第24話 アル ネーロ ディ セッピア

 いつもの俺なら、羽田さんにも藻原さんにも同情を寄せただろう。これまで辛かって、大変だったねって。でも、俺にそんな余裕はこれっぽっちもなかった。だから俺の口調はむしろ乾いて、すごく尖っていたと思う。


「僕だけ偉そうに。そんな風に思われるのはまっぴらです。壊れかけてるのは僕も同じ。これからげろします。もう……限界ですから」


 まず、中途半端な距離を思い切り離しておこう。


「あのね、羽田さん、藻原さん。僕のあだ名は、子供の頃からずーっと『ゾンビ』でした。もし僕が羽田さんのアプローチを受け入れて、羽田さんの隣に僕が並んだ時。おまえのカレシはゾンビかと言われて嬉しいですか?」

「う……」

「羽田さんは、僕が入社した時にもう課室におられました。僕のへろへろな仕事ぶりに熱い指導が入ることはあっても、好意のかけらも感じたことはありません」


 ぎん! きつい視線を飛ばす。


「言っちゃ悪いけど、僕は最初から問題外。僕だけじゃない。河岸だってそうでしょ。ぼけっぱあでぴよぴよひよこの頼りない僕らは、最初から羽田さんの恋愛対象になんかならないですよ。しかも、誰もが認めるゾンビ顔の僕にさ。それが、いきなりどうよって言われても、ねえ。僕がなんでって聞いたのはおかしいですか?」


 もし羽田さんに本当に僕に対する好意があったにしても。タイミングも伝え方も最悪だったと思う。それが、本当は恋愛不器用な羽田さんだからだとしても、ね。


「同じことを、藻原さんにも言っとく。もし僕と付き合うってことになったら、それは絶対避けて通れないよ? あんたのカレシ、なに? あのゾンビみたいのって」

「そんなことないっ!」


 黙っちゃった羽田さんと違って、藻原さんのリアクションはストレートだった。


「そんなのどうでも……どうでもいい……どうでもいいの」


 ふう。


「それは後にして。僕が言いたいのは、げろしたいのは、そういうことじゃないんだ」


 テーブルの上で手を組む。祈るように。


「あのね、なんで僕がお人好しなのか。二人とも、考えたことがあります?」


 羽田さんと藻原さんが顔を見合わせた。


「羽田さんも藻原さんも、自分の抱えてるコンプレクスをどうやってカバーするか、自分の見せ方を工夫してる。それがうまく行ってるかどうかはともかく」

「うん」

「はい」

「僕だってそうですよ。この顔が元で起こる迫害から逃れるためには、僕はいい人にならざるを得ない。押しに弱いお人好し。ねえお願いって頼み込めば、しょうがないなあとやってくれる。そういう人にね」

「あ……」


 二人の口から言葉が出てこなくなった。俺は、真っ黒な墨を吐き続けた。


「それは、本当の僕じゃない。いい人でありたいとは思うけど、僕自身は決していい人なんかじゃない。でもね、そういう真っ黒な自分をどこにも出せない。出したが最後、僕が切れる切り札は一つもなくなるから。僕が生き残るには、いい人であるしかないんです」


 羽田さんと藻原さんの顔を、交互に睨んだ。その視界がぼやけてきた。


「贅沢ですよ。誰をも魅了する容姿を持っていて、それだけで評価してくれる人がいて。なのに、ないないないないと文句を言うなんて。もし、僕のが顔色じゃなくて火傷の跡とかあざとかなら、僕は躊躇しないで整形します。それが僕の最大にして、どうしようもないコンプレクス。それさえなければ」


 組んだ両手が、怒りと悲しさでぶるぶる震えた。


「僕は自分を無理やり切り売りしないで済む。済むん……ですから」


 今の今までずっと心の奥底に畳んだまま、一度も口に出したことがなかった俺の真っ黒な怨嗟。それは、死ぬまで誰にも話すつもりはなかった。なかったさ。だけど、もう限界。俺が自分のコンプレクスを隠すためにとってきた処世術が、今になってここまで自分の首を絞めるなんて予想してなかったんだ。俺も、藻原さんが直面しちゃったシチュと全く同じだったんだよ。俺のはどうしようもなく先のない処世術だったんだ。

 乞食営業は死んでもやりたくない。そう言ってる俺の生き様が、乞食そのものになってしまっていた。藻原さんの意固地にも見える自己防衛の対極に俺がいて。藻原さんがむしろ羨ましく思えてしまう。ああ、俺もあれくらい徹底的に意地を張れたらなあって。


 でも、もう遅い。今手のひらを返してしまうと、俺が苦労して勝ち取ってきた評価が全部地に堕ちる。俺は自分を切り崩す生き方しか出来なくなってるんだ。細貝課長が俺に強引に押し付けたことは、俺にとっては死刑宣告だったんだよ。


 俺は、いろんなしがらみでがんじがらめになってて窒息しそうだ。溺死しそうだ。この前見続けた悪夢。生きながらイソギンチャクに食われる俺。あれは夢なんかじゃない! 現実の俺そのものだったんだよ。そんな俺に向かって、助けてくれだって? 助けて欲しいのは俺の方だっ!


 さすがに、男泣きはしたくないなと思った。でも、そういうかっこ付け以前に、涙は勝手に家出していった。もう限界……限界だ。






(アル・ネーロ・ディ・セッピアは、イタリア語でイカ墨のこと。ソースの風味付けなどに用いられる)


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