、奇跡を起こし、信者を増やしていったのだろう。しかし、幕府は総力を挙げて、四郎の率いる切支丹を滅ぼした。翌年、幕府はポルトガルとの通商を絶ち、鎖国体制へ向かった。


 数万人が虐殺された大事件、それも仲間の天使が起こしたにもかかわらず、人ごとのように言う伯爵に、ハルミも冷静にいった。

「あなたはオクタビアヌスのように冷徹なところがあるみたいですね。その冷徹さで世界統一政府を実現しようとしているのに、今になってガブリエルが出現したことに驚いて、私に意見を聞くために、こうしてごちそうしてくれている。そうですよね?」


「さすがに、鋭いですね。おっしゃる通りです。なんのためにガブリエルが出てきて、イエスが再臨すると言ったのか、私にはさっぱりわかりません」

「私は見当がついています」

「え? そうなんですか」あっさりハルミが言うので、伯爵は驚いた。「是非、お聞かせください。お礼ならいくらでもします」

「はい。お話します。しかし、お礼はいりません」

 伯爵の財産ははかりしれないと、パリ社交界で噂になっていた。だが、ハルミはそのチャンスを自分から逃した。

「どうしてです?」


「包み隠さずお話しします。あのガブリエルは偽物です。私の知り合いの幽霊が、私の本の宣伝をするために、一芝居打ったのです」

「どういうことです?」

「世界が注目する中、偽イエスが出現して、私の本の宣伝をする手はずになっています」

 伯爵は大きく目を見開いた。心臓は無いのだが、心臓の動きが止まったように、全身が微塵も動かなくなった。その後、大声で笑い出した。

「ハハハ、いや、これは失礼。まさか、あなたの悪ふざけとは思いませんでした。あまりのくだらなさに笑うほかはないですな」

「お好きなだけ笑ってください。でも、ガブリエル本人を知っている伯爵が騙されるとは不思議です。本物と似ていたんですか」

「ガブリエルは人前に出るときは、姿を変えることが多いです」


 疑問が解決すると、伯爵は欲を出してきた。

「もしよろしければ、その宣伝に私も協力させてもらえませんか」

「何が目的です?」

 相手は国際的陰謀の総元締めだ。当然、ハルミは警戒した。

「目的などありません。イエスの再臨には天使がつきものです。お知り合いの幽霊の方だけでは、迫力に欠けるのではありませんか」

「そういわれてみれば、そうですね……」

 ハルミは伯爵の提案を検討した。

 彼女が迷っているので、伯爵は自分の能力を誇示することにした。

「実は」

 伯爵がそう言った瞬間、店内の様子が一変した。広々とした真新しいフランス料理店は、狭くて小汚い洋食屋に一変した。テーブル席は三つしかなく、すぐ横は壁で、マジックペンで書かれたメニューの紙がべたべたと貼られていた。カウンターにジェイコブがタバコをふかしながら座っている。カウンターの向こうはすぐ厨房で、老夫婦二人で店を切り盛りしているようだ。正面はガラス戸で表が丸見えだ。駐車場は二台駐めれば一杯になり、ベンツには誰も乗っていない。


「これって幻だったってこと? どこからどこまでが嘘なの?」

「料理は本物です。安い店で騙そうとしたわけではありません。ここは知る人ぞ知る名店ですが、初対面のレディとお食事をするにはふさわしいとは思えず、高級感を演出したのです。庶民的なメニューですが、三代目のご主人は若い頃、フランスで修行して、コース料理も絶品です。と、そのフランスの店の料理長が言っていたのを、私は耳にしました。お味のほうは、お気に入られたと思いますが」

「あの美人ウェイトレスはあのお婆さん?」

 ハルミは厨房を見て驚いた。

「私と一緒に来た強面の二人は?」

「私と彼です」

 カウンターの外人は彼女のほうを見て、にこりと頷いた。

「それから、車に乗っている間の、窓の外の景色も作り物です」

「それでどの街か、わからなかったんだ……イエスやムハンマドが周囲の景色が変わっていったのを見て、エルサレムまで本当に行ったと錯覚したのもわかるわ……」

 ハルミは、天使の幻影投影のすごさに圧倒された。

「これほどのものだったんですか……、わかりました。お力をお借りします。ただし、変な陰謀はなしですよ」

「当然です。純真な天使に陰謀など似合いません」


 それから、ハルミは伯爵と再臨の具体的な打ち合わせをした。翌日にはアマテラスを紹介し、伯爵とアマテラスは本番に向けて、亀戸公園で練習に励んだ。というより、伯爵が一方的にアマテラスを指導した。特訓の成果があり、アマテラスは強い輝きを放ち、空中に浮き上がることができるようになった。

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